第103話 六十一人を殴った男が、殴らない方法を作る
【建興三年|成都】
張飛に、新兵教練の総監を頼んだ。
三年前まで、部下を殴っていた人である。
そして、この人は、こう言った。
「俺を、掲げろ」
◆
建興三年。黄忠が死んだ、その月である。南征の、出発準備が進んでいた。
そして、俺は巴西へ使いを出した。張飛は、三日で来た。閬中から、成都までである。普通は、七日かかる。
「阿斗!」
「翼徳叔父上」
「南へ行くのか」
この人は、そのために来た。
「行きません」
「なぜだ!」
「丞相が行きます」
「俺は!」
俺は、答えた。
「別の仕事です」
「巴西は」
この人は、聞いた。
「太守は、そのままです」
「うむ」
「そして、もう一つ、お願いします」
俺は、竹簡を置いた。そして、こう書いてある。
《新兵教練 総監》
張飛は、それを読んだ。この人は、字が読める。下手だが、読める。
そして、しばらく黙っていた。やがて、言った。
「……阿斗」
「はい」
「俺は、殴った男だぞ」
「知っています」
「六十一人だ」
俺は、そこで、動きを止めた。
六十一である。俺の簿の数と、同じだ。
十五年前、公安の練兵場で、俺は木簡を一枚おろした。
《殴られた者》
一行目に、王阿三と書いた。三歳の字である。半分が、仮名だった。
そして、この人も、数えていた。同じ数である。一人も、ずれていない。
「叔父上」
「うむ」
「いつから、数えておられますか」
張飛は、答えた。
「十一年前だ」
十一年前。建安十九年である。成都が落ちた年だ。
あのとき、この人は俺に、泥だらけの竹簡を見せた。字が、恐ろしく下手だった。そして、六つの名前が書いてあった。
「俺が、殴った者だ」
「一年で、六人だ」
そして、俺は聞いた。
「その前の年は、阿斗の簿では、何人だった」
「にじゅうご」
「減ったな」
あのとき、俺は数を答えた。そして、この人は、それを聞いて、自分でも数え始めた。
十一年、俺はそれを知らなかった。
「叔父上」
「うむ」
「最後は、いつですか」
この人は、即答した。
「三年前の、三月だ」
范彊と張達である。この人が、二人に謝った月だ。
そして、三年、誰も殴っていない。
◆
「叔父上」
「うむ」
「六十一人を殴った人が、殴らない方法を作れば」
「……」
「誰も、言い返せません」
張飛は、しばらく黙っていた。そして、こう言った。
「……逆だ」
「え」
「阿斗」
この人は、俺を見た。陛下、とは言わなかった。
「殴った男が作れば」
「はい」
「皆、『あの人は変わった』と申す」
「……」
「そして、自分は変わらぬ」
俺は、そこで、動けなくなった。
正しい。
前世で、俺は何度もこれを見た。不祥事を起こした部署に、再発防止を作らせる。そして、その部署は、本気で作る。
そして、他の部署は、見ているだけになる。
「あそこは、大変だな」
「うちは、大丈夫だ」
そして、二年後、別の部署が、同じことをやる。
十五年、俺はこの人に策を教えてきた。そして、この人が俺の策の欠陥を指摘したのは、初めてである。
「叔父上」
「うむ」
「では、どうすればよいですか」
張飛は、答えた。この人が、俺に策を出したのは、初めてだった。
「俺を、掲げろ」
「……掲げる?」
「うむ」
「何を、ですか」
この人は、言った。
「六十一を、だ」
「数を、ですか」
「うむ」
「——」
「教練場の門に、書いて掲げろ」
俺は、そこで、息を呑んだ。
「叔父上」
「うむ」
「それは」
言葉が、出なかった。
恥である。この人は、漢の右将軍だ。そして、六十一人を殴ったことを、門に書けと言っている。
「恥になります」
俺は、言った。張飛は、答えた。
「なる」
「……」
「だから、効く」
そして、この人は、こう続けた。
「阿斗」
「はい」
「規則を作っても、皆、守らぬ」
「はい」
「俺が守らなんだ」
「——」
「三十年、軍法に『兵を傷つけるな』と書いてあった」
「……」
「読んだことがある」
「——」
「そして、殴った」
俺は、そこで、軍法の竹簡を思い出した。
ある。確かに、ある。そして、十七年、誰も数えていない。
書いてあるだけの条文が、この国には、たぶん、何百とある。
「叔父上」
「うむ」
「掲げれば、どうなりますか」
張飛は、答えた。
「教える者が、門を通る」
「はい」
「毎朝だ」
「はい」
「——」
「そして、自分の数を、思い出す」
俺は、そこで、理解した。
六十一は、張飛の数である。そして、門を通る者は、全員、自分の数を考える。
三人か。十人か。ゼロか。そして、ゼロの者は、少ない。
規則は、読まなければ効かない。数は、見れば効く。
◆
【新兵教練 規定】
総監 張飛
一 教練における殴打を、禁ずる
二 教練者は、着任時に、
自らが過去に殴った者の数を申告する
三 二の数は、教練場の門に掲示する
四 申告しない者は、教練者となれない
五 「三度立った者」を、記録する
備考
総監の申告数 六十一
備考の一行が、いちばん下にある。そして、これを書いたのは、俺ではない。
五番目は、俺が入れた。
十五年前、王阿三が三度立った。そして、それを見ていたのは、三歳の俺だけだった。
着任の日。教練者が、十九人集まった。そして、申告が始まった。
「三人」
「七人」
「十二人」
「二人」
「……分かりませぬ」
張飛が、聞いた。
「なぜ、分からぬ」
その男は、答えた。
「数えておりませぬゆえ」
張飛は、しばらく黙った。そして、こう言った。
「……多いということだ」
「……」
「少なければ、覚えておる」
その男は、申告を保留した。そして、三日かけて、思い出した。三十四人である。そして、門に、掲げられた。
三日である。この人は、三日、思い出す作業をした。そして、たぶん、それがいちばん効いた。
一月後。申告を拒んだ者が、二人いた。そして、教練者から外れた。自ら、辞した。
「翼徳叔父上」
「うむ」
「二人、辞めました」
張飛は、答えた。
「知っておる」
「……」
「多かったのだ」
そして、この人は、こう付け足した。
「辞めてよい」
「はい」
「教える者が、嘘をつけば」
「——」
「習う者も、嘘をつく」
◆
三月後。数字が、出た。
【新兵教練 三月】
教練対象 新兵 二千三百
殴打件数 ——
備考
ゼロではありません。
「記録なし」です。
記録なし。そして、その備考を書いたのは、陳紀である。
「陳紀どの」
「陛下」
「ゼロと、記録なしは、違いますか」
この人は、答えた。誤記発見九十一である。
「違います」
「はい」
「ゼロは、数えて、無かったということでございます」
「はい」
「記録なしは、数えていないということでございます」
「——」
「今は、後者でございます」
俺は、そこで、自分の失敗に気付いた。
規定に、書いていない。「殴った数を申告する」とは書いた。そして、殴らなかった数を、数える方法を、書いていない。
十五年前、犍為郡で学んだはずだった。
《測ると、測ったものが増える》
《測らないものは、壊れる》
俺は、張飛に言った。
「叔父上」
「うむ」
「規定を、一つ足します」
「なんだ」
俺は、言った。
「殴りかけて、止めた数を、記します」
張飛の動きが、止まった。そして、こう言った。
「……阿斗」
「はい」
「それは、辛いぞ」
「はい」
「殴るより、辛い」
俺は、聞いた。
「叔父上は、いくつですか」
この人は、答えた。即答だった。
「三年で、四百七十二だ」
俺は、その数字を、二度聞いた。
四百七十二。三年で、である。一年に、百五十七回。
二日に一度、この人は殴りかけている。
「叔父上」
「うむ」
「数えておられたのですか」
張飛は、答えた。
「数えねば、止められぬ」
「——」
「止めるたびに、石を一つ、袋へ入れておる」
そして、この人は、懐から袋を出した。重かった。
三年前、この人は俺に、石を一つ渡した。
「袋は、自分で作れ」
そして、俺の袋には、いま、十一入っている。
【新兵教練 規定 追加】
六 殴打を思いとどまった数を、記録する
七 六の数は、掲示しない
備考
六は、本人のみが持ちます。
誰にも見せません。
掲示しない。その一行は、張飛が言った。
「叔父上」
「うむ」
「なぜ、掲げないのですか」
この人は、答えた。
「掲げれば、多い者が偉くなる」
「——」
「我慢した数が、多いということは」
俺は、そこで、自分の間違いに気付いた。
十九年前から、俺は同じことを言ってきた。測ったものは、良くなる。だから、数える。
そして今日、この人が言ったのは、その先である。
測ることと、掲げることは、別だ。
測るのは、こちらが状態を知るためである。掲げるのは、皆に競わせるためである。同じ数でも、置く場所を変えると、意味が変わる。
我慢した数は、測る数だ。本人が、自分の進み方を見るための数である。
それを壁に貼れば、いちばん多い者が偉くなる。そして、我慢した数がいちばん多い人間とは、いちばん殴りたい人間のことである。
前世で、俺はこれを何度もやった。件数を貼り、率を貼り、順位を貼った。貼るのは簡単で、効いた気がした。
そして、貼った数字は、必ず、貼るのに都合のいい形へ寄っていった。
「はい」
「——」
「殴りたい奴だということだ」
俺は、その一行を、木簡へ書き取った。
測るべきものと、掲げるべきものは、違う。
十五年、俺は測ることを考えてきた。そして、掲げるかどうかを、考えていなかった。
◆
一年後。数字が、出た。
【新兵教練 一年】
教練対象 新兵 八千七百
殴打件数 十一
うち、教練者による 三
うち、新兵同士 八
思いとどまった件数(総監分) 百四十一
備考
前年比、殴打件数 九十四%減
九十四パーセント減。そして、三件である。教練者が、三人、殴った。
「叔父上」
「うむ」
「三件、ありました」
張飛は、答えた。
「知っておる」
「……」
「三人とも、自分で申し出た」
「——」
「門の数が、変わる」
「……はい」
「隠せば、嘘になる」
俺は、そこで、この制度が回っていることを知った。
掲示が、変わる。だから、隠せない。そして、申告する。
報告者を罰しない、と俺は十七年前に決めた。夏口で、倉庫番が鼠害を隠した日である。
そして、この制度は、隠す方が損になるように、作ってある。
罰しないだけでは、足りなかった。隠せない形にして、初めて、報告が出る。
その夜、俺は木簡を出した。
《殴られた者》
十五年で、六十一人である。そして、三年前で、止まっている。
俺は、その簿の最後に、一行書いた。
《三年前で、止まった》
そして、その下に。
《止めたのは、書いた人ではない》
《殴った人だ》
最後に、俺は別の木簡を出した。先月、作ったばかりである。
《渡したもの》
一行目に、黄忠。
《六十を過ぎた者の、使い方》
俺は、その下に、二行目を書いた。
張飛
《殴らない方法》
そして、その横に、小さく書き足した。
《ただし、掲げるのは、殴った数だけ》
◆
規定を、丞相へ回した。南征から戻って、三月である。
諸葛亮は、六番目で止まった。
《六 殴打を思いとどまった数を、記録する》
《七 六の数は、掲示しない》
「陛下」
「先生」
「七番目は、翼徳どのが申されましたか」
「はい」
諸葛亮は、頷いた。そして、こう言った。
「正しゅうございます」
「理由を、伺ってよろしいですか」
この人は、答えた。
「我慢した数を掲げれば」
「はい」
「多い者が、偉くなりますゆえ」
「翼徳どのは、そう申されました」
「——」
「そして、もう一つ、ございます」
「何でしょう」
諸葛亮は、こう言った。
「掲げれば、嘘をつきます」
「……」
「——」
「自分しか知らぬ数は、嘘をついても意味がございませぬ」
「そして、人に見られる数は、必ず増えます」
俺は、そこで、一つ気付いた。
十四年前、犍為郡で学んだ。測ると、測ったものが増える。
そして、見られる数だけが、増える。
「先生」
「はい」
「あなたの数は」
諸葛亮は、羽扇を止めた。
「何の、でございましょう」
俺は、答えた。
「やめようとして、やめなかった数です」
長い沈黙があった。そして、この人は、こう答えた。
「数えておりませぬ」
「……」
「——」
「数えれば、やめねばなりませぬゆえ」
俺は、そこで、それ以上聞かなかった。
翼徳叔父上は、石を袋へ入れている。そして、この人は、数えていない。
同じ人の、逆である。片方は、数えることで止めた。そして、もう片方は、数えないことで続けている。
翼徳叔父上は、八年後に死ぬ。そのとき、六十八である。
そして、このときの俺は、まだ知らない。担ぐのが、誰になるかを。
〈あとがき〉
「殴った男が作れば、皆『あの人は変わった』と申す。そして、自分は変わらぬ」——十五年、策を教えてきた相手が、初めて主人公の策の欠陥を指摘します。
「俺を、掲げろ」「六十一を、だ」。規則は、読まなければ効きません。数は、見れば効きます。
「掲げれば、多い者が偉くなる。我慢した数が多いということは、殴りたい奴だということだ」——測るべきものと、掲げるべきものは、違います。
そして「数えておりませぬ。数えれば、やめねばなりませぬゆえ」。片方は数えることで止め、もう片方は数えないことで続けています。
《劉禅文庫 再読『マーケティング・マネジメント』——測ることと、掲げることは、別である。同じ数でも、置く場所を変えると意味が変わる》
次回、南征。城ではなく、心を攻めます。




