第100話 攻めても、保てないという意味です
【建興二年|成都】
国是を、四行で書いた。
そして、その四行目より、備考のほうが長くなった。
理由は、一つである。永久に攻めぬと書けば、臣が考えなくなるからだ。
◆
建興二年の春。直百銭を戻すと決めた、その翌日である。
前の夜、劉巴が地図に線を引いた。漢中のあたりである。
「ここまででございます」
そう言って、この人は筆を置いた。
「これより北は、取っても保てませぬ」
俺は、その線を、一晩見ていた。
取れませぬ、ではない。保てませぬ、である。そして、この二つは、まったく違う。
取れないなら、諦めるしかない。保てないなら、保てるようにする道がある。
明け方までに、四行書いた。十七歳の字である。もう、崩れない。
◆
評定には、十九人いた。
諸葛亮。四十四。龐統。四十五。法正。四十八。劉巴。三十九。
そして、末席に馬謖がいた。三十四である。越巂の太守に決まったばかりで、来年の南征に随行することになっていた。
「皆に、示すものがあります」
俺は、竹簡を三本、床へ並べた。広間の床は、石である。竹簡が触れると、乾いた音がした。
一本目。三国の口。二本目。兵の数と、動員率。三本目。地図。
三本目には、赤い線が一本引いてある。昨夜、劉巴が引いたものだ。
十九人が、順にそれを覗き込んだ。そして、しばらく誰も口を開かなかった。
数字は、読めば分かる。そして、読んで分かるものほど、誰も口に出さない。
口に出せば、それを言った人の意見になるからだ。
最初に喋ったのは、法正だった。四十八である。去年から、咳が止まらない。そして、敵情の職掌を持っている。
「陛下」
「孝直どの」
この人は、三本目の地図を指した。指先が、赤い線の上で止まった。
「これは、攻めるなという意味でございますか」
広間が、静かになった。
この人が聞かなければ、誰も聞かなかっただろう。そして、聞かないまま、全員が「攻めるな」と受け取っただろう。
そのほうが、俺にとっては都合がいい。反対されずに、方針が通る。
だから、聞かれてよかった。都合のいい誤解は、必ず、あとで請求書が来る。
「違います」
俺は、答えた。
「では、何でございましょう」
「攻めても、保てないという意味です」
法正は、少し笑った。皮肉な笑い方である。十四年前、庭の土に手をついた人が、同じ顔で笑うようになった。
「同じでございましょう」
「違います」
俺は、首を振った。
「攻めるなら、保てる方法を先に作ります」
「では、いつ作られますか」
「今日から」
◆
俺は、三つ挙げることにした。一晩、順番を考えた。いちばん重いものを、最後に置く。前世で覚えた、たった一つの発表の技術である。
「一つ目」
俺は、二本目の竹簡を指した。
「人が、足りません」
「兵は、十万おります」
法正が言う。
「はい」
「そして、九人に一人が兵です」
俺は、劉巴を見た。この人は、頷いた。そして、答えた。
「魏は、十一人に一人でございます」
「呉は」
「十人に一人」
広間が、少しざわついた。
我らのほうが、高い。そして、それに気付いていた者は、たぶん、劉巴一人である。
この人は、九年前から数えていた。そして、聞かれなかったので、言わなかった。
「では、増やせぬのか」
龐統が聞いた。この人は、酒杯を持ったままである。評定中だが、十四年、誰も止めていない。
「増やせます」
劉巴が答えた。
「そして、一万増やせば、三万の田が荒れます」
「なぜ三倍だ」
「兵は、働き盛りを取りますゆえ」
「一人抜けると、家が回りませぬ」
「老いた親と、子が残ります」
龐統は、そこで酒杯を置いた。
この男が評定で杯を置くのは、十四年で三度目である。一度目は、三千斛が腐った日。二度目は、七歳の子が「南に人がいない」と書いた日。
そして、今日だった。
「二つ目」
俺は、三本目の地図を指した。
「運べません」
「桟道はございます」
「はい」
「そして、距離が倍になれば、費えは三倍です」
俺は、劉巴の竹簡を読み上げた。
成都から漢中まで、千里。成都から隴右まで、二千里。そして、輸送の損耗は、三割から五割へ上がる。
「なぜ、比例せぬのだ」
龐統が聞いた。この男は、数字の理由を必ず聞く。
「運ぶ者も、食べますゆえ」
劉巴が答えた。
「そして、遠いほど、運ぶ者の分が増えます」
「千里なら、糧の三割が、運ぶ者の口に入ります」
「二千里なら」
「五割でございます」
半分である。運んでいるのか、食べているのか、分からなくなる。
「漢中より北は」
俺は、言った。
「取ったほうが、弱くなります」
それが、赤い線の意味である。
「三つ目」
俺は、そこで一度、息を吸った。十七歳の肺で、大きく吸った。そして、言った。
「一度負けると、終わります」
広間が、静まり返った。誰も、動かなかった。
劉巴が、口を開いた。社交八の男である。そして、こういうときだけ、必ず喋る。
「魏は、十度負けても終わりませぬ」
「はい」
「補えますゆえ」
「四百四十万でございます」
この人は、そこで俺を見た。
「一万減っても、気付きませぬ」
そして、こう続けた。
「我らは、九十四万でございます」
「はい」
「一万減れば、村が消えます」
村が消える。数字では、一万である。そして、地図の上では、村の名前が消える。
陳紀が、そこで筆を止めた。この人は、地図の名前を管理している。
俺は、法正を見た。
「孝直どの」
「はい」
「同じ戦をして、勝てますか」
この人は、長いこと黙っていた。咳を、二度した。馬良が、湯を持っていった。そして、答えた。
「一度なら」
「はい」
「十度は、無理でございます」
この人が「無理」と言うのを、俺は初めて聞いた。
私怨百の男である。そして、無理という言葉を、生涯で最も嫌う人だった。
二十二年、この人は「無理だ」と言われ続けた。そして、一度も、それを認めなかった。
◆
「では、方針を示します」
俺は、四本目の竹簡を出した。昨夜、書いたものである。四行しかない。そして、備考のほうが長い。
【国是】
一 領土を、増やさない
ただし、失わない
二 人を、増やす
人が死なない仕組みを、先に作る
三 人を、育てる
登用の道を、家柄によらぬ形にする
四 富を、蓄える
戦のために使う分を、先に決める
備考
一は、永久ではありません。
二・三・四が整えば、改めます。
法正が、それを読んだ。そして、備考のところで、指を止めた。
「陛下」
「はい」
「備考は、なぜでございましょう」
俺は、答えた。
「永久に攻めぬと書けば、臣が考えなくなります」
「……」
「そして、条件を書けば、条件を満たそうとします」
法正は、そこで、笑った。今度は、皮肉な笑い方ではなかった。十四年で、初めて見る顔だった。
「陛下」
「はい」
「それは、攻めるための方針でございますな」
俺は、答えた。
「三十年かかります」
「……」
「そして、私は三十年後に四十七です」
法正は、七十八になっている計算だった。この人は、それを言わなかった。代わりに、こう言った。
「では、書き足しておきます」
「何を」
「魏の将の、歳を」
「三十年後に、誰が残っているかが分かりますゆえ」
敵情分析百の男が、最後に手をつけたのが、歳の表だった。
そして、この表は、四年後、俺の役に立つ。
諸葛亮が、羽扇を止めた。四十四である。去年から、髪に白いものが混じり始めた。
「陛下」
「先生」
「一つ、伺ってよろしいか」
「どうぞ」
この人は、二行目を指した。
「『人が死なない仕組み』とは、何でございましょう」
俺は、答えた。
「数えることです」
「……数える」
「はい」
「去年、輸送で死んだ者を数え始めました」
「存じております」
「そして、まだ、何人か分かりません」
諸葛亮は、羽扇を膝へ置いた。俺は、続けた。
「戦って死んだ者は、数えています」
「はい」
「運んで死んだ者は、数えていませんでした」
「……」
「病で死んだ者も、凍えて死んだ者も」
「そして、道で置いていかれた者も」
広間が、静かになった。
置いていかれた、という言葉に、何人かが顔を上げた。そういうことがある、と全員が知っている。
そして、簿には載らない。載せる欄がないからだ。
やがて、諸葛亮が、こう聞いた。
「陛下」
「はい」
「数えれば、死ななくなりますか」
俺は、答えた。
「なりません」
「……」
「そして、数えなければ、減りません」
諸葛亮は、しばらく黙っていた。そして、こう言った。
「……十五年前」
「はい」
「若君は、夏口で同じことを申されました」
十五年前である。俺は一歳で、まだ喋れなかった。そして、指で数を示した。
「私は、あのとき」
諸葛亮は、羽扇を見ていた。
「赤子が数を数えていると思いました」
「……」
「今は、違うと存じております」
「何だと、思われますか」
この人は、答えた。
「数える者が、一人おれば足りると思うておりました」
「はい」
「——」
「今は、二人要ると存じております」
◆
国是が、決まった。四行である。署名は、九人だった。
諸葛亮。龐統。法正。劉巴。董允。蔣琬。馬良。郤正。そして、俺。
反対、なし。
執行評議の規定により、反対理由も記録される。そして、この日は、白紙だった。九年で、五度目である。
ただし、一人だけ、納得していない者がいた。
評定が終わって、皆が出ていく。回廊を歩く音が、まばらになっていった。
そして、馬謖が残った。三十四である。越巂へ発つのは、来月だった。
「陛下」
「幼常どの」
この人は、拝礼して、こう言った。
「一つ、伺ってよろしいか」
「どうぞ」
「三十年、待つ間に」
「はい」
「魏も、強くなりませぬか」
正しい。そして、広間で誰も言わなかったことである。
法正は、気付いていただろう。劉巴も、龐統も。そして、言わなかった。
署名した後だからだ。署名した者は、その日はもう反対しない。
それが、制度の欠点である。そして、俺が二年前に作った欠点である。
「強くなります」
俺は、答えた。
「……」
「我らより、速く」
馬謖の目が、少し細くなった。
「では、差は開きます」
「開きます」
この人は、そこで一歩前へ出た。三十四である。そして、この人は賢い。諸葛亮が最も高く評価している男だ。
「陛下」
「はい」
「では、今攻めるべきでございます」
◆
俺は、その場で竹簡を一本、取り出した。去年のものである。帯に挟んでいた。朝から、ずっと持っていた。
そして、渡した。
《東方大演習 戦死・行方不明 一万三千》
「幼常どの」
「……はい」
「一昨年です」
「はい」
「四十一日で、一万三千死にました」
俺は、続けた。
「勝っておりません」
「……」
「負けてもおりません」
「予定どおり、退きました」
馬謖は、その竹簡を見ていた。そして、何も言わなかった。
「幼常どの」
「はい」
「今攻めれば、何人死にますか」
この人は、答えられなかった。
三十四である。馬良の弟で、諸葛亮の弟子だ。数字を出せない相手ではない。
それでも、答えられなかった。誰も、数えたことがないからだ。
「分かりません」
俺は、言った。
「……」
「私にも、分かりません」
「そして、それが、一つ目の条件です」
馬謖が、顔を上げた。
「人が死なない仕組み、でございますか」
「違います」
「……」
俺は、答えた。
「何人死ぬか、先に分かる仕組みです」
馬謖は、そこで、長いこと黙っていた。回廊の外で、荷車が石畳を跳ねていた。去年より、音が多い。市が、戻ってきている。
やがて、この人は聞いた。
「陛下」
「はい」
「それが分かれば、攻められますか」
俺は、答えた。
「攻めます」
そして、こう続けた。
「そして、そのとき」
「はい」
「あなたが、決めてください」
馬謖は、膝をついた。石の床である。音が、した。そして、こう言った。
「承りました」
顔を上げたとき、この人は笑っていた。
三十四である。兄が白眉と呼ばれ、自分は「才器過人」と評され、そして、まだ一度も、大きな仕事を任されていない。
たぶん、生涯で最も嬉しかった日だった。
◆
その夜、俺は木簡を出した。そして、書いた。
《領土を、増やさない》
その下に。
《これは、諦めではない》
そして、その下に。
《三十年後に、条件を満たすためだ》
俺は、そこで筆を止めた。
三十年後。二五四年である。そして、そのときの俺は、まだ知らない。
条件の一つ目——人が死なない仕組み——が、十年で整うことを。そして、残る三つに、三十年では足りないことを。
最後に、俺はもう一行書いた。
《幼常どのに、決めさせると言った》
そして、その下に。
《いつになるかは、言っていない》
四年後。この人は、街亭で山へ登る。そして、そのときの俺は、今日の約束を思い出すことになる。
「あなたが、決めてください」
そう言ったのは、俺である。
〈あとがき〉
「攻めるなという意味でございますか」「攻めても、保てないという意味です」——取れないなら諦めるしかありません。保てないなら、保てるようにする道があります。
備考のほうが長い国是。「永久に攻めぬと書けば、臣が考えなくなります。そして、条件を書けば、条件を満たそうとします」。
前世で、俺は小さな国の記録を読んだことがある。人口が少なく、資源がなく、周りが全部大きい国だった。
その国を作った人は、生涯、同じことを言い続けていた。我々は、大国のように振る舞う余裕がない。
余裕がないというのは、負けられないという意味である。大国は、政策を三つ試して、二つ失敗しても残る。小さい国は、一つ失敗すると消える。
だから、その人がやったのは、勇ましいことではなかった。
負けない条件を、先に数え上げることだった。水はどこから買うか。人はどう育てるか。組んではいけない相手は誰か。全部、紙に書いてある。
俺は、その記録を読んだとき、退屈だと思った。理念がなく、算術ばかりだったからである。
いま、同じものを書いている。
四行の下に、備考が長く続く国是である。理念は四行で足りる。足りないのは、いつも、条件のほうだ。
「数える者が、一人おれば足りると思うておりました。今は、二人要ると存じております」——十五年、この人も同じことを考えていました。
そして馬謖。「三十年、待つ間に、魏も強くなりませぬか」。誰も言わなかったことを、署名しなかった一人だけが言いました。
「あなたが、決めてください」。四年後、この人は街亭で山へ登ります。
《劉禅文庫 蔵書その四十九『リー・クアンユー回顧録』——大国は三つ試して二つ失敗しても残る。小さい国は、一つで消える。だから、負けない条件を先に数える》
次回、軍神に、退き方を教えさせます。




