第八話 本音がこぼれる夜
あの夜以来、カインとの間には、薄い膜のような気まずさが漂っていた。
(聞いちゃいけないことを、聞いてしまった気分)
必要な会話はする。だが、それ以上には踏み込まない。そんな日々が数日続いていた。
その日の午後、リディアは書斎に忘れた本を取りに戻ろうとして、思わず足を止めた。
半開きの扉の向こうに、見知った白銀の髪があった。
大神官セラフィナが、カインと向かい合って立っている。
「──期限は、そう長くありません。分かっていますね、レイヴンズウッド卿」
セラフィナの声は、いつもの穏やかさの中に、僅かな圧を滲ませていた。
「……分かっている」
カインの声も、いつになく硬い。
「あなたが抱えているものが何であれ、神殿の意向には従っていただきます」
「約束は守る」
それだけ言うと、セラフィナは静かに部屋を出て行った。
すれ違いざま、彼女の視線がリディアを一瞬だけ捉えたが、何事もなかったかのように微笑み、去っていった。
(今の何?約束って何の話)
その夜の夕食は、これまで以上に重い沈黙に包まれていた。
「……今日、書斎の前にいたな」
先に口を開いたのは、カインの方だった。
「聞くつもりはありませんでした。たまたま、通りかかっただけです」
「そうか」
「でも、聞こえてしまいました。"約束"って、何のことですか」
「言えない」
即答だった。にべもない言い方に、リディアの中で、これまで抑えていた何かが弾けた。
「いつもそうです。"いずれ話す"、"今は言えない"。それで、私にどうしろと言うんですか」
「……」
「お兄様のことも、神殿とのことも。あなたは何も話してくれない。それでいて、庇ったり、優しくしたり……そのくせ肝心なことは何も」
言葉にするほど、自分でも制御できないくらい、感情が溢れ出してくる。
「都合の良い時だけ、優しくしないでください」
言ってしまってから、リディアは自分の言葉に傷ついたような、カインの表情に気づいた。
重い沈黙が落ちる。
やがてカインは、絞り出すように言った。
「……都合が良いなどと、思ったことは一度もない」
「では、何なんですか」
「お前を、これ以上巻き込みたくない。それだけだ」
「巻き込まれるも何も、私はもう当事者です。婚約者として、この家にいるんですから」
「だからこそだ」
カインが、初めて感情の乗った声で言葉を継いだ。
「お前の兄のことも、神殿のことも。知れば、お前はもっと苦しむことになる。それが分かっているから、言えない」
その声には、これまで見せたことのない焦りが滲んでいた。
(この人、本当に私のことを考えて黙ってる……?)
苛立ちが、少しずつ形を変えていくのを感じる。
「勝手に決めないでください。苦しむかどうかは、私が決めます」
「……」
「知らないままでいる方が、よっぽど苦しいです」
まっすぐに告げると、カインは、痛みを堪えるように目を伏せた。
「……すまない」
「謝ってほしいわけでは、ありません」
沈黙のあと、カインがぽつりと呟いた。
「……全部を、一度には話せない。だが、いずれ少しずつ話していく」
「本当に、話す気があるんですか」
半信半疑のまま、リディアは問い返した。
「全部を一度に受け止めるには、重すぎる話だ。お前を、壊したくない」
不器用な言葉だったが、そこに込められた気遣いは、痛いほど伝わってきた。
(また、そうやって私のことばかり)
気づけば、リディアの目に涙が滲んでいた。
「どうして、そんなに私のことばかり気にするんですか」
「……分からない」
短い答えだったが、その声は、これまでのどんな言葉よりも、素直だった。
沈黙の中、カインがゆっくりと手を伸ばし、リディアの目元に浮かんだ涙を、指先でそっと拭った。
その手の温もりに、リディアは目を閉じた。
「次に何か隠し事をしたら、承知しません」
「……善処する」
「善処、ではなくて、約束してください」
「……約束する」
観念したように呟くカインの声に、リディアは思わず、小さく笑ってしまった。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
指先に残る彼の体温を感じながら、リディアは、自分の中の何かが、確かに変わり始めていることを自覚していた。








