第七話 過去の断片
街での一件から数日、屋敷の空気は、どこかぎこちないままだった。
(あの日から、なんとなく目を合わせづらいのよね……お互いに)
そんなことを考えながら刺繍をしていると、マリエルが買い出しから、いつになく神妙な顔で戻ってきた。
「お嬢様。市場で、妙な話を耳にしまして」
「妙な話?」
「レイヴンズウッド卿の、昔の部下だったという方の使用人と、たまたま話す機会がありまして……」
マリエルは声を潜めた。
「三年前の、あの日のことです」
リディアの手が、刺繍針の上で止まった。
「エイデンお兄様の……逮捕の日、ですか」
「はい。……レイヴンズウッド卿は、あの時、上層部にかなり強く抗議なさっていたそうです。証拠が不十分だと、命令を撤回するようにと」
「……嘘」
「わたしも、最初は聞き違いかと思ったんですが」
マリエルは、言いにくそうに続けた。
「結果的に、逮捕の指揮は執らざるを得なかったそうですが。その後、しばらく謹慎を命じられていたとか」
(謹慎、って……)
頭の中で、様々な記憶が音を立てて崩れていく。
あの日、エイデンお兄様が連れて行かれる瞬間。遠くに立っていた騎士の中に、確かにカインの姿があった。
あの時の彼の表情を、リディアはよく覚えていなかった。憎しみに濁った視界の中で、"敵"の顔など、まともに見てもいなかったからだ。
(もしそれが、本当だとしたら)
これまで積み重ねてきた"償い"という言葉の意味が、まるで違う輪郭を持ち始める。
「お嬢様?」
「……大丈夫。ちょっと、考え事を」
その夜、夕食の席でカインと向き合いながら、リディアはずっと切り出せずにいた。
いつも通り寡黙な彼を前に、噂について尋ねようとしては、言葉が喉の奥で引っかかる。
(聞いたら、何かが変わってしまう気がする)
「……何か、言いたいことがあるなら言え」
不意に、カインの方から口を開いた。
見透かされていたことに、リディアは動揺を隠せなかった。
「……昔のことを、少し」
「昔?」
「エイデンお兄様の、逮捕の日のことです」
カインの表情が、目に見えて強張った。
「それが、どうした」
「その日、あなたが上層部に抗議していたと……噂で、聞きました」
沈黙が落ちた。
長い、長い沈黙だった。
やがてカインは、視線を落としたまま、絞り出すように呟いた。
「──誰から聞いた」
「言えません」
「……そうか」
それ以上、彼は何も語ろうとしなかった。
「教えてください。本当のことを」
「今は、まだだ」
「いつまで待てばいいんですか」
「……まだだ。お前が耐えられる時までだ」
意味の分からない答えに、リディアは苛立ちと不安の両方を覚えた。
(耐えられる時、って何。そんな言い方、余計に怖くなるだけでしょう)
食事はそのまま、重い沈黙の中で終わった。
自室に戻ってからも、リディアはずっと考え続けていた。
もしカインが、本当に兄を守ろうとしていたのだとしたら。
それでも守れなかったことを、今もずっと悔い続けているのだとしたら。
(──それなら、私はいったい誰を憎めばいいのよ)
窓の外の月を見上げながら、リディアは自分の中の"仇"という言葉が、音を立てて崩れていくのを感じていた。








