第4話 来ちゃいけない場所
ドドドドド⋯⋯。
イクのエンジンの振動が、身体の奥まで響いてくる。
赤く灯った信号機に、ずっと変わらないで欲しいと念を送り続ける。
けれど、願いもむなしく、青へと変わってしまった。
「動くぞ」
「おっけー」
クロヤとミクの声が後ろから聞こえてくる。
ブォン!!
さっきまで静かだったのに、急に世界がうるさくなった。
クロヤの胸元に括り付けられた抱っこ紐ごと、私の身体がぐいっと後ろへ引かれた。
振り落とされそうでハラハラする。
頼りになるのは、その紐と、すぐ後ろにあるクロヤの身体だけだ。
――速い。
景色が、流れていく。
建物も、電柱も、道も。
全部が横に引っ張られるみたいに、びゅんびゅんと後ろへ飛んでいく。
風が、顔にぶつかる。
ドレスの裾がばたばたと揺れて、身体が浮き上がりそうになる。
曲がったり、加速したり――
振り回される視界に、理解が追いつかなかった。
⋯⋯ううっ、早く降ろしてほしい。
――キイッ!
流れる景色が緩やかになって、振動も少なくバイクが止まった。
信号はない。
だけど横断歩道はある。
黄色い帽子をかぶった子供たちが、手をあげて渡っていく。
子供の「ありがとー」という声に、クロヤが片手を軽くあげていた。
そんな子供たちを見つめていると、私の頭にぽふりと触れた。
クロヤの手だった。
「髪が乱れまくってんな」
手櫛で髪を整えてくれる。
「ちいせぇヘルメットってあんのかな⋯⋯」
ぼそっと呟いている。
ブォン!!
世界がまた加速する。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
でも――
さっきほどじゃなかった。
◇
校門を目指して、女子学生たちが流れていく。
バイクと、抱っこ紐の人形。
通り過ぎる女子たちが、興味を持たないわけがなかった。
最初は私を見つけてくすりと笑う。
けれど、その視線が上に流れていくと、びくりと震えて目を逸らす。
そんな女子生徒ばかりだ。
何に怯えているのか。
私もふと視線を追ってみると――
クロヤの三白眼。
⋯⋯ひえっ。
反射的に、私もそう思っていた。
「兄貴、ありがとっ!」
「おう」
ミクは手を振ってから、その流れに向かっていった。
快活に歩くたびに、まとめられた髪が揺れる。
友達らしい数人が、ミクの元へ自然と集まっていく。
流れに溶け込み、ミクの後ろ姿が校内へと吸い込まれていった。
クロヤは踵を返した。
バイクを押して道なりに進んでいく。
学校へと向かう女子生徒の流れに、逆らうクロヤとバイクは目立つ。
相変わらず視線を向けられるが、クロヤが気にする素振りはない。
なんで平気なんだろう。
私なんか誰かにじっと見られると、目を逸らしたくなる。
何を考えてるのかなって、びくびくしてしまう。
特に男の人の視線は苦手だ。
目つきが鋭くて、表情も硬いと、怒ってるのかなって、心が縮こまる。
ミクの学校から少し離れると、さっきまで周りに満ちていた女子のざわめきが、少しずつ遠ざかっていった。
代わりに、クロヤの押すバイクの音だけが、やけに大きく響く。
やがて別の学校が見えてきた。
けれど、なんだかさっきの明るい空気とは違う。
嫌な感じがした。
このまま進んではいけない。
そんな気がした。
クロヤは足を止めない。
そのまま、見慣れているみたいな顔で校門をくぐっていく。
身体の芯が、ひやりとした。
視界いっぱいに、学生服を着た人たちがいた。
大きな身体。低い声。
圧みたいなものが、一気に押し寄せてくる。
男の人たちだと気づいた瞬間、
反射的に、身体が縮こまる。
……やっぱり、ここは来ちゃいけない場所だった。
◇
顔――顔――顔――
前も、横も、後ろも。
全部、男の顔ばかりだ。
どこを見ても、逃げる先にまた別の顔がある。
逃げたいのに、動けない。
見られているだけで、身体が固まる。
私は絶望していた。
クロヤの机の上。
私は、そこに置かれている。
背中に当たるのは、積み上げられた教科書たち。
二本の一升瓶よりも、ちょっと居心地が悪い。
「こいつ⋯⋯、マジでクロさんのもんなのか?」
身体の芯まで響く太い声。
顔を上げると、鬼みたいな赤い髪の男がいた。
じっとこっちを見てくる。
「おう。間違いねーよ。だけど、なんでガッコに連れて来たんだろ?」
別の低い声が聞こえた。
ぼさぼさな髪を逆立てた金髪男が、首を捻った。
目つきが荒くて、私は思わず意識を逸らす。
「あー、こいつの服を縫うのに、トーマに色々聞きてえからって言ってたわ」
そっちを見る。
耳にも、口元にも、金属が光っている男がニヤッと笑った。
なんだか、近づきたくない。
すがる思いで席の主を探す。
――いない。
クロヤの姿は席になかった。
ついさっき、私を置いて教室を出て行った。
クロヤも怖いところはある。
おもに、あの目つきとか。
けれど、今のところ私に乱暴したことはない。
聞き慣れない荒い声が、すぐ近くで飛び交う。
じろじろとした視線が刺さる。
なにをしてくるか分からない男たち。
クロヤ。
お願いだから、早く帰って来て。
「ん⋯⋯、こいつ⋯⋯」
赤髪の男が顎をなでながら、ずいっと顔を近づけてきた。
鼻息がドレスを揺らす。
赤髪の男が、口を開きかけた。
――ひうっ!
なにっ!? なにを言うの⋯⋯?
「結構、マブくね?」
――まぶ⋯⋯、なに?
言葉の意味がよくわからない。
「あー、それな」
「金髪がいい感じだよな。俺ほどじゃねーけど」
「てめえの髪は、プリンみてえじゃねえか。染めて出直せや」
ぎゃははははっ、と笑いの大合唱が起きていた。
なんだろう。
さっきまでみたいに、身体が固まらない。
悪い気持ちが、こっちに向いていないからだろうか。
負の感情を向けられると、じわじわと溜まっていくはずの力が、まるで増えない。
クロヤに拾われてから、誰も私に不快な気持ちを抱かないのだ。
クロヤも、ミクも、ここにいる人たちも。
ガラガラガラ。
扉が開いた。
笑い声がぴたりと止まった。一斉に視線がそちらへ向く。
「⋯⋯クロさん」
男の一人がぽつりと言葉をこぼした。
静けさの中で、紙をめくる音が妙に耳に残る。
ふと見れば、教室の生徒たちは一人を除いて、窓側にあるクロヤの席まわりに集まっていた。
――ぺらり。
廊下側の席に座る男が、本をめくっている。くいっと眼鏡をかけ直した。
クロヤが歩くと、床が軋む。
近づくにつれて、人の輪が自然に割れた。
ぼさぼさな金髪男が、ニカッと笑った。
「トーマの奴には会えたんすか、クロさん」
「まあな」
短く返して、クロヤは周囲を一瞥した。
「おめえら、こんなとこで群がって⋯⋯。なんかあんのか?」
「いや、これっすよ。これ。クロさんの新しい拾いもん」
口元に金属をつけた男が、私を指差す。
「あー、シロか」
「「「シロ?」」」
なぜかあちこちから、私の名前を呼ぶ声が重なった。
「肌が白いからな」
クロヤは席に腰を掛けながら、平然と言った。
「あー、⋯⋯そうっすね」
「ははっ⋯⋯。いいんじゃないっすか」
互いに目配せをした男たちが、乾いた笑いを漏らしていた。
――ぺらり。
廊下側の席から、その音がまた静かに響く。
本を読んでいた眼鏡の男が、ゆっくりと口を開いた。
「⋯⋯ちょっと、静かにしてくれないか。勉強してるんだ」
一瞬、空気が止まる。
「⋯⋯いきなりなんだよ」
赤髪の男がそちらへ顔を向け、低い声で唸る。
「いきなりじゃない。教室には、君たち以外だっているんだ」
「てめえ以外は、ここに集まってるけどな」
「とにかく、少しは静かにしてくれ」
「んだよ、空気悪くしやがって」
眼鏡の男は、再び手元の本へと視線を落とした。
赤髪の男が睨めつける。
他の人たちも、眼鏡の男へ無言の圧を高めた。
空気がピンッと張りつめていく。
私に向けられてないのに、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
「⋯⋯今日も勉強か?」
「⋯⋯」
「聞こえてんだろ⋯⋯ガリ勉野郎」
赤髪の男の舌打ちに、私はビクッとしてしまう。
「今日も勉強⋯⋯、明日も勉強⋯⋯。やることがそれしかねえのかよ?」
「⋯⋯好きでやってるだけだ。君らに関係ないだろ」
「好きっ? ははっ⋯⋯勉強がっ?」
赤髪の男が肩を揺らして笑う。
「そんなくだらねえこと――」
「おい」
クロヤが短く響いた。
たったそれだけ。
腕を組んだまま、視線を向けることすらしない。
けれど、赤髪の男は口を閉じ、ちらりとクロヤを見つめた。
一度だけ息を大きく吐くと、
「悪かったな」
眼鏡の男がいる方へ、言葉を投げかけていた。
返事はなかった。
空気が、すっと引いていく。
わずかに白けた様子の男たちは、何を言うでもなく席へと散っていった。
争いがなくて良かった。
私がほっとしかけた――
そのときだった。
胸の奥に、ぬるりとしたものが染み込んできた。
ずっとからっぽだったのに、黒い塵のようなものが内側に積もっていく。
私はこれを知っている。
嫌な気配が、私に向けられた時に生まれる塵。
誰が向けてきているのかは、わからない。
けれど、間違いなくいる。
この部屋の中に。
それだけが、はっきりと分かる。




