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第3話 ミクとナナシと、半端者

 あの人が帰って来たのは、バイクの音ですぐに分かった。


「あー、やっと帰ってこれた!」

 

 鍵が開く音。

 わずかに遅れて、初めて聞く声がキッチンへ届いた。

 なだれ込むように、誰かが玄関に入ってくる気配がする。


「おい、休むならソファーで休め。んなとこにいたら風邪ひくぞ」


 聞き間違えるはずもない、あの人の低い声。


「あたしは働いて、事故にもあって、すっごい疲れてるんですー。そんなこと言うなら、兄貴が連れて行ってよ」

「ガキか。⋯⋯しゃーねえ」

「へへっ、ありがと」

 

 あの人の声は、さっきみたいな鋭さがなかった。


 リビングの扉が開いて、一人分の足音が部屋に入ってくる。

 あの人が誰かを両腕で抱えていた。

 

 女の子だ。

 明るく染めた茶色の髪を、後ろでまとめていた。

 猫がすり寄るみたいに、頬ずりをした。

 後ろ髪がふわふわ揺れていた。


 あの人は怪訝そうに眉をひそめたが、文句を言うようでもなかった。


「あー、愛しの我が家。あたしの憩いの場――」


 そこまで言いかけて、言葉をピタリと止めた。


「ねえ、兄貴⋯⋯」

 

 女の子の声がわずかに沈んだ。

 張り詰めたものが交じり、明らかに不機嫌そうになる。


 女の子がするりと降りて、周囲へ視線を走らせながら、鼻をすんすんと動かしていた。


「⋯⋯なんか拾ってきた?」


 あの人が頬を、ぽり、とかいた。


「⋯⋯ああ、ちょっと人形をな」

「に、人形? 犬や猫じゃなくて?」


 女の子が勢い良く振り返る。後ろ髪がぶわっと跳ねた。


「その人形は、どこにいるのよ」

「キッチンだな」


 ドスドスと床を踏み抜きそうな振動が近づいてくる。

 背もたれになってる二本の一升瓶。

 中の液体が、わずかに揺れていた。


「あんたか⋯⋯」


 女の子は腕を組み、ジト目で私を見つめてくる。

 穴を空けそうなほど鋭い視線が、とても痛かった。

 顔を背けたい気分になる。もちろん叶わないことなのだけど。

 

 次の瞬間。


 ――ひゃ!?

 鼻が触れそうなほど顔を近づけてきた。


 すん⋯⋯すんすん⋯⋯。

 古びたドレスの布を、鼻先がかすめた。


 なぜか女の子は真剣な表情で、臭いを嗅いでいる。

 嫌だなあ。生ゴミの側にいたし、変な臭いだって言われたらどうしよう。


「やっぱり、これ⋯⋯。ナナシはなにやってんのよ⋯⋯」

 

 小さな声でぽつりと呟いた。


「兄貴、どうして拾って来たのっ」


 女の子の鋭い視線が飛ぶ。


「なんつーか⋯⋯、放っておけなかったんだよ」

「元あったところに返して来てっ」

「いや、そりゃダメだ」

「なんでよっ?」

「そりゃおめえ、ゴミ捨て場に人形戻すことになっからだよ」


 その一言に、わずかな間が空いた。


「それは⋯⋯、ちょっとね」

 

 二人のやりとりを、私はぽかんと見つめていた。

 喧嘩とか、強い口調とかは、聞くのも苦手だ。

 けれど、きつい言葉のはずなのに、その会話には怖さがなかった。


「しゃーない⋯⋯。兄貴っ! ちょっと部屋に行ってくるわね」


 女の子はあの人の方へと向き直った。


「そうか? もう飯にすっけど、なんかあんのか?」

「ちょっとね。あー、⋯⋯この人形の臭いが気になるから、綺麗にしたり、消臭してくるわ」

「そうか。俺じゃ身体まで拭けねえから、頼む」

「おっけー、任せといて。ちゃっと、片付けてくるわ」


 女の子はじろっと私の方を見る。


「ちゃっと、ね」


 その視線が、やけに重かった。



 私の身体を引ったくるように掴むと、女の子は勢いよく階段を駆け上がった。

 視界が思いっきり揺れて、変な気分になる。


「ナナシっ! どうせ見てるんでしょ! さっさと出てきなさいっ」


 部屋に飛び込んだ女の子は、急かすように呼びかける。

 焦らすように、黒い靄はじわりと広がっていく。


「そーいうのはいいから。ちゃっと現れなさいよ。出来るんでしょ?」

「相変わらず、ミクはせっかちじゃの。もう少し風情というものを覚えたほうがええよ」

「うるさい。兄貴の飯が待ってるんだから、時間かけられないの」


 黒い靄から声だけが響く。

 だけど、女の子は――ミクはおびえる様子もなく、容赦がない。


「……まったく、情緒のないやつじゃのー」


 黒い靄が、面倒くさそうに寄っていく。

 だらりとまとまり――

 人の形になる。


 『それ』と視線が絡んだ瞬間。

 ――ぞわっ!

 初めて会った時にも味わった感覚だった。


「それで、なに用じゃ?」

「わかってるくせに。どう考えても『これ』のことに決まってるでしょ!」

 

 ミクが私の両脇を抱えたまま、目の前のそれへと見せつける。

 ちょっと雑な扱い。

 目つきの怖いあの人を、思い出させるものがあった。


 それよりも、そこに出てきた人。

 ⋯⋯さっきのおばけさん、だよね。

 あのとき、ふっと消えたはずなのに。


「おい、誰がおばけさんじゃ」


 また、心を覗かれている。


「とりあえず、ナナシと呼べ」


 それを見ていたミクが、小さく息を吐いた。


「ナナシのその反応⋯⋯。やっぱりそれ系のたぐいじゃん! っていうか、あんたなにやってんの? 任された仕事ぐらいちゃんとしなさいよ」

「任された仕事なんか、あったかのう」

 

 ナナシがとぼけるように言った。


「ママに悪霊や危険なやつを家に入れるなって言われてんでしょ?」

「ああ、その話か」

「その話か――、じゃないわよっ!」


 ミクが床を強く踏みつけた。

 ナナシがスッと呆れ顔になる。


「おぬしなあ、そんなことしたら――」

「おい。大丈夫か?」


 ナナシが最後まで言い切る前に、あの人の声が一階から飛んできた。

 叫ぶわけでもないのに、低くてよく通る声だ。


 ミクが私の身体をベッドに置いた。

 倒れないように壁に背をあずける格好になる。

 ミクは慌てた様子で扉を開け、顔だけを出し、


「あははー、ごめんごめんっ! ちょっと机の角に足をぶつけちゃったの!」

「痛えだろ。冷やすもんいるか?」

「そ、そこまでじゃないから! 大丈夫っ!」


 扉をバタンと閉める。

 ミクが振り向き、ナナシがくっくっと小さく笑った。


「ワシが頼まれているのは、悪霊や危険なやつを家に入れぬことじゃ」

「だったら――」

 

 ナナシは気だるそうに肩をすくめた。


「こやつは、どちらでもない」

「ぐっ⋯⋯」


 ミクは言葉を詰まらせる。

 それでも言葉を捻り出そうとしているところへ、ナナシが言葉を被せた。


「よく考えろ。クロが連れてきたんじゃぞ。危険があれば、拾わん」

「そ、それは⋯⋯」

「野生じみた勘⋯⋯、あやつが手を伸ばしたということは、縁があるということじゃろ」

「⋯⋯しょーがないか。はぁ~」


 ミクは深いため息をついていた。


「でも、ただの人形じゃないのは確かじゃない。こいつは何なのよ」

「人形に憑いた霊じゃな」

「悪霊でも、危ないやつでもないってことは⋯⋯良い霊ってこと?」


 ミクが私を指差しながら言った。


「良いとか、悪いとか⋯⋯。人とは勝手よなあ⋯⋯」


 ナナシはわずかに目を細めた。


「ワシからすれば悪霊になりきれん、半端者といったところかの」

「⋯⋯それ、答えになってる?」

「いちいち五月蝿いのう。ほれ、ワシが繋いでやるから、己で判断せよ」


 その視線が、こちらに向く。

 ――ぞわり。

 さっきとは比べものにならないほど、深く触れられる感覚。


「ほれ。お前が何者か、ミクに教えてやれ」

『……わたしのこと?』

「っ……!」


 ミクが目を見開いた。ナナシを見つめている。

 私の方こそ驚いた。

 思いが形になって、誰かに伝わるなんて初めてのことだ。


「今の⋯⋯。こんなハッキリ喋れる霊なんて、初めてね」

「ワシが拾っただけじゃ。こやつだけでは無理じゃな」


 ナナシに向けていたミクの視線が、再び戻ってくる。

 逃げ場がなかった。


「それで? どういうつもりで、ウチを狙って来たのよ」 

 

 ミクのその姿は毛を逆立てた猫を思い出させた。

 少し怖くて、寂しい。


『なにも、してない。

 ⋯⋯ひろわれただけ』

「兄貴の人柄につけこんで、わざとゴミ捨て場にいたんじゃないの?」


 その瞬間、右腕が割れた音が蘇った。


『ちがう。すてられた』

「ふーん⋯⋯。本当かしらね?」


 疑いの目で見つめてくる。その後でチラっとナナシへ目配せをしていた。


「やれやれ⋯⋯。そやつも、そう言っておろうに⋯⋯」


 ナナシが肩をすくめて首を振った。


「⋯⋯地面に投げられ、踏まれそうになっとる。間違いなくな」

「⋯⋯それだって、上手く仕組んだのかもしれないじゃない」

「あのなあ⋯⋯」


 ナナシが深いため息を吐いた。


「全部、自分がされたことじゃろが⋯⋯」

「うぐっ!?」

「霊感が皆無のクロヤと違って、おぬしは多少わかるのにな⋯⋯。霊に騙されるなど、たちが悪い⋯⋯」

「だ、だから、同じ失敗しないようにしてんじゃない」

「まあ、それほど気を張らんでもええじゃろうて」


 ナナシが、わずかにこちらへ視線を向けた。

 値踏みするでもなく、ただ確かめるように。


「ナナシ」

「なんじゃ?」

「⋯⋯兄貴のそばに霊的なもの置くなんて。なんか、たくらんでるんじゃないわよね」


 ミクの声が、わずかに低くなる。


「失礼なやつよの。ワシなりのやり方があるだけのことよ」

「⋯⋯それが余計なことかもしれないでしょ」

「やれやれ⋯⋯。過保護が過ぎる。このままでええと⋯⋯思ってるのか」

「⋯⋯っ」

「クロヤが引き寄せた縁なれば⋯⋯、ワシは利用する。壊れれば、それまでのことよ」


 軽い声音のまま、ナナシが続ける。

 ミクは舌打ちして、視線を逸らした。


「止めなかったのは、あんただからね。ちゃんとしなさいよ」

「ワシは騙されたりはせんよ⋯⋯」


 片眉だけを歪めて、意地悪っぽい声でナナシが言う。


「狡猾な奴が多い界隈じゃからなあ。警戒する姿勢は、可愛いと思うがの」


 ナナシはニンマリと牙を見せつけた。


「ごちゃごちゃうっさいわね」


 ミクが吐き捨てるように言った。

 口を挟めなかったけど、よくわからない話だった。


 ⋯⋯これからどうなるんだろう。


 とにかく、ミクは私を良く思ってないみたい。

 やっぱり捨てられちゃうのかな。

 でも⋯⋯それもつらいなあ。

 何度捨てられても、その瞬間は慣れなかった。


「そんで⋯⋯。あんた、名前は?」

『なまえ?』

「しばらく、ここにいるんでしょ。ずっと、あんたって呼ばれるのでいいの?」

『⋯⋯おいてくれるの?』

「勘違いすんじゃないわよ⋯⋯。不燃ゴミって捨てるのが面倒なのよっ」


 猫が私を見て、シャーっとしてきたみたいに言う。


「ほら、ちゃっと教えて。あ、身体を拭くわよ」

『え? え?』


 ミクが私の身体を勢いよく掴んだ。

 痛くはなかったけど、私の気持ちがヒュッとしてしまう。


 床に座ったミクがドレスを脱がせていく。

 やることなすこと、早すぎてついていけない。


「なにこの服、けっこうボロボロじゃない。右腕のとこなんて破けてるし⋯⋯。ったく、めんどくさいわね」


 ぶつぶつと文句を言う。

 けれど脱がせる手つきは慎重で、身体にも優しく触れてくる。

 纏うものが無くなった私を、ミクが足先から顔までジロリと眺めた。


 また、あんなこと……言われるのかな。

 嫌だなあ。


 ふと蘇る誰かの言葉。

 ――なんか気味悪いね⋯⋯。

 ――汚い人形だな。


 言葉の刺が、まだ残っていた。


「ふーん、なかなか綺麗じゃない」

『⋯⋯きれい?』

「肌には傷もなくてすべすべしてるし。顔も整ってる」


 言葉の意味が、うまく掴めなかった。

 

 私の身体を確認してみる。

 ホコリで薄汚れて、色もくすんでいる。


『⋯⋯きたないよ』

「はぁ? あんたの目は節穴なの? そりゃ、身体は汚れてるけど、顔見ればわかるじゃない」

『かお?』

「どうせ兄貴のことだから、顔は拭いたけど、女物だからって、身体に手を出さなかったんでしょ?」

『あ⋯⋯』


 ――キュッキュッ。

 あの人が……顔を、拭いてくれていた音。


「そんなことより、名前はなんなのよ?」

『なまえ⋯⋯ない』


 名前を、呼ばれたことがなかった。


「⋯⋯ふーん」


 ミクはすっと身体を起こして、私のことを見下ろした。

 目を閉じて、天井をわずかに仰ぐ。

 パッと目を開けた。


「じゃあ、シロね」

『え?』

「あんたの名前。ほら、磨けば白い肌っぽいし」

 

 ミクは人差し指を立てて、ニヤッと笑っていた。


「かぁ~、相変わらずおぬしら兄妹は名付けセンスが壊滅的じゃの。そもそも、ワシのナナシだって――」

『わかった。わたし、シロ』

「おぬしもそれでいいんかいっ!」


 ナナシが騒いでいるのを見て、ミクがふふんと鼻を鳴らしていた。


 私の名前はシロ。

 胸の奥で、そっと呟いてみる。


 そこでふと思った。

 あの人にも、名前があるはずだよね。


『ね⋯⋯。あの人のなまえは?』

「あの人って誰のことよ?」

『目のこわい――』

「なんだ、兄貴のことか」


 ミクが肩の力を抜いて、ニッと笑った。


「クロヤ。あたしの兄貴だよ」



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