第2話 一升瓶な優しさ
トントントン。グツグツグツ。
薄暗くなってきたリビングに、小気味よい音が響いている。
時折、点滅するキッチンの灯りの下で、男が料理をしているようだった。
ただ、何を作っているのかはここからではわからない。
見えるのは背中だけだった。
男に連れられてきた一階のテーブルで、私は足を投げ出す形で座らされていた。
背中にあるのは一升瓶。
円柱の瓶は、私のことを支えるには頼りない。
じわりじわりと身体が傾いていく。
猶予はまだある。だけど、時間の問題だった。
倒れた時に響く振動が怖い。
前に叩かれたことを思い出してしまう。
⋯⋯やだな。
ここに置いたのは、あの人なのに。
どうにかしてくれないかな。
そんな気持ちを強く送ってみた。
もちろん、男が気づく様子はない。
パタン。
――ひぅ!?
あっさりと倒れた。
打ちつけた頬の奥に、嫌な音が残った気がした。
身体が割れてないかな。
そんな不安が胸の奥に過ぎる。
だけど、どうやらヒビは入ってないらしい。
トントン⋯⋯。
軽快に叩く音がふっと途切れた。
男がくるりと振り返る。
――ひっ!?
思わずびっくりしてしまう。
男の手には、包丁が握られていた。
三白眼で油断なく周囲を見回す。
まるで獲物を探す獣のようだった。
⋯⋯私が思うのもなんだけど、とても不気味だ。
鋭い視線が私を通り過ぎかけて――止まる。
リビングは薄暗い。
気づかないで、良かったのに。
ひたり――ひたり――
包丁を持ったまま近づいてくる。
男の足取りには迷いがなかった。
じっと、見下ろしてくる。
包丁を持つ手を、ゆっくりとテーブルへと伸ばし――
「ちょっと支えには向かねえか」
包丁をそっとテーブルに置くと、私の身体を起こしてくれた。
その手つきは、意外なほどに優しい。
「悪かったな」
それだけ言うと、男は周囲を見回した。
何かに気づく。
私を右脇に抱えたまま、キッチンへと移動した。
どんっ、どんっ。
二本の一升瓶がそびえ立つ。
⋯⋯え?
少し遅れて嫌な予感がした。
「これならいけるだろ」
並べた一升瓶の間。
背中が収まるように私を座らせると、男は満足そうにうなずいた。
背中を向けて、軽快な音を紡ぐ作業に戻っていった。
一つでダメだから、二つにすればいい?
そんな簡単なことで変わるわけが⋯⋯。
⋯⋯。
⋯⋯⋯⋯あれ?
意外なことに、とても安定していた。
リビングからは見えなかった、料理の様子が視界に入る。
まな板の上のネギを、火にかけている鍋へと放り込む。
冷蔵庫から味噌を取り出した。
おたまですくうと、丁寧に鍋で溶かしていく。
「へっ⋯⋯、うめえじゃねえか。これならミクも喜ぶな」
満更でもない様子で、男は鼻の下をかいていた。
そんな顔も、できるんだ。
⋯⋯本当に、さっきまでと同じ人なのかな。
そのとき、キッチン台の上で震える音が鳴った。
ブブッ、ブブッ。
男は面倒そうに舌打ちをして、コンロの火を消した。
男の視線が私のすぐ側へと向けられる。
スマホがあり、液晶画面に名前が表示されていた。
ミク。
男がスマホに視線を落とすと、肩の力がわずかに抜けていく。
「ああ、俺だ。どうした?」
耳にスマホを当て、男が短く答える。
「晩飯に間に合わねえ? ⋯⋯確か、今日は読モの仕事だったな」
男の声は、低くて強い。
私は何もしてない。
それでも私が謝りたくなる。
「車で移動してたらケツに当てられだぁ? 居眠り運転だったらしぃ?」
三白眼がさらに吊り上がっていく。
さっきの優しい姿は幻だ。
何かの見間違いだったに違いない。
「ミク。お前は無事なんだよな⋯⋯?」
電話の相手の声に耳を傾けながら、「ああ」とか「おう」とか。
短く相槌を打っていく。
「⋯⋯そうか」
小さな息を吐く。
「バイクで迎えにいく。近くなったら電話すっから、見逃すなよ」
男はリビングのソファーに置かれたジャケットを引っ掴む。
擦れた黒のライダース。
肩の辺りは癖がついて、少し崩れていた。
袖口が、やけに丁寧に直されていた。
それに、腕を通した。
「カギ⋯⋯どこだ?」
男は何かを探して、部屋を歩き回っていた。
そんな姿を眺めていると、
ふと、入り口近くの壁に目が向いた。
写真がボードに、いくつか並んでいる。
さっき着ていたのとは違う制服を身にまとう男。
その隣に立つ私服の少女は、少しだけ距離を置いていた。
別の一枚。
今度は少し大きくなった男の腕に、制服の少女が笑顔でしがみついている。
なんとなく見比べてしまう。
「おし」と男の声が聞こえた。
リビングから出ていこうと、男が急ぐ。
室内灯の電源に手を添えて、わずかに止まった。
振り返り、キッチンを見る。
一拍ほどの間を空けて、結局電気をつけたまま出ていった。
ブロロロロッ――
バイクが遠ざかっていく音がする。
ぽつんと残されたキッチンで、室内灯がかすかに瞬いた。
⋯⋯これからどうすればいいかな。
負のエネルギーを使い切ってしまった。
私を見て、ちょっとでも嫌な気持ちを向けたら、塵みたいに力は集まっていくのだけど。
あの人に、それを期待できるだろうか。
⋯⋯難しそうな気がする。
それに包丁を持って、私を探していた姿が頭から離れない。
言葉も乱暴だ。
背もたれだって、一升瓶で適当だったし。
私は、気が変わる人をたくさん見てきた。
持ち帰った時は、ニコニコしている人もいた。
けれど、小心者な私は、小さなことでも驚いてしまう。
力を漏らしてしまい――
少しずつ、気味悪がられていく。
さっきの男を思い出す。
気が変わって、一升瓶で叩かれでもしたら。
今の私には、どうにもできない。
それこそ、おしまいだ。
「クロのやつめ。今日の味噌汁はネギと豆腐か。心得ておるの」
ふいにそんな声が混ざる。
キッチンの方から。
でも、誰の姿もない。
⋯⋯気のせい、かな?
そう思った瞬間。
――ぞわっ。
誰もいないのに、内側を撫でられたみたいな感覚が走った。
なに?
いったい何に触られたの?
「ふむ。ちゃんと聞こえるのう」
ハッとして、そちらを見る。
やっぱり、影も形も見えない。
キッチンの灯りが、瞬いた。
さっきまで聞こえていた冷蔵庫の駆動音が、やけに遠い。
どうなってるの?
「なんじゃ。だいぶ濃い影だと思えば、頭はなんも知らぬわらしか。やれやれ⋯⋯」
どこか気だるそうな声だけが残る。
「かったるいが⋯⋯、繋いだのはワシのほうじゃ。少々姿を見せてやろうかの」
はじめは、黒い点だった。
それが、すぐに霧のように広がる。
蠢いて、ゆっくりと形を作っていく。
なに⋯⋯これ。
⋯⋯おばけ、とか。
「おぬしも、こっち寄りじゃろうに」
くすりと、霧の奥から苦笑がもれる。
現れたのは人の形――のようなもの。
どこか歪だった。
髪に紛れるように、細い角がある。
着物は片肩からずり落ち、帯もゆるい。
今にもほどけそうに垂れていた。
裾は床を引きずり、気にする様子もない。
そこにいるだけなのに、空気が重くなる。
⋯⋯不気味だ。
「不気味とは、失礼なやつじゃの」
えっ⋯⋯。
⋯⋯聞こえているの?
「ふぁ~あ⋯⋯。勘の鈍いやつじゃの。そうでなければ、この状況をなんとする?」
『それ』は小さくあくびをする。
そのついでに答えてくれた。
「しかし、やはりというべきか⋯⋯」
まぶたをこすりながら、たいした興味もなさそうな瞳で見つめてくる。
「禍つモノの一歩手前、といったところかの」
⋯⋯まがつ、もの?
聞き慣れない言葉だった。
けれど、その響きだけで冷たくなる気がした。
「なにも知らずに積んできたか⋯⋯」
ぐいっと、顔を近づけてくる。
「まあ、知らぬならそれもよい」
『それ』の瞳が、細く縦に伸びた。
どこまでも見通されそうだった。
目を逸らしたくなる。
「クロの拾い物⋯⋯か。あやつも、ほんに愉快なことをする」
唇を強く歪めた。
覗ける牙のような歯が、どこかおどろおどろしい。
「おぬし、ずいぶんと酷い目にあってきたようじゃな」
⋯⋯なに、言ってるの。
「隠さずともよい。ワシにはわかる。そうじゃなあ。⋯⋯ついさっきも踏み殺されそうになって、カラスをけしかけた」
⋯⋯見てたの?
「そんなことはせんでもええ。繋がれば、わかる」
どういうこと⋯⋯?
「それよりも⋯⋯、辛かったじゃろうなあ」
少しだけ、声が落ちた。
「色んな人間に虐められる日々は⋯⋯」
怖い。
なんで、わかるの?
思い出したくないことまで、見られているみたい。
「いいことを教えてやろうか」
⋯⋯いい、こと?
びくびくとしながらも、思わず聞き返してしまった。
「あと一人、じゃな」
口元が歪む。
「少し踏み出すだけで――」
少しだけ、目を細める。
「人間などに、振り回されることもなくなるじゃろうな」
細い瞳が、わずかに楽しげに細められる。
意味はわからないのに、身体の奥がゾクッとした。
でも――
その言葉を、突き放せなかった。




