第5話 「手」
「だからこれは、こうなるわけで――」
教師が黒板にチョークを走らせる。
白い数字や記号が、少し上斜めに向かって並んでいく。
黒板から意識を逸らして、もう一度、私は教室の様子を伺ってみた。
ノートをとっている生徒がわずか、
こそこそ話しているのが二人、
突っ伏しているのがほとんど。
教師が一瞬だけこちらを見た。
クロヤと私を、視線が行き来する。
ため息を一つ。
何も言わず、背を向けた。
教師も私を気にかけている。
けれど、嫌悪とかではなく呆れてるように見えた。
嫌な気持ちを向けてるのが、誰なのか。
わからない。
でも、確かにいる。
内側に積もる黒い塵が、小さな砂山くらいにはなっていた。
――ぞわぞわっ
この何かに撫でられる感覚には覚えがある。
ナナシさんが近くにいるようだ。
「⋯⋯なんじゃ、つまらんのう」
気だるそうなナナシの声が響いた。
クロヤの前の席を覆うように、黒い靄がじわりと湧き上がる。
思わず私は教室を見回す。
クロヤは頬杖をついたまま、机の上の教科書をぱらりとめくる。
ぼんやりと眺めていたが、ところどころで指が止まっていた。
教師はやる気のない生徒に、説明を続けていた。
⋯⋯誰も、気にしていない。
「ミクのように霊感があって、ようやく違和感を覚える。その程度しか、今はしておらんよ」
そんなこともできるなんて。
「おぬしと違ってな。ワシは力の使い方を心得ておるからの」
ナナシが前の机に腰を掛けた。
生徒と重なっている。
ナナシも、生徒も、気にした様子もない。
なんだか気味が悪かった。
「それよりも良かったのう⋯⋯」
ナナシは口角をわずかにつり上げた。
言っている意味が、よくわからない。
「ここなら獲物には、困らないじゃろ⋯⋯」
⋯⋯獲物。
その言葉が、胸の奥に沈み込んでいく。
「忘れたのか? ⋯⋯あと一人じゃ」
⋯⋯まがつもの。
この前、言っていたやつ。
「そうじゃ。よく覚えておったの」
ぱち⋯⋯ぱち⋯⋯と、ナナシが力ない拍手をする。
「おぬし、たくさんの人間を畏れさせてきたじゃろ。それが、あと一人⋯⋯。そうすれば禍つモノになれる」
まがつものって、なに?
「⋯⋯気になる、か?」
ナナシの縦に細く伸びる瞳孔が、私を捉えて離さない。
「そうじゃのう⋯⋯。ひと言で伝えるならば⋯⋯」
知ってはいけない。
そんな気がするのに⋯⋯。
「なにもせずとも、負を溢れさせてなあ」
ナナシが目をわずかに細める。
「気づいた頃には、周りが勝手に壊れておる」
ニイッと牙を剥き出しにした。
「⋯⋯そんな物のことよな」
言いたいことは終わったのか、ナナシはもう私を見ていなかった。
大きく伸びを一つ。
「ふぁ~あ」
そしてナナシは欠伸を残し、黒い霧へと形を崩した。
風もないのに形だけがほどけていく。
「じゃあこの問題を⋯⋯、クロヤ。お前がやってみろ」
馴染みつつある名前で、我に返った。
窓越しに遠くを見ていた三白眼が、黒板を鋭く捉えた。
周囲の生徒らも、どうするんだろうとちらちらと意識を向けてくる。
クロヤが勢いよく立ち上がる。椅子が床を擦る音が響いた。
不機嫌そうに頭をかき、教壇まで歩いていく。
教師が息を飲んだ。
黒板へ視線が集まる。
クロヤがチョークで数字を書き殴っていく。
「これでいいか?」
どうでも良さそうにクロヤは言った。
「⋯⋯正解だ」
「「「おおっ⋯⋯!」」」
にわかに教室がざわめいた。
「クロさん、勉強してねえのに⋯⋯。相変わらず、なんでわかんだよ」
「この前、聞いてみたら、たまたま教科書で見かけた内容を使ってるだけだってよ」
「⋯⋯は。マジかよ。さすがだよな」
「なっ。クロさん、ヤバすぎだろ」
こそこそと話す男たちのざわめきは明るい。
クロヤは興味もなさそうに席へ戻り、勢い任せに椅子へ背を預けた。
◇
昼間の喧騒が嘘のように、放課後の教室は静かだった。
窓から入る風が、私の髪を優しく撫でていく。
部屋にいるのはクロヤと、もう一人の男子生徒。
黒い塵が溜まる感覚はない。
私はクロヤの机に座らされ、身体には古いドレスの代わりにタオルを巻かれていた。
クロヤの三白眼が、鋭く古いドレスを射抜く。
針を持つ手を細かく動かしている。
その隣には前のめりに椅子に座っている、トーマという人がいた。
茶髪で、首元にチェーンを掛けている。
雰囲気が柔らかいおかげか、あんまり怖くはなかった。
「破れたとこは、かなりダメージいってるんで、広がらないように⋯⋯、そうそう、うまいっすね」
トーマの指示に、クロヤは無言で従っていた。
指先で糸を整え、短く切る。
「で、裏から当て布を入れて⋯⋯、あー、いい感じっすよ」
針を通していく。
クロヤの手は少しぎこちない。
だが、止まることはなかった。
「さすがっす、クロさん。思い切りがいいっていうか⋯⋯迷わないっすね」
「指示がうめえだけだろ」
トーマへ見向きもせずに、低い声で言う。
目を丸くしたトーマは、ヘヘッと笑いをこぼしていた。
少しずつ形を取り戻していくドレス。
破れた時は嫌な気持ちでいっぱいだったのに。
今は、何度も目で追ってしまう。
「とりあえず、右腕のとこはこれでいいな」
「クロさん、お疲れさまっす!」
「残らせて悪かったな」
「いえいえっ。お役に立てたなら、何よりっす」
クロヤは古いドレスの右腕をじっと見つめていた。
そして――
フッと、わずかに口元を緩めた。
綺麗に元通り、というわけではなかった。
ぎこちなく縫われた場所は、どこなのかわかる。
私は古いドレスを見つめ続けた。
⋯⋯きれい。
不思議と、そう思っていた。
「一番破れたとこは終わったっすけど、他はどうします?」
トーマの言う通り、古いドレスはほつれたり、小さな穴がいくつかあった。
「今度また頼めるか?」
「わかりました。もちろん、オレでいいなら、任せてください」
トーマは屈託のない笑顔で言った。
「ただ、あれだったらオレの親に頼みましょうか? 仕事にしてるだけあって、めっちゃ早いっすよ」
「いや、いい」
クロヤは私のことを見つめた。
いつもは怖いはずの目なのに。
今は怖くなかった。
「俺がやりてえからな」
そう言うクロヤは、いつもみたいに無表情だったけど。
頼まれたからでも、仕方なくでもない。
その言い方だけは、はっきりわかった。
どうしてか、目が離せなかった。
胸の奥の方に少しだけ、あったかいものがふわりと浮かんだ。
これはなんだろう?
けれど、それはすぐに、溶けてなくなってしまった。
◇
私を右腕に抱えたクロヤが、グラウンドを堂々と通り抜ける。
荷物は私だけだ。
教科書なんかは全部学校に置きっぱなしらしく、机の中に詰めこまれていた。
クロヤは歩いているだけ。
それでも、あちこちから挨拶や明るい声を掛けられる。
校舎横にある自転車置き場にたどり着く。
視界に飛び込んで来るのは、黒く重たいバイク。
あまりにも強い存在感。
周りにある自転車たちが、どこか遠慮しているように見えた。
バイクに掛けてある抱っこ紐を、クロヤが手に取る。
登校時に私が括られていたものだ。
バイクのヘルメットを被りかけて、クロヤがふと動きを止める。
「⋯⋯」
眉間に凄みが増していく。
え、何かあったのかな?
私、悪いことしてないよね?
「晩飯⋯⋯。何にすっか」
⋯⋯よかった。
怒っていたわけじゃなかった。
張り詰めていたものが、ほどけていく。
クロヤは何事もなかったかのように、抱っこ紐を広げていく。
前向きに私を収めると、ベルトを締めた。
不思議と、少しだけ落ち着いた。
クロヤは座席を跨いで、制服の胸ポケットに手を入れて、
「⋯⋯鍵。⋯⋯ゴリ先に預けっぱなしか」
クロヤは舌打ちを一つ。
「職員室にいっかな」
髪を乱雑にかき上げる。
私を抱えて、バイクのシートに降ろす。
「ちょっと待ってろ。すぐ戻る」
クロヤはそう言い残すと、踵を返した。
早足で、ずかずかと来た道を戻っていく。
風が、少しだけ強く吹く。
ぽつんと。
バイクの上に、私だけが残された。
⋯⋯だいじょうぶ、かな。
⋯⋯置いていかないで、ほしかった。
コツ⋯⋯。
自転車置き場に、音が響く。
胸の奥に黒いものが、ちりちりと積み重なる感覚。
⋯⋯誰か、いる。
身体にひやりとしたものが走った。
視線を上げた。
自転車置き場の入り口。
そこには男が立っていた。
眼鏡が陽を反射して、目元が見えない。
だが、間違いなく私を見つめていた。
男は周囲を見回す。
誰もいないことを確認するように。
コツ⋯⋯コツ⋯⋯コツ⋯⋯。
ねっとりとした足音が、迷いなくこちらへ近づいてくる。
男は冷たい視線で、私を見下ろしてきた。
荒い息が、かかる。
口元が、ゆっくり歪む。
次の瞬間――
私の身体を両手で握り込んだ。




