第29話 またいつか写真を
わずかな隙間から舞い込んだ風が、教室のカーテンを優しく揺らした。
放課後の教室。その中央にある机の側で、私は身体にタオルを巻いて座っていた。
今日の背もたれはトーマのお腹だ。クロヤより少し柔らかい膝の感触に、なんだか落ち着かない。
目の前には私のドレスに針と糸を通していくクロヤがいる。
三白眼は真剣そのもの。
少しでも邪魔をすれば、そのまま睨み抜かれそうな空気があった。
ハチが眼鏡を掛け直す。
赤髪の男も、なぜか固唾を呑んで見守っていた。
誰もが口を挟まないまま、静かにその時を待って――
「うし。これで完成だな」
クロヤの言葉に、張り詰めていた空気が一気にほどけた。
三人の明るい声が重なり、集中しきっていたクロヤは肩を回しながら、ふっと息を吐く。
時間があるときにトーマに習いながら、クロヤが少しずつ直してくれた私のドレス。
その箇所の一つずつが、クロヤが縫ってくれた姿を思い出させてくれる。
『クロヤ、ありがとう』
私は思いを素直に言葉にした。
けれど、返事はなくて、クロヤはドレスを見つめ続けていた。
声は――届かない。
少しだけ、胸の奥が静かになる。
わかっていた。
オヤジさんと繋げようとして、力の加減が上手くいかなかったあの時だけ。
危ういところまで踏み込んで、偶然起きた奇跡だった。
霊感がない相手に、声は届けられない。
だから、私とクロヤはまた、いつも通りだ。
それでも、いつかはまた届かせてみせる。
そんな思いをこめて、
『クロヤ、ありがとう』
もう一度だけ形にしてみた。
ふと――
クロヤの視線が落ちてきた。
しばらく見つめてきたあと、クロヤは口元を小さく緩め、手を伸ばしてきた。
私の頭にそっと手を乗せてくれる。
「こういう時のお前は、きっと感謝してんだろうな」
前にも感じた、あったかいものがふわりと浮かんだ。
心地よい感覚に、心をゆだねる。
「クロさんと、シロ見てるとよ⋯⋯。なんか良いなぁって思うよな」
赤髪の男がぽつりとこぼす。
「あー、ナナセの言いたいことわかる。なんか見てると、ほっこりするよね」
トーマが笑顔でうなずいていた。
軽口のやりとりの中、無言で眼鏡の奥から私へ向けてくる視線があった。
「クロヤさん⋯⋯あの」
ハチが意を決したように一歩を踏み出した。声は、少し震えていた。
「僕、あの時のこと、ちゃんと謝ってなかったなって⋯⋯」
「あん? きちんと俺に詫びたろ」
「そうじゃなくて⋯⋯」
ハチがうつむいて、私へと向き直る。
「シロちゃんに⋯⋯です」
「⋯⋯ああ」
クロヤは私を一瞥してから、小さく首を縦に振った。
「シロちゃん⋯⋯。あの時は、酷いことをしてごめんなさい」
ハチが側にいると積もっていた黒い塵。
それが、ふっとほどける。
もう、新しく生まれることもなかった。
私は念で、ハチの右手をそっと撫でた。
ハチは目を見開いて、反射的に右手へ視線を落とした。
「⋯⋯右手だったか?」
「あ⋯⋯、はい」
ハチの言葉に、クロヤがふっと口元を緩めた。
「許してやるってよ」
ハチは瞬きをしてから小さくうなずき、トーマとナナセは不思議そうに顔を見合わせていた。
◇
自転車置き場で、他の何よりも風格のあるバイクが、私たちを待っていた。
クロヤが手作りのヘルメットを手に取る。私の髪が絡まないよう、丁寧に被らせてくれた。
クロヤの手から、抱っこ紐へと身を預ける。
バイクを押しながら、校門まで向かったところで、ふと目に入るものがあった。
――白い車。
運転席のドアが開いた。
『⋯⋯クシダ?』
降りてきたのはジャージ姿のクシダだった。後部座席のドアを慎重に開け、直角に頭を下げる。
車内から先に現れた大きな手が、ドアの縁を掴んだ。
校門近くを通りかかった男子生徒が、降車した男を眺めてぎょっとしていた。
目元に傷跡の残る男が、こちらを見ながらくはっと笑う。
「おお、クロヤ。ようやく出てきやがったか」
紛うことなきリクドウ、その人だった。
「ちょっと乗ってけや」
◇
「で⋯⋯、兄貴もリクドウの車に乗ってきたわけね」
撮影スタジオの駐車場で、腰に両手を当てたミクがリクドウにジト目を送る。
私が抱っこ紐の中から見あげると、クロヤが頬を、ぽりとかいていた。
少し気まずい時の癖だ。
「ね⋯⋯、ミク⋯⋯。大丈夫なの?」
ミクの隣でサナが、恐る恐る尋ねてきた。
今にも逃げ出したい気持ちを、ミクの服の袖を摘んで、どうにか耐えているようだった。
「あーし、誰か呼んでこようか?」
「だったらあたしも連れてって。怖すぎるんよ」
その背後でぼそぼそと話してるのは、いつかの階段室で噂をしていた二人組だった。
「ほら、リクのせいでみんな怖がってんじゃない」
ミクが気安くリクドウの胸を叩くものだから、モデル仲間の三人の顔から血の気が引いていく。
「相変わらず、俺には厳しいよな」
「あたしの家ならいいけど、こんなとこまで来ないでよ」
「⋯⋯くはっ。嬢ちゃんたち、悪かったな」
口元を歪ませたリクドウに、三人は首を勢いよく振る。
「三人とも、驚かせてごめんね。でも、悪い人じゃないからさ。⋯⋯顔は怖いけど」
「う、うん。私は大丈夫」
すまなそうに言うミクに、サナが返事をしていた。
「じゃ、今日はここでお別れだね。またねー」
「ミク、おやすみ。またね」
ミクとサナたちが手を振り合っていた。
そうしてミクとクロヤは白い車の後部座席に乗り込んでいく。
リクドウが助手席に落ち着くと、車はゆっくりと走り出した。
運転席にいるクシダに気づくと、ミクは冷たい視線を投げかけるも、ため息をつくだけだった。
私はふわりと浮かび、抱っこ紐から抜け出した。ミクの膝元に収まる。
一瞬きょとんとしていたけど。
「シロ、ありがと」
明らかに肩の力を抜いたミクが、指で私の髪を梳くように撫でてくれた。
胸の奥がほんわかする。
そんなやりとりを横目で見ていたリクドウが呟く。
「すげえな」
「ん? なんのこと?」
「シロの気遣いがよ⋯⋯。人間の俺より、よっぽどわかってやがる。そう思ってよ」
鋭い眼光が私へと注がれる。
『やだ、見ないで⋯⋯。怖いよ』
「ちょっと、リク。うちの子を脅さないでよ!」
「あ、ああ⋯⋯悪い」
リクドウの視線を遮るように、ミクが私を抱え込む。少しだけ心が落ち着く。
けれど謝りつつも、まだリクドウの視線は外れない。
黒い塵が、泥が、蔦が――
今のところ感じられないのが救いだった。
「いや、やっぱり正直にいくぜ。今度――」
「あんたら兄弟は、なんでシロを欲しがるのよ! 絶対にダメ!」
「あん? くれとは言わねえって」
「あ、そうなの?」
肩透かしを食らったように、ミクの勢いがなくなる。
「ヤクモと話すときに、貸してくれ」
『ヤクモさんと⋯⋯』
「話すときに?」
私とミクは、二人揃って意味がよくわからなかった。
リクドウが頭をがしがしとかいた。
「俺、気遣いとか苦手だからよ。ヤクモと話してる時も、なんか馬鹿やってそうでさ。シロがいてくれたら、見えねえとこからでも、小突いてくれそうだろ?」
「なるほどね⋯⋯」
ミクがふぅと息を吐いてから、私へと視線を落としてきた。
『そういうことなら⋯⋯。いい、かな』
「⋯⋯シロが、いいって言ってるわ」
「うしっ、助かるぜ! 借りにしとくから、なんかあったら遠慮なく言えや!」
『⋯⋯うん。わかった』
「やっぱり、がさつなリクに任せるのは不安だわ⋯⋯。あたしもついてこうかな⋯⋯」
車内がにわかに明るくなる。
「お、ミクもうちに来んのか? そりゃいいな。そしたらよ、クロヤも当然来るよな」
「ああ」
リクドウの太い声が弾み、クロヤが迷いなく返事をした。
「シキの兄貴も、ヤクモも会いたがってたから、きっと喜ぶぜ。で、いつ来る?」
「⋯⋯友達を家に呼ぶみたいな軽いノリよね」
ミクがため息をつきながら、ぽつりとこぼした。
「っていうか、ヤクモとシキさん⋯⋯大丈夫なの?」
ミクの問いかけはもっともだった。
私たちが二人揃って見たのは、あの騒ぎの翌日のこと。
――ヤクモ、申し訳ありませんでした。
――いや、シキ兄にもさ。色々あったってわかったから。
――それで、いきなりですが⋯⋯
――なに?
――ちょっと抱きしめさせていただいても、よろしいですか?
――え⋯⋯あ⋯⋯うん。
見ている方が妙に落ち着かなくなる、ぎこちなさだった。
「とりあえず、シキの兄貴が会う度にヤクモに抱きついてんな」
「それは⋯⋯また、極端ね」
「毎回『抱きしめさせていただいてもよろしいですか』って言ってからな」
「⋯⋯ヤクモは大丈夫? 家出とかしてない?」
「最初は棒立ちだったのが、ちょっと背中に手を回すくらいになってっから。ま、大丈夫だろ」
いきなり仲直りは、きっと難しい。
でも少しずつ、積み重ねていけば、また一緒に写真を撮れるようになる。
――そんな気がした。
窓の外を流れていく夕暮れ。
白い車は、少しずつ見慣れた帰り道へと進んでいった。




