第27話 届かなかった想い
記憶の襖の向こうにいたのは、ランドセル姿で泣いていた少年ではない。
制服をパーカーで着崩し、ずっと背丈の伸びたヤクモだった。
襖を開く。
寂しそうな背中で座っているオヤジに、後ろから抱きつく。
わしゃわしゃと頭を撫でられて、心が弾んだ。
次の襖。
敵対した組に、単身で乗り込んだリクドウ。
追いついた時には、そこいらに強面の男たちが倒れていた。
怖い。足が震えそうになる。
けど、そんな気持ちを飲み込む。
相手の胸倉を掴んで、今にも殴り飛ばそうとしているリクドウ。
その背後から襲おうとしてる奴がいた。
敵に容赦している暇はない。
リクドウを守るために。
ヤクモは笑みを作って、敵へ立ち向かう。
◇
また襖を開く。
眼鏡の奥にあるシキの瞳は、いつも冷たい。
見つめられると、心が縮こまる。
ヤクモが部屋に入っても、一瞥するだけ。
パソコンを前にして、何かに没頭している。
声を掛けて、背後からぎゅっと抱きしめてみる。
触れられる距離なのにどこか遠い。
(なんでも出来る)
(頼りになる)
(かあさんが居なくなって)
(一番、変わったのはシキ兄だ)
(でも⋯⋯)
強い思いが、胸を締め付ける。
離さない。
抱きつく腕に力を込めた。
(一人にしたら、いけない)
(そんな気がする)
ざわざわと胸の奥が揺れる。
(⋯⋯なにか、ないかな)
考えたヤクモが、ハッとする。
「そうだ⋯⋯写真」
ぽつりと言葉にする。
シキがキーボードに走らせていた手を止めた。
「⋯⋯どうしました」
「シキ兄、写真とろうよ。みんなでさ」
「いえ、私は――」
「ほら、いこ」
否定の言葉を聞く前に、シキの手を強引に引く。
(今じゃないとダメだ⋯⋯)
(やれることは、すぐにやらないと)
(今日いるからって)
(明日も会える保証なんてないんだから)
そのまま家中を駆け回り、オヤジさんとリクドウまで外へ引っ張り出した。
鬼頭の看板前に、リクドウを立たせる。
「⋯⋯ったく、なんでいきなり写真なんだよ」
「天気もいいし、写真撮るにはいい日でしょ。ほら、リク兄は怖い顔してないで、笑って笑って」
「ちっ、しゃーねえ。⋯⋯くはっ! こんな感じでいいか?」
「ははっ! 鬼が笑ってるみたい」
「けっ、うるせーよ」
次はオヤジさんの手を引いて、隣に並ばせた。
「オヤジは、ここ。僕がこんな感じで抱きつくから、ちゃんと立ってて」
「おう」
「出来たら、シキ兄とリク兄と、三人で肩を組んで欲しいけど」
オヤジさんとリクドウ、シキがなんとなく顔を見合わせる。
誰も、すぐには返事をしなかった。
「⋯⋯俺たちもいい年だしよ」
リクドウが、ぽりぽりと頬をかく。
オヤジさんは頭をかき、シキは静かに眼鏡を掛け直していた。
照れくさそうな空気が広がっていた。
「ま、今日はいーや。久々だもんね」
ヤクモが笑うと、空気が明らかに緩んだ。
「だから写真だけは、いいでしょ?」
あと一人。
並んでないシキに、三人の視線が集まる。
シキは小さく息を吐き、オヤジさんに並んだ。
ヤクモは脚立にカメラを置き、タイマーをセットすると、迷わずオヤジさんへと抱きついた。
◇
現像した写真。
一枚をオヤジへ渡すと、頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。
一枚をリクドウへ見せると、ヤクモの手からかすめ取った。
「⋯⋯くはっ! 笑える顔をしてやがる」
そう言ってから手荒く胸元にしまっていた。
その最後の一枚を持って、シキの自室前に立つ。
閉じられた襖越しに声を掛けようとするが、あと一歩が踏み出せない。
波立つ気持ちが伝わってくる。
ヤクモの視線が写真へ落ちる。
仲良しとはいえない並び。
それでも四人が揃った久々の一枚。
(シキ兄、喜んでくれるかな)
胸の内に、言葉が響く。
(もし良いって言ってくれたら、また撮りたいな)
ヤクモは嬉しそうなため息を小さく漏らした。
「シキ兄、入るよ」
「⋯⋯どうぞ」
淡々とした返事に、ヤクモの心が揺れる。
ぐっと右手を伸ばして、襖を開けた。
視界に映るのはシキの背中。
来訪者へ、振り向きもしない。
「何かありましたか?」
パソコンのキーボードを軽快に叩く音に混じり、声だけが飛んでくる。
「この前の写真が出来たからさ。持ってきたんだ」
テーブルの向かい側に座る。
シキの視界に入り込んで、そっと写真を置いた。
シキの視線を、自然と追ってしまう。
間違いなく、一度は写真を眺めたのをヤクモは見た。
「そうですか」
それだけだった。
胸の奥で、不安がじわりと広がった。
ヤクモは待った。
秒針が何度も響いた。
シキが手を止める。
こちらを見つめてきた。
「まだ、何かありますか?」
「⋯⋯ごめんね。邪魔しちゃった」
小さく笑って、ヤクモは立ち上がる。
(ちゃんと写真が撮れたけど)
(シキ兄は、嬉しそうじゃなかった)
(⋯⋯かあさんなら)
(もっと、上手く出来たのかな)
部屋から出て、閉じた襖の向こうから聞こえてきたのは、またキーボードを叩く音だった。
(難しいね⋯⋯)
(どうしたらいいのかな)
(かあさん、教えてよ⋯⋯)
その思いだけが、胸の奥に沈んでいった。
◇
私は襖をいくつも開いた。
変わらず、ヤクモは家族へ手を伸ばしていた。
リクドウは声をかければ仕方ねえなあと相手をしてくれる。
オヤジさんが心臓を悪くし、常備薬が欠かせなくなっても、ヤクモは変わらず明るく支えた。
シキにも懲りずに笑いかけていたけれど、その距離だけは難しいままだった。
けれど。
あの日の写真みたいに、四人が並ぶ記憶だけは、もうなかった。
そして、また一枚の襖に踏み込む。
(オヤジ、起きてこないな)
台所の隣の部屋。
テーブルに用意した朝食を前にして、ヤクモは頬杖をついていた。
(昨日は組の会合だったから)
(疲れてるのかな)
壁に掛けられた時計は午前九時を回っていた。
(さすがにそろそろ起こそう)
立ち上がり、階段へと向かう。
ぎしと鳴る階段の先。
誰もいないみたいに、気配がなかった。
(まだ、寝てるんだ)
(今日はどうやって起こそうかな)
胸に小さく弾むものがある。
「オヤジっ」
明るい声で呼びかけながら、襖を開いた。
「いつまで、寝て――」
ヤクモの言葉がしぼんでいく。
呆然と。
部屋の中にいるオヤジさんを見下ろす。
オヤジさんは、うつ伏せだった。
布団はない。
何かに手を伸ばすように倒れていた。
床には、ヤクモがプレゼントした携帯型の薬ケース、そして散らばった錠剤があった。
「⋯⋯オヤジ?」
ヤクモの呼吸音だけが部屋に落ちる。
浅く、速くなる。
ざわざわと、心が波打ち始める。
「ほら、朝だよ。ご飯冷めちゃうって」
明るく振る舞って、オヤジの肩に手を添えた。
冷たい。
どうしようもなく。
その瞬間、胸の奥が真っ白になった。
「あ⋯⋯ああ⋯⋯」
動かないオヤジさんにすがりつく。
離さない。
行かないで。
そんな思いがあふれた。
「ああああっ!」
真っ白な世界に。
色がごちゃ混ぜに流れ込んでくる。
◇
襖を開く。
オヤジさんの部屋に置かれた棺。
ヤクモが覗き込む。
全てが白かった。
花も、装束も、肌の色も。
線香から立ちのぼる煙。
「朝だよ、オヤジ⋯⋯」
静寂にぽつりと落ちた言葉。
オヤジさんは、もう起きない。
視線が、吸い寄せられる。
飾られた写真の中。
オヤジさんが、少し困ったみたいに笑っていた。
胸の奥が、ぐちゃりと歪む。
(返事をしてよ)
(笑ってよ)
(また、頭をくしゃっとしてよ)
心が震える。
オヤジさんからの返事は、ない。
(もう二度と、話せないんだ⋯⋯)
胸の奥にぽっかり空いた穴が、大きくなっていく。
◇
そこから先にある記憶は、どこか曇っていた。
ヤクモは変わらず笑っていた。
リクドウへ声をかけて。
シキへ懲りずに話しかけて。
まるで、胸の奥に空いた穴なんて見えないみたいに。
けれど、本当は違う。
笑っても。
声をかけても。
抱きついても。
もう、埋まらないものがあった。
オヤジさん。
かあさん。
もう二度と、話せない。
その現実だけが。
胸の奥に広がった穴の中で、ずっと消えなかった。
それに――
オヤジさんが居なくなってから。
シキは、もっと遠くなった。
ただでさえ冷たかった瞳は、ますます温度をなくして。
抱きついても。
笑いかけても。
触れられる距離にいるのに、届かない。
(シキ兄も⋯⋯)
(一人で、穴の中にいるみたいだ)
どうしたらいいのか、わからなかった。
かあさんみたいに、上手く出来ない。
オヤジさんみたいに、大きくもなれない。
だから、私が家にやってきて。
『コロサレタ』
黒い影の言葉を伝えたその瞬間。
胸の奥に空いた穴へ、何かが落ちた。
ざわり、と。
諦めかけていた場所が、揺れる。
(⋯⋯見えないだけで、いるの?)
ぽつりと。
胸の奥で、声にならない声が響く。
(もう一度、オヤジと)
(かあさんも話せたり、するのかな)
胸の奥で、すがるみたいな思いが形になる。
(もし、かあさんが)
(シキ兄とも、話せたら)
少しだけでも。
あの冷たい瞳が。
遠くなった背中が。
戻るのかな、と。
空っぽだった穴に、そんな願いが落ちてしまった。
止められなかった。
(欲しい)
(あの人形がいれば)
(もう一度だけでも――)
そこで、世界が大きく軋んだ。
気づけば暗闇と襖の空間に戻されていた。
次の襖が待っているのか。
そう思ったのだけど。
灯りが一つ、また一つと潰れていく。
『……っ』
引き戻される。
◇
急激に戻った身体の重み。
クロヤの腕に抱かれた感触。
冷たい庭の空気。
オヤジの怨霊に囚われ、白目を剥いたヤクモ。
ゆらりと歩み、確実に近づいてくる。
いつの間にか、あと数歩の距離まで迫っていた。
まだ、終わっていない。
「シロ⋯⋯今のは⋯⋯なんだよ」
クロヤが片手で頭を押さえる。
苛立ちとは違う。
胸の奥に、知らない痛みでも残ったみたいな顔だった。
「⋯⋯ヤクモ」
シキが、立ち尽くしていた。
眼鏡の奥。
いつも冷たいはずの瞳が、ひどく揺れている。
そこで私はようやく気づいた。
『⋯⋯シキさんも、見たんだね』
私はぽつりと言葉をこぼした。
クロヤが、息を呑む気配がした。
長い沈黙。
やがてシキは、ひどく掠れた声で呟いた。
「あなたは一人で、ずっと――」
「オマエガ、コロシタッ!」
庭に、怨霊の慟哭が響き渡る。
シキが吸い寄せられるように、前に出る。
止めるよりも先に。
間合いに踏み込んでしまった。
涙を零しながら、ヤクモが刀を振り上げた。




