第26話 記憶の襖
手はだらりと垂れ下がり、胴体は大きく左右に傾かせながら。
ゆらりゆらりとヤクモが進んでいく。
禍々しい気配に、誰もが息を呑んでいた。
どこへ向かおうとしているのか。
歩みはゆっくりと、床の間を目指していた。
伸ばされた手が掴んだもの。
オヤジの日本刀。
抜き放つと鞘を無造作に投げ捨てた。
白目を剥いたヤクモが大きく息を吸う。
「ア゙ア゙アァァァ!」
怨嗟の咆哮。
室内に強風のような圧力が押し寄せる。
ミクとリクドウ、そしてクシダが襖を突き破りながら、数部屋先まで飛ばされる。
シキは、その場に縫いつけるように柱へ叩きつけられる。
「ぐ⋯⋯!」
クロヤが呻き、腕で私を包んだ。
普通なら倒れるほどの前傾姿勢。
迫る圧力に、どうにか踏みとどまっていった。
私も力を放つ。
怨霊と私。
力の元が、似ている気がした。
だから、押し返せないか。
そう思ったのだけど。
ダメだ。
触れた瞬間、わかった。
質は同じ。でも、強さが違いすぎる。
相手のそれは、まるで迫る壁だ。
わずかな時間稼ぎにもならない。
クロヤが仰け反る。
足が畳から離れた。
勢いのまま、壁へ叩きつけられそうになる。
『クロヤっ!』
咄嗟だった。
押し返すのは無理でも。
支える。
壁に迫る背中を受け止めるように。
激しい衝撃。
それでも、少しは助けられたのだろう。
クロヤの瞳に、すぐさま力が宿る。
だが、ヤクモが待つわけもない。
白目のまま、ぎぎっと首の向きをシキへと変えた。
重圧は止み、刀の先端を引きずりながら踏み出した。
「おい! 逃げろっ!」
クロヤの言葉は、確かに届いているはずなのに。
シキは動かない。
柱に背を預け、迫る脅威を冷たい眼差しで見つめるだけだ。
クロヤは小さく呻きながらも、動こうとしていた。
私は少しだけでも助けになればと、念じる。
クロヤが、かろうじて立ち上がった。
「コロシタ――オマエガ、コロシタ――」
ヤクモが刀を振りかざす。
クロヤは手を伸ばす。
おぼつかない足取り。
崩れないよう、私は必死に支える。
けれど、間に合う距離じゃない。
刃が、振り下ろされる。
ヤクモの腕も。
クロヤの動きも。
シキのこぼした笑みも。
残酷なくらい、ゆっくりと感じられた。
白刃がシキの眉間に迫り――
「⋯⋯ヤクモ?」
シキがぽつりとこぼす。
刃は止まった。
いや、⋯⋯違う。
ヤクモの左手が、右手を掴んでいた。
「ぼさっとすんなっ! 動けっ!」
クロヤがシキの腕を捉えると、思いっきり引き寄せる。
「ガアァァァ!」
左手を振り切った右手が、白刃を振り抜く。
斬り遅れて、風圧が通過した。
一瞬の間を空けて。
柱と、隣の部屋の天井まで一気に亀裂が走った。
軋む天井。
クロヤだけなら、廊下から庭へすぐに逃げ出せたかもしれない。
けれど、床に座り込んだままのシキがいる。
呆然とヤクモを見つめるばかりで、動くことを忘れているようだ。
「立って、走れ!」
胸倉を引き上げ、シキを無理やり立ち上がらせる。
天井の歪みが限界を迎え――
『ダメっ!』
私は身体をクロヤに委ねたまま、天井へと無我夢中で力を伸ばした。
隣室では一瞬にして天井が落ちる。
それでも、どうにかこの部屋だけは、支えきる。
「シロ、そのまま耐えてくれっ」
『うんっ!』
私たちとシキは、もつれるように庭へ転がり出る。
背後で、重いものが落ちる音と振動が響いた。
振り返れば半壊した部屋に、ヤクモの姿が変わらずある。
視線が捉えるのは私たち。
ゆらりと歩を進めてくる。
歩みは速くない。
シキを連れて逃げようと思えば、距離をとるのは難しくない。
でも、それではダメだ。
シキを殺しかけた瞬間、左手が確かに抗っていた。
ヤクモの意思。
⋯⋯まだ、残っているのではないか。
けれど、猶予はあまりない。
そんな気がする。
『ナナシっ!』
ナナシなら何か知っているかも。
そう思って呼びかけるが、返事はない。
ミクの方に、ついているのだろう。
『オヤジさん、聞いてっ! シキは、あなたを殺してないっ!』
ゆらり、ゆらり――
ヤクモが足を止める気配はない。
もはや、声だけじゃ届かないのかもしれない。
もっと深く⋯⋯。
ふと、蘇るものがあった。
――それはワシらが近い存在ゆえ、繋がれるだけじゃ。
ナナシとの会話。
幾度となく霊同士で繋がってきた感覚が過ぎる。
理屈なんてわからない。
どうやったのかも知らない。
でも——。
内側に触れられる感覚、それで繋がっていた。
なら、逆に私から再現できたとしたら。
もっと深く、届かせることが出来たとしたら。
『お願い……っ』
ヤクモへ向けて、私は震える力を伸ばした。
繋ぐ。
私の思いと、相手の思いを。
それだけをイメージする。
何かの感覚が、私から伸びていく気がする。
壊すためじゃない。
届くために。
イメージを膨らませる。
『お願い!』
あと少しでヤクモに触れそうなところで。
瞬間、ぶつりと。
伸びていた感覚が切れた。
『え――』
爆ぜる。
広がる。
世界が、眩しい奔流に呑み込まれていく。
クロヤの腕。
すぐそばのシキ。
触れていた全部ごと、引きずり込んだ。
◇
光が遠のき、世界が輪郭を取り戻していく。
けれど、よくわからない場所だった。
足場があるかもわからない暗い空間。
ぼんやりと淡い灯りが、ぽつりぽつりとある。
その一つ一つが照らすのは、閉じられた襖だった。
これは、なんだろう。
ここは、どこだろう。
遠くまで続く終わりのない暗闇が、胸の奥を不安で揺らす。
灯りに浮かぶ襖に意識が向かうのは、仕方がないことだった。
何があるんだろう。
そう思っただけなのに、スッと襖が開いた。
漏れ出た光で、景色が歪む。
◇
視界に広がったのは、わずかにぼやけた光景。
目の前にあるのは、白い天井だった。
ゆらりゆらりと、やわらかい動きに身を任せている。
ここはどこなのか、相変わらず私には理解出来ないけど。
どうしてか、胸の奥があったかい。
そんな感覚だけがあった。
ふいに影が差した。
真上から覗くように見つめてくる二人。
髪の長い女の人は微笑んでいる。
見ているだけで、胸の奥がほんわかとする。
もう一人は、丸い縁取りの眼鏡を掛けた男の子。
伸ばしてくる手は、かすかに震えていた。
私はなぜか、泣き出したい気持ちになる。
男の子の手が頬に触れた。
そうわかると、小さなざわざわはすっと溶けていった。
直後。
予兆もなく視界を白が覆う。
◇
気づけば、暗闇にぽつりと灯す襖の前にいた。
どうやら、戻ってきたようだった。
目の前にある襖をもう一度覗こうとしてみる。
けれど、今度は開くことはない。
一度見たから、なのだろうか。
なら——と、別の襖へ意識を向ける。
不思議なことに。
私の身体は闇の中で、自由に動けた。
浮かぼうとしなくても、するりと身体が近づける。
二つ目の襖へ触れた瞬間、視界がまた滲んだ。
「かーたん、おはよ」
舌足らずの可愛らしい声に、台所前にいた女性が振り返る。
エプロンで手を拭い、ゆっくりと両膝をつく。
そして両手を大きく広げた。
私の意思とは関係なく、女性の胸元へ飛び込んでいく。
優しく包みこまれると、ほっとするものが胸にあふれていく。
(かーたんのぎゅ⋯⋯。気持ちいい)
身体の内に、誰かの言葉が響いた。
ふと、女性が顔を上げた。
その視線の先。
少しだけ離れた場所で、眼鏡の男の子が立ち尽くしていた。
少し大きくなっているけど、さっきの男の子と似ていた。
「シキも、おいで」
女性のやわらかな声。
眼鏡の奥が、わずかに揺れる。
遠慮するみたいに、少しだけ迷って。
それでも、ゆっくり近づいてくる。
そんな眼鏡の男の子のすぐ横を、どたどたと駆け抜けるタンクトップの男の子。
「リクも来たのね」
片腕は私を包んでいて。
もう片方の腕には、別の男の子。
埋まってしまった腕を前にして、眼鏡の男の子は立ち止まった。
ほんの少しだけ。
寂しそうに見えた、その時。
「もう⋯⋯しょうがないわね」
女性が笑う。
ヤクモとリクを抱えたまま、ぐいっと身体ごと前へにじり寄る。
そして残った腕も肩も使って、三人まとめて包み込んだ。
女性は、自分の額をこつんと眼鏡の男の子へ寄せた。
「お兄ちゃんだからって、遠慮しないでいいのよ」
眼鏡の奥で、目をぱちぱちと瞬かせた。
それから。
安心したみたいに、小さく身体を預けた。
三人がぎゅっと抱きしめられる。
(くるちい)
そう思っても、嫌な感じはない。
どうしてか。
胸の奥が、もっとあったかくなった。
◇
白い光、そして襖の前へ戻される。
灯りの中に取り残されたまま、私は考える。
これはたぶん⋯⋯。
ヤクモの感じた世界。
オヤジさんと繋ぐつもりで、上手くいかなかった。
その代わりにヤクモと深く深く、繋がってしまったのだろう。
下手に人と繋がるのは、よくない。
ふと、ナナシがそんな事を言ってたことが過ぎる。
闇の中で一つの灯りが、少し広がった。
一つ離れた襖が、開いていた。
大丈夫なのかは、わからない。
でも、呼ばれている気がして、私は抗えなかった。
そうして広がる次の光景。
部屋の隅。
投げ出されたランドセルのすぐそばで、膝を抱えて座り込み、ぼんやりとアルバムへと視線を落としていた。
窓から注ぐ陽光はあたたかい。
でも、どうしてか部屋は寒かった。
胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたようだった。
アルバムの一ページ。
「三雲誕生」とやわらかい文字を、小さい指先がそっとなぞる。
パラリ。
丁寧に、めくる。
じっと見つめる。
そして、まためくる。
何度も繰り返す。
オフクロさんがいる。
オヤジさんがいる。
シキがいる。
リクドウがいる。
ヤクモがいる。
みんな、楽しそうだった。
けれど、あるところで止まってしまう。
かすかに指先は震えていた。
ヤクモが小学生のカバンを背負っている写真。
その先はなかった。
ぽたり。
涙が写真を濡らした。
(⋯⋯なんで、ないの)
ぽたり。
ぽたり。
(なんで、ここで終わりなの)
アルバムを抱きしめる。
何かを求めるように。
(かあさんが、いなくなってから)
(オヤジも)
(シキ兄も)
(リク兄も)
(⋯⋯前みたいに、笑ってくれない)
声を押し殺しても、涙は止まらなかった。
胸が痛んだ。
この感覚は、ヤクモのものなのか。
彼を前にした、私の気持ちなのか。
どっちだとしても、私に出来ることはなかった。
どれだけそうしていたのだろう。
窓から差し込む光が、赤みを帯び始めていた。
身体を起こして、袖で乱暴に目元を拭う。
(⋯⋯泣いてるだけじゃ、ダメだ)
(みんな隠してるけど、僕は知ってる)
(かあさんは、殺された)
(シキ兄もリク兄も)
(悪いヤツをやっつけた)
(とても、いけない方法で)
膝の上にある手が、強く握られる。
(⋯⋯あの日から、おかしくなってる)
(オヤジは、寂しそうになった)
(リク兄が暴力を振るうようになった)
(シキ兄も、冷たくて、怖くなった)
(みんな、バラバラになってる)
視線がアルバムに向けられた。
(⋯⋯僕が)
(やるんだ)
アルバムに書かれた、やわらかい形の文字に触れる。
(かあさんが、大切にしてたもの)
(みんなを)
寒かったはずなのに、胸の奥だけが熱かった。
(バラバラにならないように、繋ぐんだ)
(守れるように、強くなるんだ)
(かあさんがしてくれたみたいに)
(僕が明るくするんだ)




