第20話 タバコの香る部屋
――とりあえず、今はいいや。じゃあね。
ヤクモが呼んでおきながら、そう言って部屋から追い出された。
背後でピシャリとふすまが閉められた。
「⋯⋯なんなの、あいつ」
「さあな」
ミクが小さく毒づき、クロヤは短く返す。
さっきまでの空気が嘘みたいに、廊下は静かだった。
「⋯⋯とりあえず、最初の部屋に戻ろっか」
「ああ」
もと来た道を戻ろうと階段前まで近づく。ミクが一段降りようとした時だった。
ヤクモの部屋があるのと真逆。
廊下の奥で――
すっと、何かが横切った。
ミクも鼻をすんと鳴らした。
『⋯⋯今の』
「一瞬だけど、強く臭ったわね」
気づいた時には、もういない。
でも、確かに何かがいた。
「⋯⋯いたのか?」
「たぶん、ね」
ミクの返答と、私がクロヤの右手をなぞったのは、ほとんど同時だった。
おびき寄せようとしている。
初めに過ったのは、そんな考えだった。
でも、何のために?
『ミク⋯⋯、ついていこ』
「⋯⋯マジで言ってる?」
『呼ばれてる。そんな気がするから』
絶句するミクに、クロヤが問いかける。
「シロ。なんだって?」
「⋯⋯ついていこうってさ」
「わかった」
「⋯⋯まったく。少しは躊躇いなさいよ。⋯⋯似たもの同士なんだから」
ぶつぶつと文句を言いながらも、ミクの身体は陰っている廊下へ向いていた。
クロヤと私が⋯⋯似たもの同士。
その言葉を反芻する。
まだまだクロヤみたいに、強くないとは思う。
けれど、ちょっとでも近づけてるみたいで。
⋯⋯嬉しいな。
「行くぞ」
「⋯⋯うん」
クロヤの一歩で、廊下がぎしりと音をたてた。
角を曲がった先。
三つのふすまが待ち構えていた。
間違えたら終わり。そんなことはないだろうけど、軽々しく開けるのは違う気がした。
「どれだ」
「えっと⋯⋯シロ?」
困ったように首を傾げて、ミクが選択を投げてきた。
『真ん中⋯⋯かな』
かたん。
私の声に応えるように、物音がした。
「真ん中だって」
「じゃあ⋯⋯、行くぞ」
手を伸ばし、クロヤがちらりと振り向いた。
ミクがうなずくのと、私が右手のひらを撫でるのは同時だった。
すっと、ふすまが開いた。
クロヤは開けてないはずなのに。
「――ちょっ!?」
『ひゃあ!?』
薄暗い空間に、顔があった。
目元に走る古い傷。
細められた目が、こちらを射抜いてくる。
何かを吐く音が、あまりにも近い。
「あああ、兄貴! ぼけっと立ってないで、逃げないと!」
「おちつけ、ミク」
「なんで兄貴はおちつけんのよっ!?」
ぜったい、ミクが正しい。
これは触れちゃいけないものだ。
逃げなきゃいけない。
そんな思いで、クロヤの手を力いっぱい押し続けた。
「⋯⋯シロも、よく見ろ」
眉一つ動かさないクロヤが、低い声を落とす。
「リクドウだ」
「⋯⋯あ?」
目の前の顔が、わずかに眉をひそめる。
「なに騒いでんだ、てめえら」
薄暗い中で、落ち着いて見れば手も足も確かにあって。
間違いなくリクドウだった。
◇
リクドウに招き入れられた部屋は、静かだった。
それぞれ、あぐらや正座で好きなように腰を下ろす。
「びっくりさせないでよ⋯⋯ほんとに」
ミクはまだ息を荒くしている。
「勝手にビビって騒ぐなよ」
リクドウが鼻で笑う。
「いや、あんたの顔、想像以上に怖いわよ! 子供だったら泣いてるわ」
「⋯⋯くはっ! 言うねえ、嬢ちゃん。ま、大人でも泣くことある顔だからなあ」
「⋯⋯最悪だわ」
ミクがふっと視線を逸らす。
「それにしても、この部屋⋯⋯」
小さく鼻を鳴らした。
「随分とタバコの臭いが染み付いてるわね」
ミクは顔をしかめた。
私に鼻はないからわからない。けれど、ミクにとっては苦手なものらしい。
私は部屋を見回した。
広さのわりに、物は少ない。
奥の壁に、額縁が一つだけ掛けられていた。
そこに飾られた写真に、見覚えがあった。
ヤクモの部屋でも見た、男四人の写真だった。
部屋の隅には将棋盤と低い机。
タバコの箱と灰皿、短くなった吸い殻がいくつか並んでいる。
誰かが使っていた形のまま、時間だけが止まったみたいだった。
「灰皿に吸い殻がたんまりあんだろ。オヤジはヘビースモーカーだったからよ⋯⋯」
灰皿に視線を落としたまま、続ける。
「もしかして⋯⋯、そのままにしてるの?」
「⋯⋯シキの兄貴は片付けろって言うけどよ。こうやって置いときゃ――」
ぽつりと呟く。
「また笑って、吸いに来る気がしてな」
指先で、一本だけ吸い殻を転がした。
「⋯⋯がさつだと思ってたけどさ。意外と、感傷的なとこもあるんだ」
「⋯⋯くはっ! 嬢ちゃん、俺には強気だよな。シキの兄貴やヤクモ、オヤジの霊には振り回されてんのによ」
「あんたも怖いわよ⋯⋯。でも、ほら⋯⋯。一度、やりあったじゃない。だからかな」
ミクが頬をかきながら、乾いた笑いをもらした。
「まあ、それはいいんだけどさ。あんたの兄弟も、よくわかんないわよね」
「ヤクモとシキの兄貴か?」
リクドウが、少しだけ肩をすくめた。
「ヤクモはあのまんまだ。可愛いもんだろ」
「か、かわいい?」
「いくつになってもリク兄って寄ってくんだよ。クソ甘えん坊だろ。ま、俺たち以外には、ちょっと加減を間違える時があるけどな」
笑いながら軽く言う。
私たちが見てきたヤクモと、本当に同じ人間を想像してるのか疑いたくなる。
「あいつの明るさに、助けられてるとこもある」
「そうなの?」
「俺たちの仕事は、後ろ暗いとこがあっけどよ。ヤクモがいると、少し空気が緩むんだわ」
「明るい⋯⋯。まあ、確かにそうかもね⋯⋯」
「あの写真もな。ヤクモが撮ろうって言ったんだぜ」
リクドウの視線が額縁へと向かう。
「ヤクモの部屋でも見たわ」
「俺の部屋にもあるぜ」
「一人一枚持ってるの?」
「ヤクモが四枚用意したのを見たしな。たぶん、そうだろ」
「極道で、しかも男四人の家族写真⋯⋯。偏見かもしれないけど、なかなかよね」
「くはっ! 面白えだろ」
「まあ、リクドウやシキさんが撮ろうって言うのは、想像出来ないわ」
ミクの言葉に膝を叩いてリクドウが笑う。
「シキの兄貴は、俺だってわかんねえとこあっからな⋯⋯。まさに別格って感じだろ」
続く言葉には少しだけ間があった。
視線が、机でも額縁でもなく、どこか遠くを見る。
「頭も回るし、ケンカも強えし、仕事もきっちりやる」
「少しだけ話したけどさ。なんでも出来そうな人って感じよね」
ミクの言葉に、シキの姿が思い起こされる。
当たりが強いわけではない。
だけど、鋭い何かがある。
さっき見かけた日本刀みたいに、静かに張り詰めてる人だった。
「ほんと、敵わねえよ。経済がうんたらとか、抗争になる前に相手を潰すとか⋯⋯」
そう言いながらも、リクドウの声はわずかに弾んでいる。
「殴るだけじゃどうにもならねえことを、平然とこなすからな。⋯⋯そうだな。一つ面白え話をしてやろうか」
あぐらをかいたリクドウが、前に身を乗り出す。
「ひとりで組一つ、潰したって話があんだよ」
「⋯⋯相手だって普通じゃないのに。そんなこと出来んの?」
軽く肩をすくめる。
「俺が行った時には終わってたからなあ。敵の一匹から聞いた話になるんだけどよ。立ち向かっても、逃げようとしても、やることなすこと全部潰されてな⋯⋯。気づいた時には――もう詰んでたらしいぜ」
ニッと、得意げに口元を歪める。
「な? やべえだろ、あの人」
「お兄さんのこと、好きなんだね」
「まあな」
「あんたの兄貴って、聞けば聞くほどすごいわね。天才ってやつなのかな」
「⋯⋯いや」
リクドウが、少しだけ首を振る。
「そんな綺麗なもんに、あぐらかいてねえよ」
「⋯⋯そうなの?」
ミクが眉根を寄せた。
「将棋でオヤジに負けた時なんか、表情は変えねえのに、将棋の本を読み漁っては挑んでな⋯⋯。勝つまで繰り返してたわ」
部屋の隅にぽつんと置かれた将棋盤へ、リクドウが視線を向ける。
ニッと笑みを浮かべるリクドウは、どこか子供みたいな雰囲気があった。
「鬼頭組もシキの兄貴がまとめんなら、俺は納得できるぜ」
「そう、なんだ。リクドウって、誰かの下につくなんて嫌がるかと思ってたけど⋯⋯」
「器がちげえよ。俺は殴る専門だしな」
あっさりと言う。
少しだけ間を置く。
「ただ――こんなに早く頭になるとは、思ってなかったけどよ」
短く息を吐く。
「⋯⋯オヤジが『殺された』ってんなら。そいつだけは、許さねえ」
猛獣のような瞳で、リクドウが右手を左手のひらに叩きつける。
乾いた音が、部屋に響いた。
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
そんな重い雰囲気の中――
ふっと、黒いものが視界の端をよぎった。
形は曖昧で、しかし確かにそこにある。
ミクが鼻を強く摘み、周囲を見回しながら警戒する。
そんな露骨な様子に、リクドウは詰め寄った。
「嬢ちゃん。オヤジか? どこにいんだ?」
「あたしは見えないってば⋯⋯。シロ、いるの?」
『うん。いるよ⋯⋯』
「どの辺?」
わずかな靄が吸い込まれていくように消えた。
『写真が飾られたところ。消えちゃったけど』
「いや⋯⋯、いるわよ。臭い、すごいもん。写真って⋯⋯、これよね⋯⋯」
ミクがびくびくしながらも、写真の飾られた額縁に近づいていく。
「⋯⋯伝えたいことあんなら、もうちょっとわかりやすくして欲しいわ」
「⋯⋯そういや嬢ちゃんたち、なんでここに来たんだ?」
「階段降りようとしたら、シロが黒い影っぽいものが通ったって⋯⋯。ついてきたら、この部屋だったのよ」
「オヤジに呼ばれたってことか?」
「知らないわよ⋯⋯。まあ、陥れようって感じじゃなさそうだけどさ⋯⋯」
言いながらもミクの手が額縁に触れる。
「これになんかあるのかな⋯⋯。それとも壁の向こう側になんかあるとか――え?」
「おい、額縁がどうしたってんだ」
額縁前にはミクが居るのに、リクドウが鼻息を荒くしてずいっと前に出ようとする。
「ちょ、落ち着いてよ。⋯⋯これ、後ろになんかない?」
ミクの指先が、縁をなぞる。
止まる。
「⋯⋯やっぱり、微妙に浮いてるわよ」
ほんのわずかだけ、壁と額縁の間から黒い靄が漏れ出た。誘っているみたいだった。
『⋯⋯そこにいる』
思わず、声が出た。
ミクが、ゆっくりと力を込める。
きぃ、と乾いた音が鳴った。
額縁が持ち上がる。
隠れていた壁が、ゆっくりと姿を見せる。
そこにあったのは冷たい、硬い気配。
鈍く光る、金庫。




