第18話 最後に残るもの
胸の奥に押し寄せていた黒の奔流は、次の瞬間には、ほとんどが霧散した。
細かな塵だけが、湧き上がり続けている。
「へぇー、すごいこと言うね」
口火を切ったのはヤクモだった。
「誰かの霊⋯⋯みたいのが、話しかけてきた。それ、嘘じゃないんだよね?」
表情と声はやわらかいのに、視線が私を強く射抜いてくる。
歪な組み合わせ。
どんな感情なのか読めない。
クロヤの右手を圧でなぞる。
「嘘はついてねえ、だとよ」
「ふーん⋯⋯」
ヤクモの視線は、代わりに答えてくれたクロヤに流れた。互いに目を逸らさない。
「ま、いいや。クシダ、行くよ」
くるりと踵を返し、後頭部で両手を組み合わせると部屋から出ていく。
その後を、クシダが慌てた様子で追いかけていった。
胸の奥に湧き続けていた細かな塵が、ふっと遠のいて、感じられなくなった。
「ねえ、リクドウ」
ミクがリクドウへ話しかける。
けれど、顎を撫でるばかりで反応がない。
「ねえってば!」
「⋯⋯悪い。ちと考え事してたわ」
ミクの強い投げかけで、ようやく言葉を返してきた。
さっきまでの軽さが、ほんの少しだけ消えている。
「あんたの言うとおり、家のこと見たでしょ? ⋯⋯もう、帰っていいわよね」
「あー⋯⋯」
頭をかきながらリクドウは、わずかに考える素振りをした。
そして――
「帰さねえ」
「ちょっと! 話が違うじゃない!」
「事情が変わったからよ。とりあえず、ゆっくりしていけや」
勢いよく立ち上がり、見下ろしてくる。
じっと見つめた後、何も言わずに廊下へ踏み出した。重量のある足音が遠ざかっていく。
「ちょ、リクドウ! あたしたち、どうすればいいのよ!」
ミクの叫びは虚しく響くばかりだ。
「⋯⋯殺された、ですか」
眼鏡を掛け直したシキが、ぽつりと呟いた。
「ええと、シキさん⋯⋯だっけ?」
ミクがシキへと向き直る。
「あなた、お兄さんなんでしょ? だったら、あたしたちが帰れるよう、あいつに言って聞かせてよ」
「それは難しいでしょう」
「どうしてっ!」
「その人形が見たという黒い影が⋯⋯、殺されたと言ったからです」
眼鏡の奥にある瞳が、冷たく光る。
「私自身は、いまだ半信半疑ではありますが⋯⋯。霊というものがいて、この家に居ついているのならば⋯⋯。それは、オヤジ――私たちの父親でしょう」
「あなたたちのお父さん?」
「組員から不可解な報告があがるようになった時期、オヤジの亡くなったタイミング。加えて、なぜか私たち兄弟には無害」
瞳を閉じて言葉を並べていくシキ。
迷いがない。
必要なものだけを正確に取り出し、不要なものには一切触れない。
そんな思考の流れが、そのまま言葉になっているようだった。
「あなた方の言葉を借りるなら、オヤジがこの家に憑いてる。⋯⋯霊とは、簡単に生まれるものですか?」
「⋯⋯ママから聞いた話だと、人が霊になるのは、よほど心残りがあるらしいわ」
「オヤジの死は、組の誰もが不慮の事故だと結論付けた。⋯⋯しかし、そうではなかった可能性が示唆された。息子たちが何を考えるか、わかるでしょう?」
「真相を知りたい⋯⋯」
「⋯⋯いえ」
フッと口元を崩して、シキが私を見つめた。
温もりなど微塵もない瞳だった。
「犯人に、償ってもらう」
ゆっくりとした動きで、シキが頬杖をついた。
「⋯⋯こちらの世界なりの方法で」
感情が抜け落ちたシキ。その冷たさから、視線が離せなくなる。
ミクの喉が小さく鳴っていた。
「さて⋯⋯私も一仕事しましょうか。オヤジの死んだ日は、組の会合がこの家でありました。それぞれの動きを、正確にまとめなければなりません」
シキがゆるりと立ち上がる。
「そうですね、この部屋を貸し出しましょう。ゆっくりと、くつろいで結構です」
こちらの返答を待たず、シキは障子を閉めた。
その音だけが、妙に響いた。
◇
「どうにかして、帰れないかな」
部屋の隅で膝を抱えたミクが、重いため息をついた。
その隣には、壁に背を預けたクロヤがいる。
側にいるからよくわかるが、クロヤは休んでいるようにみえて、一瞬たりとも気を緩めていない。
絶えず目配せをしつつ、周囲とミクを気にかけていた。
クロヤも休めたらいいのに。
でも、そうできない気持ちもわかる。
さっきの短い時間で、胸の奥に湧いたのは、今までとは違う黒いものだった。
それに誰が何を考えているのか、わからない。
私も、すぐに離れた方がいいと思う。
それが出来ればの話だけど。
「随分な歓迎じゃったな」
ナナシの声だけが降ってくる。
顔をあげて姿を探すミクを前にして、クロヤも何かに気づいたようだ。
「ねえ、ナナシ。あの霊⋯⋯」
「親父殿のことか?」
「あたしには、見えないし、聞こえなかった⋯⋯。臭いだけは、わかったんだけど⋯⋯」
「所詮はまだ人域の霊⋯⋯。才能任せのミクだけでは、拾いきれんのも道理よな」
「あたしの力が足りないっていうの?」
「くっくっ⋯⋯。誇示するほど鍛えておらんじゃろ」
「それは⋯⋯まあ、そうだけどさ⋯⋯」
ナナシの小さな笑いに、ミクがわずかに口を尖らせる。
「心配はいらん。随分と堕ちておった⋯⋯。嫌でも見えるようになるのに、時間はかからん」
「⋯⋯どういうこと?」
恐る恐るといった様子で、ミクが尋ねる。
「人肉が腐敗するように、人霊も堕ちていく」
ナナシの声は静かだった。
「人の霊⋯⋯。生前の記憶が残るうちは良い。じゃが、徐々に理性も記憶も、失くしていく。さっきのあれも、そうじゃな」
さっきの黒い影を思い出す。
⋯⋯あれが、人。
とてもそうには見えなかった。
考えて話している素振りはなくて、ただ反応しているだけのように見えた。
「そして最後に残った感情のままに、動く」
ナナシの声が、静かに落ちる。
――重く、粘りつくようなそれだけが。
「結果、害をなすものを怨霊――ワシはそう呼んでおる」
『⋯⋯怨霊』
「あれは末期に近い」
部屋に、しんとした静けさが落ちる。
ミクが何か言いかけて――
「おい。盗み聞きは、よくねえ。だったよな」
クロヤが鋭く言った。
その瞬間。
ガラリ、と障子が開いた。
そこにいた人影。
「ははっ、気づくんだ。やるね」
薄く笑うヤクモがたたずんでいた。
「なんか君だけ喋ってたけど、頭おかしい感じ?」
軽い調子のまま、部屋の中を一通り見渡す。
「⋯⋯なんの用」
ミクの言葉は冷たい。
ヤクモが悪びれもせず肩をすくめる。
「殺された⋯⋯。そんなこと聞かされたらさ」
首を傾げて下から覗き込むように、私へ視線を向けてきた。
「ちょっと気になるでしょ?」
その一言に、空気がわずかに沈む。
けれどヤクモは気にした様子もなく、くるりと背を向けた。
「しばらくここに居るんでしょ?」
ひらひらと手を振る。
「家の中、案内してあげるよ」




