第17話 異質な家
クロヤがつけた抱っこ紐に、私は身を委ねていた。
和風の大きな門が閉ざされている。
塀の位置が遠く、どこまでがこの家の敷地なのか、ひと目では掴めない。
門の脇にある看板。
そこに書かれた文字を見た瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
――鬼頭組。
ただの文字なのに、なぜか触れてはいけないもののように感じた。
クロヤが門を押すと、重さはあるようだが抵抗もなく開いた。
そこから見える光景を、クロヤとミクが並んで眺める。
手入れされた広い庭。
砂利が敷き詰められ、歩くための大きな飛び石が置かれていた。
庭は、思っていたよりも奥まで続いていた。
その奥に、明らかに広い日本家屋がたたずんでいる。
さらに奥――
木々の合間に、もう一つ、建物の影がかすかに覗いていた。
「これは、なかなかの臭いね⋯⋯」
隣で目を細めたミクが、ぽつりとこぼした。
「臭い?」
クロヤがミクへ問いかける。
「兄貴には初めて言うけどさ。あたしね、霊的なものが臭いでわかんのよ」
「そうか」
クロヤは一度だけ、すん、と鼻で息をした。
それから、すぐにまた門へ視線を向けた。
「きちんと嗅ぎ取れて偉いの」
ナナシの声がする。
宙からにゅっと手が伸びて、ミクの頭を撫でた。
「じゃが⋯⋯、ここはあまり勧めんのう」
『⋯⋯どうして?』
「色々なものがな⋯⋯混ざりあっておる」
『色々⋯⋯』
「霊⋯⋯人⋯⋯、一度絡まれば、容易にはいかぬ。おそらくは、な」
ナナシの低い声が落ちる。
私は思わずクロヤの手のひらを強く押した。
ミクの時と同じ合図だ。
つい、とクロヤの視線が落ちてきた。
「⋯⋯ヤバいのか?」
「あ⋯⋯、うん」
何かを考える素振りをしたミクが、私を見つめた。
「あたしも、ナナシも、そう思ってる」
「ナナシ⋯⋯。そうか。いんだよな」
クロヤは一瞬だけ、空いた空間へ視線を向けた。
誰かの気配を確かめるみたいに。
私のことだけじゃない。ナナシという存在もいる。クロヤにはそう伝えている。
クロヤは、感じられない。
霊感がなければ、ナナシが力を強く溢れさせない限り、微塵も存在を感じられないらしい。
クロヤにとっては見えない。
けれど確かに存在している。
馴染むには、少し時間が掛かりそうだった。
「それでも、飛び込むかの?」
ナナシは気だるそうに尋ねてくる。
『⋯⋯』
「⋯⋯行くしかないでしょ。リクドウが逃がしてくんないし」
「すでに一つは絡まっておるゆえ。そう考えるのも致し方ないが⋯⋯」
クロヤが一歩、門の中へ踏み出す。
ジャリ、と。砂利を踏む音が鳴った。
「さすが兄貴って感じだよね⋯⋯」
少し遅れて、ミクが続く。
ジャリ。
――ギィ……。
背後で、門が動いた。
振り返る間もなく。
――バタン。
重たい音が、背中を打つ。
その瞬間。
外の気配が、すっと遠のいた。
「風で閉まった⋯⋯。そんなわけ、ないよね。あはは⋯⋯」
ミクが乾いた笑いを漏らす。
クロヤが門に近づいて、ぐっと押す。
扉は開く。
閉じ込められたわけではない。
それでもミクの瞳が不安に揺れる。
クロヤは油断なく周囲を見回し、門を閉めた。
大きな飛び石を踏んで、家を目指す。
先頭を自ら歩くクロヤが、はたと止まった。
カチ⋯⋯カチカチカチ⋯⋯。
足元から聞こえてくる。
ミクが身体を縮こまらせた。
砂利たちが小さく震え、ぶつかりあっていた。
生き物が威嚇しているかのようだった。
襲い掛かってくるわけではない。
それでも、心に不安が染み込んでくる。
一歩が出なくなったミクを、クロヤが手を引いた。
◇
ガラガラッ――ピシャン。
屋内へと入り、引き戸を強く閉める。
砂利の音が遠くなり、消えた。
薄暗い家屋に、ミクの荒い息遣いだけが響く。
なぜだろうか。
たった一枚の扉しかないのに、空気が変わった。
そんな気がしてしまう。
足音が聞こえてきた。
廊下の角の先。
木の床を踏み鳴らすそれが、近づいてくる。
腰がわずかに引けながらも、ミクは廊下をのぞき見ていた。
「⋯⋯くはっ! 逃げ出さねえで、来たか」
「⋯⋯なんだ。あんたか」
リクドウを前にして、ミクがほっとため息をつく。
「リクドウさ⋯⋯。霊的なもんは胡散臭いとか言ってたけど⋯⋯」
ミクが嫌そうに引き戸の方を見る。
「外のあれ見ても、なんも思わなかったの?」
「あん? 外がどうかしたか?」
「⋯⋯ちょっと来てよ」
呆れた様子のミクが、リクドウを引っ張って外へ連れ出した。
玄関前に立たせて、その後ろに隠れながら様子をうかがっている。
「なんもねえぞ」
「ウソ⋯⋯、なんでよ⋯⋯」
砂利の一粒すら、ピクリともしない。
「⋯⋯くはっ! ま、嬢ちゃんも組の奴らと似たような目にあった。そういうことだわなぁ」
「どういうこと?」
ミクの声が、わずかに強くなる。
「組の連中だけだと。音が鳴ったり、勝手に物が動いたり⋯⋯まぁ、散々って話だ」
「でも、あんたがいると?」
「見ての通りだ。砂利一つ動かねえ」
リクドウが肩をすくめる。
「まあ、正確にはヤクモとシキの兄貴がいても、反応しねえんだがな」
軽く言い切る。
「だから組員どもが、勝手に騒いでるだけにしか見えなくてな。ラリってんじゃねえって殴って、ついには全員追い出した」
「⋯⋯雑すぎない?」
「くはっ! ま、そんときゃまだ信じてなかったからよ。けどな――」
リクドウの目が、ほんのわずかに細くなる。
「この前のアレ見てな。さすがに考え変えたわ」
「信じないでくれた方が、あたしたちはありがたいけどね⋯⋯」
「くはっ! そりゃ無理な話だ。⋯⋯まあ、ゆっくりしていけや」
首で大雑把に『上がれ』と示してくる。
先に動いたのはクロヤだった。
迷いなく上がり框に踏み出して、ミクへ手を差し伸べる。
「いくぞ」
「あ⋯⋯、うん」
ミクはクロヤの手をとった。
少しだけほっとした様子をしていた。
クロヤがいて良かったと、私は思った。
そんな二人のことを、じっと見つめるリクドウ。
「なによ⋯⋯。どうせビビってる姿が笑えるとか、思ってんでしょ?」
「あー⋯⋯。ま、そんなとこだな」
リクドウは踵を返して、廊下を踏み鳴らしながら進んでいく。
「なによ、あいつ⋯⋯。調子狂うわね」
『私も、そう思う。でも、それより⋯⋯いいの?』
「なにが?」
『置いていかれたら、さっきみたいなのが来るかも⋯⋯』
「それは⋯⋯勘弁だわ」
小走りで、リクドウの後を追いかけ始める。片手はクロヤから離れなかった。
廊下を進んでいくと、障子の閉じられた部屋から声が漏れ聞こえた。
「――で? なにも起きなかったけど?」
誰かが軽い調子で言った。
女性のように高くはないが、男性のように太いものでもない。
混ざり合った中性的な声。
「僕さ⋯⋯。嘘って嫌いなんだよね⋯⋯」
「ほ、本当です。昨日は⋯⋯、いきなり飛んできて⋯⋯」
私はもう一人の声に違和感を覚えた。
ミクも同じように感じたのか、足を止めて障子を見つめた。
「⋯⋯ほんとかなあ?」
少しだけ間。
ぎし、と何かが軋む音。
「っ――や、やめ、それ以上は指が折れ――」
押し殺したような声。
それから、息を詰める気配。
ぴたり、と音が止まる。
「⋯⋯でさ」
軽い声が、何事もなかったみたいに続いた。
「盗み聞きって、よくないと思うんだよね」
障子の向こうで、気配がこちらを向く。
隠す気もない足音が迫ってきて、障子が勢いよく開かれた。
視界に飛び込んできたのは、背の低い人影。
ゆるく羽織ったパーカーに、細い脚。どこにでもいそうな格好だった。
ミクに向かって、その人は楽しそうに笑う。
次の瞬間。
指が、一直線にミクの目を狙った。
考えが追いつかない。
危ない――そう思った時には、すでに終わっていた。
「へえ⋯⋯。面白いね、君⋯⋯」
「⋯⋯」
クロヤに手首を掴まれたまま、その人は薄く笑う。
無表情のクロヤを前にしても、その笑みは崩れない。
不穏な空気を察したのか、リクドウが頭をかきながら戻ってきた。
「ヤクモ⋯⋯。よせ」
「な、なんなのよこの子⋯⋯」
ミクがクロヤの背後に隠れる。
「弟が急に悪かったな。少しでも怪しい奴には、容赦なくてよ」
「怪しいって⋯⋯あんた⋯⋯」
「俺の客だ」
リクドウが、ヤクモを見下ろしながら言った。
「リク兄の客かあ。ならいいけど」
空気が変わった。
ヤクモはぎゅっとリクドウへ抱きつく。
「⋯⋯んだよ。さっきもやったろ」
面倒くさそうに言いながら、リクドウは片手でヤクモの頭を軽く押し返した。
「別にいいでしょ」
「ったく⋯⋯」
「それで、この人は?」
子供みたいな仕草なのに、こちらを見る目だけは妙に冷たかった。
ヤクモと呼ばれたその人は、クロヤのことを値踏みするように見つめた。
「どっかの組の偉い人⋯⋯その息子とか?」
「ちげえ。カタギだ」
「それでこの動きかあ⋯⋯。なんか変な人形も持ってるし⋯⋯」
ヤクモから向けられる視線。
絡みつくようで、思わず隠れたくなってしまう。
「ほら、もういいだろ。離れろって」
「しょうがないなあ」
ようやくヤクモがリクドウから離れた。
「ちょうどいい、ヤクモも来い。そこで座り込んでるビビリも連れてな」
リクドウが発したそいつという言葉に、皆の視線が自然と男へ集まる。
見たことのある顔だ。
⋯⋯クシダ?
間違いない。憔悴したクシダは、ジャージ姿で、社長としての面影は欠片もなかった。
ミクもクシダを見て、何か言いたげに口を開きかけ⋯⋯、そこでやめていた。
「迷惑料を身体で払わせてんだ。ま、気にすんな」
目ざとく気づいたリクドウが、吐き捨てるように言った。
「さっさと行くぞ。シキの兄貴を待たせてるからよ」
◇
「シキの兄貴、入るぜ」
言うと同時に障子を開け、リクドウが部屋にずかずかと入り込んでいく。
眼鏡を掛け、七三に整えた髪の男が、部屋の奥に座っていた。
「返事を待たないのなら、聞く意味はないでしょう」
眼鏡の男――シキは手にした紙の束に視線を注ぐばかりで、こちらを見向きもしない。
ヤクモが軽い足取りで、ふらりと入り込む。
部屋に入るなり、ためらいなくシキの背へ抱きついた。
「⋯⋯仕事中です」
「シキ兄、相変わらずかたーい。少しぐらいいいでしょ」
「鬱陶しいですよ」
「冷たいなあ」
淡々と告げながらも、振り払うことはしない。ヤクモは肩をすくめて、するりと離れた。
「おう。許可が出たぜ。全員入れよ」
「⋯⋯全員?」
訝しげに眉を寄せ、シキが眼鏡を掛けなおす。
クロヤが一歩、部屋の中へ踏み込む。
手を引かれるまま、ミクも続く。
少し遅れて、クシダが重い足取りで中へ入った。
それぞれが畳へと腰を降ろす。
「⋯⋯リク。随分と都合のいい解釈ですね」
紙の束を整え、シキは横に置いた。
「それで、どのような要件でしょうか」
「昨日、話したじゃねえか。この家で起きてる意味わかんねえ問題。それを解決できそうな奴らを、見つけて来たってよ」
「あー、リク兄、言ってたね。除霊師がなんたらとかさ」
「こいつらが、その除霊師ってやつだ」
リクドウの雑な紹介に、場に沈黙が落ちた。
「リク兄⋯⋯。いくら馬鹿だからって、詐欺に騙されたら、僕らの商売あがったりだよ?」
ヤクモが軽く言う。
「⋯⋯あれを、本気で言っていたんですか?」
シキが視線を上げた。
「弟と言えど、無様な真似をすれば⋯⋯。それなりの対処をいたしますよ」
それだけで、空気が一瞬だけ、張り詰める。
この家は変だ。
外で起きたことも、うまく飲み込めない。
ヤクモも、シキも――普通じゃない。
なのに。
一番怖いのは、普通じゃないこと全部が当然になってる、この空間だった。
「おいおい、難しく考えんなって。その目で見りゃあ一発だろ」
リクドウは喉の奥で、くはっと雑に笑った。
「ほら、お前ら。なんかやってみせろよ」
「一つだけ言っとく。親が除霊師なだけで、あたしたちは専門家じゃないから⋯⋯」
弱々しく呟いて、ミクが私を見つめた。
「シロ。頼める?」
『⋯⋯うん』
天井で、足音が鳴った。
コツ、コツ、と。 誰かが歩くみたいに。
クロヤとミクを除いた全員が、一斉に天井を見上げる。
クシダだけが、ガタガタと震え縮こまっている。
テーブルにある灰皿に、意識を向ける。
灰皿が、ふわりと浮いた。
そのまま、空中で止まる。
ヤクモが即座に腰を浮かせ、灰皿の周りに手を伸ばした。
「へぇ⋯⋯。マジでタネも仕掛けもないってやつだね⋯⋯」
口角を吊り上げ、興味津々と瞳を輝かせている。
「この人形にな……。憑いてるらしいぜ」
リクドウが顎でしゃくる。
――視線が、一斉に私へ集まった。
そのときだった。
「⋯⋯なに、この強い臭い」
呟いたミクが、むせこんだ。
私の背後に、何かの気配が生まれた。
黒い影。
輪郭は曖昧で、ただ人の形らしいものだけがそこにある。
音もなく、近い。
息が、かかる距離。
『……コロサレタ』
耳元で、囁かれた。
『⋯⋯誰に、殺されたの?』
『⋯⋯』
私は思わず聞き返した。
返答はない。
ただ、感覚でわかる。
この黒い影は、私やナナシと近い存在だということが。
「こほっ⋯⋯。シロ⋯⋯今の言葉⋯⋯」
絞り出すような声でミクが問いかけてくる。
私はハッと我に返った。
黒い影も、溶けるように消えていく。
ミクと私の会話を邪魔をしてはいけない雰囲気に、他の誰も口を開かない。
けれど、ミクは先を聞いてはこなかった。
耐えきれなくなったリクドウが、ずいっと前のめりになる。
「おい、なんかあったなら俺たちにも教えろや」
「あたしには聞こえなし、見えない⋯⋯。でもシロには、聞こえたのよね?」
『うん』
「シロ⋯⋯、何があったか話してもらっていい?」
『え、と⋯⋯。人みたいな影が見えて⋯⋯』
「人みたいな⋯⋯影」
『殺されたって⋯⋯聞こえた』
「本当に、そう言ったのね⋯⋯」
『⋯⋯うん』
ミクは聞いた言葉を一度噛み締めるように、目を閉じた。
そして言葉を続ける。
「殺された。そう言ったんだって」
ミクの言葉が場に落ちた瞬間。
胸の奥に、黒いものが押し寄せてきた。
鋭い棘がいくつも刺さり、
蔦が絡みつき、
塵が湧き上がる。
ばらばらだったそれが、一気に集まってくる。
八つの目が、私を捉えて離してくれなかった。




