第16話 見たいもの、見えないもの
「少し、風に当たってくる」
「兄貴⋯⋯。待って⋯⋯」
伸ばされたミクの手をするりと抜けて、クロヤは玄関で靴を履いた。
ミクは玄関まで追いかけていく。
「兄貴!」
声を背に受けて、ドアノブに手を掛けたクロヤが足を止める。
「晩飯は心配すんな。少ししたら、戻る」
クロヤは振り返らず、それだけ言い残すと出ていった。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
手を伸ばしたまま、ミクは動かない。
『クロヤ、どうしたの?』
やりとりの意味が、私にはよくわからない。でも、いつもと様子が違う。
追わないと。
それだけはわかった。
「ナナシ⋯⋯」
ミクが呟いた直後。
ぞわり、と。
深淵の黒が膨れあがった。
景色は変わらない。
それでも、確かにそこにある。
――触れてはいけないものが。
逃げたい。
でも、深いそれはまとわりつく。
逃げられないなら。
壊れた方が、いっそ楽になる。
そう思ってしまった。
「見届けたら、すぐに戻る」
「頼むわ」
「無茶をするなよ」
「⋯⋯」
虚空から急に降ってくるナナシの声。
深淵の気配が遠のいていく。
ミクが踏み出す。向かうのは外じゃなかった。
リビングに向かう足音が、やけに静かだった。
『ひぅ! み、ミク?』
こんなミクの顔、見たことない。
目に力が入り、強く唇を噛み締めていた。
「なんだ、あいつ⋯⋯。妙な反応しやがって⋯⋯」
すっかり興味を失ったリクドウが、天井を仰ぎタバコの煙を吐いていた。
ミクが傍らに立ち、リクドウを見下ろす。
何も言わない。
「あん? どうした嬢ちゃん。人でもぶっ殺しそうな顔してよ」
ミクがリクドウの手からタバコを奪い、テーブルで火を押しつぶすように消す。
次の瞬間――
「よくも兄貴の前で、その話をしてくれたわね」
リクドウの胸倉を勢いよく掴んだ。
ミク、どうしちゃったの?
驚きのあまり、私は声を掛けるのを忘れていた。
「おいたにしちゃあ、笑えねえな」
リクドウは怯まない。
「冗談じゃすまねえこともある⋯⋯」
ゆっくりと手を伸ばし、ミクの首元に触れた。
「一回、死んどくか」
そう言って、口角を吊り上げる。
『それはダメっ!』
私はリクドウを突き飛ばそうと、思わず念を溜め始めた。けれど――。
「シロ、何もしないで」
『でも⋯⋯』
「こっちでやるから」
言葉は短い。けれど強い。
「何を一人でぶつぶつ言ってんだ?」
「殺したら終わり。あんた、そう思ってんでしょ」
「⋯⋯あん? 恐怖で狂ったか?」
「そんな簡単なわけ、ないじゃん」
そこで初めて、リクドウが訝しげに眉根を寄せた。
「兄貴の思いを踏みにじったあんたを⋯⋯。死んだくらいで、許すと思う?」
「なにを言ってやがる⋯⋯」
「あたし、今なら自信があるわ」
ミクからにじみ出る何かは、なぜか私まで不安にさせる。
「⋯⋯自信?」
リクドウが聞き返すのも、無理はない。
「あんたを呪い殺す怨霊」
ミクの声が、やけに静かだった。
「そうなる自信がね」
心の底からそう思っている。
そういう目をしていた。
「⋯⋯くはっ。⋯⋯はははっ」
「余裕かまして笑う暇なんてないわよ。たぶん、戻ってくるから」
その言葉を待っていたかのように。
何かが、動いた。
――ガタ。
テーブルの上のグラスが、小さく跳ねた。
――ガタ、ガタッ。
灰皿がずれて、タバコの灰が散る。
――ガタガタガタガタッ!!
食器が一斉に震え出した。
棚の中で皿がぶつかり合い、乾いた音が重なる。
それでも――落ちない。
宙に押し留められたみたいに、割れないまま震えている。
「⋯⋯っ、なんだこれ」
リクドウの声が、初めて揺れる。
床も、壁も、空気ごと軋んでいるのに。
逃げ場なんて、どこにもない。
『⋯⋯やだ。なにこれ⋯⋯』
ミクは、動かない。
リクドウの胸倉を掴んだまま、ただ睨みつけていた。
「ナナシ」
ミクは空いている手を高々と掲げた。
一升瓶が吸い寄せられるように、手に収まる。
リクドウはハッとして、それを見つめた。
ミクは躊躇うことなく振り下ろす。
その一撃は――寸前で止まった。
リクドウの額に触れるか触れないかの距離で、一升瓶はぴたりと静止している。
あとわずかでも踏み込めば、割れる。そんな位置だった。
それでも、動かない。
さっきまで部屋中を満たしていた震えは、嘘みたいに消えていた。音がなくなり、ただ張り詰めた空気だけが残る。
リクドウは目を逸らさない。
瞬きすらせず、そのまま見据えていた。
「……ったく」
低く、喉の奥で呟く。
ミクの手が、ゆっくりと下がっていく。
「うちのママがいなくて良かったわね」
その声は、驚くほど静かだった。
「こんなもんじゃ、済まなかったわよ」
ミクの手から、一升瓶がするりと落ちるように離れた。
ガタン、と重たい音。
その瞬間、張り詰めていた何かが、ようやくほどける。
けれど――誰も、すぐには動けなかった。
リクドウですら、いつもの薄ら笑いを浮かべない。
ミクの肩は、怒りが抜けきらないまま、小さく震えていた。
◇
私はテーブルの上で、いつものように二本の一升瓶に背を預けていた。
騒ぎがあったなんて、嘘のようだった。
あれだけ揺れ動いていたのに、全てが整然と並んでいた。
リクドウはソファーに身体を沈めたまま動かない。
ミクはテーブルの椅子に背を預け、どこか遠くを見つめていた。時折、時計とリビングの扉へ視線が行き来していた。
部屋の空気が重い。
時計の秒針が、静寂に音を刻んでいく。
小さな息遣いや、足を組み直す気配だけが混じる。
それでも、誰も口を開こうとしない。
『⋯⋯ミク』
呼びかけてみると少しの間があって、ミクが私を見つめた。
『クロヤ⋯⋯、どうしちゃったの』
聞いていいのか、わからないまま。
それでも思いを言葉にしていた。
ミクが私に向ける瞳は、少しだけ優しいものになっていた。
ため息をもらし、困ったような微笑みを私に向けた。
「ナナシ。万が一、兄貴戻って来たら、教えてよね」
宙に投げかけられた言葉に、かたりと音が鳴らされた。
「兄貴さ。あんなに頼りになるのに⋯⋯」
ぽつりと、ミクは言葉をこぼす。
リクドウがゆっくりと、こちらを見る気配がある。でも、それだけで口は挟んでこない。
「変なとこ、気にするんだよね。この家の中で、自分だけ霊を感じられないこととかさ」
『⋯⋯でも、それって』
「そうだよ。それが普通なの」
ミクは言い切った。
私みたいな存在。
何もしなければ、ただの人形としか思われない。
私が怯えて物を壊したり、揺らすと、何かあるって気づかれる。
「でも、あたしたち家族にとっての普通は、ちょっと違う」
初めて会った時のことが過ぎる。
何もしなくても、ミクは私に気づいていた。
『クロヤは霊を感じたいの?』
「⋯⋯たぶんね」
『いいことなんて⋯⋯、何もないのに?』
見えないものと繋がって、どうなるというのか。
自分だけ話せても、結局は変な目で見られるだけだ。
ミクは、私の言葉にそっと目を閉じた。
「⋯⋯兄貴はさ、あたしが小六の時に、ママが連れて来たんだ」
『⋯⋯え? 連れてきた?』
「『今日からお前の兄さんだよ。仲良くしてやんな』って、いきなり言うんだ。なにそれって感じじゃん」
『ミクのママ⋯⋯。なんか、すごそうだね』
それしか言えなかった。
「あの目つきじゃん。ほとんど喋らないし⋯⋯。正直、気持ち悪かったわ」
『⋯⋯そうだったんだ』
今のミクからは、想像もできない。
「けどさ、ある時に聞かれたんだよね。『晩飯、なに食いてえ』って」
『昔から、料理上手だった?』
この家で料理をしているのは、いつもクロヤだ。
私は食べられないけど、ミクの食べる姿を見ていれば、美味しいんだろうなって思う。
ミクは苦笑して、首を横に振った。
「⋯⋯出てきたのは、真っ黒焦げの玉子焼き。ほんと、酷かったわよ。何度も作ってさ⋯⋯どうにかそれっぽいやつが出来て。お世辞でも、美味しいって言った方がいいかなって思って」
言いながら、少しだけ目を細める。
「笑っちゃうよ。怖い顔は変わんないのに、この人喜んでるって、わかるんだよね」
クロヤがミクのために、味噌汁を作っていた姿がふと過ぎる。
「でさ、ちょっとずつ兄貴といるようになったんだけど⋯⋯。ある時、あたしが失敗しちゃってね⋯⋯」
『失敗?』
「口の上手い霊に騙されて、川に近づいたら引きずりこまれたの」
わずかに声が沈んだ。
⋯⋯霊。
当たり前なのだろうけど、ナナシや私みたいのが他にもいる。
「もがいても、意味がなくてさ⋯⋯。あたし、終わっちゃうんだ。そう思ったよ」
ミクが胸に手を添えた。
「⋯⋯けど、兄貴が来てくれた。水の中で、手をぎゅっと掴んでくれた。そこまで覚えてる」
ふっと笑みをこぼす。
「目を開けたらさ。びしょびしょに濡れた兄貴に、痛いほど抱きしめられたんだ」
『⋯⋯どうして、そこまでするの?』
自然と言葉をこぼしていた。
危ないのに。怖いのに。
理由もわからないまま、飛び込んで。
そこまでして、守ろうとするなんて。
私には、よくわからなかった。
「……たぶんさ」
ぽつりと。
「家族になろうとしてるんだよね」
『⋯⋯家族って、なに?』
ミクは、少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
それから、ふっと困ったように笑う。
「⋯⋯そっか。シロには、ちょっと馴染みがないか」
少しだけ考えてから、言葉を選ぶ。
「一緒にいてさ」
ゆっくりと続ける。
「なんか、ほっとするっていうか」
視線が、ほんの少しだけ揺れる。
「気づいたら、そこにいるのが当たり前になってる感じ?」
『それが⋯⋯家族』
その言葉を胸の奥で反芻する。
「⋯⋯あたし達からしたら、もうそうなんだよ。兄貴だって、ほとんどはそんな感じなんだけど」
一瞬、間が落ちる。
「でも、霊が見えないとか、自分が来る前のことに触れると、⋯⋯ちょっとダメになっちゃうみたい」
それきり、ミクは黙った。
時計の秒針だけが、動き続けるこの小さな世界で。
さっきの話が、頭の中でうまくまとまらないまま残っている。
家族。
よくわからない言葉。
でも――
胸の奥に、何かが引っかかっていた。
外に出ていった、あの人のことが過ぎる。
屋上から落ちた時、抱きしめてくれた手の強さ。
あれを、思い出す。
離さないみたいに。
――なんで、だろう。
『⋯⋯ミク』
自分でも、どうして口にしたのかわからないまま。
『迎えに、行こ』
◇
『クロヤ、いた』
ミクに抱きかかえられ、たどり着いた川の土手。斜面に腰を掛けて、月を見上げているクロヤの背中があった。
さっきまで胸の奥に引っかかっていたものが、すっと、静かにほどける。
『クロヤ』
呼びかけてみる。
けれど届くはずもなくて、私の頭にそっとミクの手が触れた。
「兄貴」
ミクの声に、クロヤの首がわずかにあがる。
「家に帰ろ」
「ああ⋯⋯」
振り向かないクロヤ。
すぐそこにいるはずなのに、遠く感じられてしまう。
「悪い⋯⋯。もう少し、時間くれ」
「そっか⋯⋯」
背中越しにそう言うクロヤに、ミクは困ったように笑みをこぼした。
踵を返そうとして、
『ミク、待って』
クロヤは、放っておいて欲しそうだった。
でも。
それは、どうしても嫌だった。
ミクが立ち止まる。私は近くを見回して、探し物を見つけた。
枝があった。
念を飛ばしてクロヤの背中にやわらかい圧を加える。
クロヤはわずかに振り向いてくれた。
「ミク?」
「えと⋯⋯、あたしじゃなくて⋯⋯」
ミクが私へと視線を落とす。
私は一生懸命に枝を動かして、土をえぐって文字らしいものを掘っていく。
クロヤが気づく。
枝だけが動く光景は不気味に違いないのに。
じっと見つめていた。
――いつしよ かえろ
出来上がった文字。
下手だけど、これで伝わってくれるかな。
「これ⋯⋯シロ、か?」
「⋯⋯あー、うん。そうだよ」
ミクは小さく息を吐いてから、クロヤへ向き直る。
「⋯⋯ここまできたら、もう隠してもしょうがないか。シロって、憑いてるの」
クロヤが私へ視線を向ける。
「⋯⋯あたしも誘われたの。兄貴を迎えに行こうって」
「俺を?」
クロヤは少しだけ黙った。
土に刻まれた文字と、動いた枝を眺めて、それから私へと視線を向けた。
「⋯⋯そうか」
ゆっくりと立ち上がり、
「ありがとな」
クロヤが私の頭に触れた。
「帰るか」
◇
「⋯⋯まだ居たの? さっさと帰りなさいよ」
「そう言うなよ。まだ用事がすんでねえんだわ」
家に戻るとリクドウが未だにソファーを占拠していた。
クロヤが淡々とキッチンへ戻っていく。
「さっきの揺れも⋯⋯、誰かがいるみてえに人形とやりとりしてんのも⋯⋯。作りもんじゃねえんだな⋯⋯」
話し相手になる気がないミクは、そっぽを向いたままだ。
「除霊師ってのは本物なんだな。だったら、ちと頼みてえことがある」
「⋯⋯」
「さっきのは俺が悪かった。だから、そんなに邪険にすんなって」
「⋯⋯」
「⋯⋯貸し一つ」
「ぐっ⋯⋯」
ようやく反応を見せたミクへ、リクドウがニンマリと笑みを浮かべた。
「あのね。除霊師ってのは、うちのママのこと。あたしは、少しわかるだけ。祓うなんて出来ないの」
ミクのジト目にも、リクドウは笑みを深めるばかりだった。
「その親ってのは、すぐに帰ってこねえのか?」
「忙しいんでしょ」
「なら、嬢ちゃんでもいい。見るだけでもいいからよ」
リクドウがソファーに沈めていた身体を、ゆっくりと起こす。
「ここに来たのは、一応理由があったんだ」
前傾姿勢で、口元を隠すように両手を寄せた。
「俺ん家な」
笑みは消え失せ、低い声で呟く。
「⋯⋯ちょっとヤバいことになってんだよ」




