第15話 傷跡
私はミクの膝に抱かれ、メイク室の鏡を眺めていた。
ミクの肩に手を添え、微笑むジュウゴが映っている。
「ほら、ミクちゃん。出来たわよ」
「ジュウゴさん、いつもありがと。今日もイケてるじゃん」
「当たり前じゃない! 可愛いミクちゃんに、この私がっ、メイクするんだから!」
剃っても薄くヒゲが残る顎に、ジュウゴが人差し指を添えた。
片目をパチンと閉じる様子が、可愛らしい。
ミクもへへっと元気な笑みを浮かべていた。
ほっこりする雰囲気に、私も安心して身を委ねていた。
つい二週間前にあった夜の騒ぎが、もっと昔のことに思えてしまう。
「だけど⋯⋯、それだけじゃない気もするわね。ちょっと変わったっていうか⋯⋯」
「えっ、どゆこと? あたし、太ったりしてる?」
ジュウゴの視線がわずかに細まる。
そのままじっと眺め続けるが、黒い塵は感じられない。
「んー、見た目じゃないの。雰囲気? 可愛さの中に、かっこよさもある⋯⋯。そんな感じ」
ジュウゴはそう言って、ミクの頬にそっと触れた。
「よくわかんないんですけどー」
「ま、私もよくわかんないわ」
「なにそれ、ウケる」
ジュウゴがふっと表情を緩めると、ミクは笑みをこぼした。
仲の良い猫のじゃれ合いのようなやりとりをしてから、ジュウゴは仕事道具の片付けに入っていた。
そんな時に、ぽつりとこぼした。
「そういえば聞いた? また社長が変わるらしいわよ」
何気ない一言だったけど、ミクの膝に力が入った。少しだけ座り心地が変わる。
「あー、そうなんだ」
すぐに返した声は、いつも通りの口調だ。
けれど――ほんの少しだけ、間があった。
「ボールじゃあるまいし、こんなポンポン変えて大丈夫なのかしらね」
ジュウゴの呆れたような声。
投げかける調子は、とても軽い。
「⋯⋯せっかく、少し慣れたと思ったのにね」
ミクの返す言葉は、どこか重い。
クシダの噂は、嫌でも耳に入ってくる。
あれから、撮影場所で姿を見た人はいないらしい。
代わりに聞こえてくるのは、どれもよくない話ばかりだった。
誰に話しかけられてもビクビクしているとか。
目が合うだけで怯えるとか。
スタッフたちがざわつくのも、無理はなかった。
そんな噂に触れるだけで、あの夜のことがよぎる。
クシダがどうなるのか、わからない。
でも、ミクが安心してここにいられる。
それが、一番大切なことだ。
「あらっ!」
そんな声が部屋に響いた。
他のスタッフたちも、にわかにざわついている。
ジュウゴが驚いた口に、手を添えていた。視線が向かうのは部屋の入り口。
「サナちゃん! 今日もお休みじゃなかったの?」
サナがそこに立っていた。
「ご迷惑かけました」
一人ずつ回りながら、頭を下げている。
ぐったりしていた時と比べると、足取りはしっかりしていた。
それでも以前と比べると、笑顔に力がない気がする。
そんなやりとりを前に、ミクは身体を硬くしていた。目を離せないようだった。
「ジュウゴさん、またよろしくお願いします」
「それは⋯⋯もちろんだけど⋯⋯」
ジュウゴの前をすっと通り、サナはミクへと視線を落とした。
ミクの身体が、ぴくりと揺れる。
けれど――動かない。
サナも、何も言わなかった。
ジュウゴですら、二人に言葉を掛けるのをためらっていた。
「⋯⋯あの」
かすれるような声は、サナのものだった。
「ごめん」
「⋯⋯うん」
一度、深く目を閉じたミクが、小さく返す。
「それで⋯⋯」
サナの細い喉が鳴る。
「ありがと」
「うん」
ミクはサナを見つめ返した。
それだけだった。
◇
最寄り駅から家までの帰り道。
歩道の脇に植えられた街路樹が、風を受けて葉をこすり合わせた。
抱っこ紐に身を預け、人気のない道を進む。
ぽつりぽつりと並ぶ街灯。
その一つがミクの足元を照らしていた。
『ミク、聞こえる?』
「おー、すごい。聞こえてるよ」
『よかった』
「シロ、めっちゃ頑張ってたもんね。ちゃんと形になって、よかったじゃん」
人気がないからこそできる、秘密の会話だった。
ミク一人なら、このルートは選ばないらしい。
けれど、あえてこの道を選んで、私が話すための練習相手になってくれていた。
念話。ナナシはそう呼んでいた。
クシダの一件が終わった後、霊感がある相手と、言葉をやりとりする方法を、ようやく教えてくれたのだった。
それでも、こうして話せるようになるまでには少し時間がかかった。
『ミクとお話しできて、嬉しいな』
「あたしもだよ。これで、ナナシいらずだね」
ミクが冗談っぽく言う。
『まだまだ。ナナシには、いっぱい教えて欲しい』
「そうなん? 十分くらいやってる気がするけど」
『クロヤとミクの役に立ちたいから』
呟いた瞬間、ミクがハッとして私を見つめた。
⋯⋯変なこと言ったかな?
そう思っていると、ミクの瞳にきらきらしたものが浮かんでいった。
そして、抱っこ紐越しにぎゅっと抱きしめられる。
「うちの子、めっちゃ可愛いっ」
ミクの温もりが伝わってきて、ほっとしてしまう。
ミクと話せるようになって、今までよりもっと一緒にいたくなった。
だからこそ、もう一歩進みたい。
『私、がんばる』
ミクの温もりの中で、ぽつりと続ける。
『⋯⋯クロヤとも、話してみたいから』
ミクの腕がピクリと揺れた。
「兄貴と?」
『うん』
「あー⋯⋯、そっか」
ミクの腕が緩んで、私の頬を夜風が撫でた。
ふと見れば、ミクは少し困ったように眉根を寄せ、口元は微笑んでいた。
『⋯⋯ミク?』
「とりあえず、頑張ってみよっか」
◇
「なんか⋯⋯、この車、見たことない?」
『⋯⋯うん』
家の前に、路上駐車してある白い車が目についた。
もう一度、建物を見上げるが、間違いなくミクが住んでいる家だ。
「⋯⋯めっちゃ嫌な予感がする」
ため息をつき、足取りが明らかに重くなる。
それでも玄関はすぐそこだ。
扉を開けると、嫌でも目に飛び込んでくる。玄関床のど真ん中に、使い込まれた革靴があった。
見覚えのないものだ。
リビングの扉のガラス越しに、照明が漏れ出ている。
「シロ⋯⋯、なんかあったら手伝ってね」
『もちろん』
ドアノブに手を添えたミクが、小さく息を吐く。
そして突き飛ばす勢いで扉を開いた。
「コーヒー入れるの上手えな。俺のクソ舌でもわかるのはすげえぜ」
「そうか」
視界に飛び込んできたのは、キッチンで食器を布巾で拭うクロヤ。
「おう、ミク。おかえり」
そして――
「嬢ちゃん。邪魔してるぜ」
リビングのソファーに背中を預けている男。カップのコーヒーをあおるように飲んでいた。
リクドウが片手をあげる。
ミクに挨拶しただけなのに、何をするのかと私は念を構えてしまう。
「兄貴⋯⋯、ちゃっと外に捨ててきて」
拾って来た猫でも扱うように、ミクは言う。
もっとも、リクドウは猫というより虎みたいだ。
「⋯⋯くはっ! ひでえなあ、おい」
「ねえ⋯⋯、なんでここにいんのよ」
「んなもん、ツテを使って調べりゃすぐだろ」
まるで当然のことだと言わんばかりだった。
「家とか調べて押しかけるって、犯罪じゃない?」
「俺たちからすりゃあ、普通だがな」
リクドウは足を組み直し、口角をわずかにつり上げた。ミクは気圧されて、言葉を飲み込んでいるようだった。
「胡散臭え。そんな面してるけどよ⋯⋯。てめえんとこも、大概じゃねえのか?」
「あたしたちが?」
「親⋯⋯。除霊師なんだろ?」
「あ⋯⋯」
ミクがキッチンへ振り返る。皿を拭いていたクロヤの手が止まった。
部屋から、音が消える。
じょれいし?
聞き慣れない言葉だった。
「不可解なことは全部、悪霊やら怨霊やらのせいにしてよ。そんで金をふんだくる。いい商売じゃねえの。なあ⋯⋯」
リクドウが表情を醜く歪め、なじるような言葉を吐いている。
耳に残る、嫌な言い方だ。
こんな人は、早く家から追い出した方がいい。
やるなら手伝う。
そう思って、ミクを見上げたのだが。
ミクの視線はリクドウに向いてない。
微動だにしないクロヤの背中へ、一身に注がれている。
――動かない。
「あ、兄貴⋯⋯。あのさ」
「クロヤ」
リクドウに呼ばれても、クロヤは振り向かない。
それでもリクドウは言葉を、容赦なく突き立てる。
「てめえも変な生い立ちしてんだな」
「あっ! ちょっ、待――」
制止の声は、なんの意味もなさない。
「戸籍に名前、ねえんだろ?」
声が室内へ、静かに染み渡っていく。
『⋯⋯えっ? それってどういうこと?』
私の疑問は、ミクにすら届かなかった。




