第12話 灯りの残る家
「それで、どうしたのかな?」
クシダ社長は、柔らかく笑った。
社長室にある立派なテーブル。
その向こう側に、革の椅子をしならせたクシダ社長がいる。
視線は、常に私の頭の少し上。
ミクを狙い続けている。
ミクが居心地が悪そうに座りなおす。
それでも、外れない。
「急に来たのに、時間とってくれてありがと、クッシー」
ミクは真っ直ぐな視線を、クシダ社長へ向けている。
客用のソファーに深く座り、ゆっくりとだが手をしきりに動かし、私を撫でている。
まるで私がちゃんとここにいるか、確かめているようだった。
「この前してくれた話⋯⋯ちゃんと考えて来たんだ」
そこで区切って、ミクが小さく息を吐く。
「あたしさ、モデルとして、ちゃんと上に行きたいって思っててさ」
「なるほど⋯⋯」
ほんの少しだけ間が空く。
「いいね。前向きな子は、嫌いじゃないよ」
どろり。
胸の奥で、泥がわずかに重くなる。
「でも、どうしようかな⋯⋯。昨日なら、時間がとれたんだけど、しばらく忙しくてね」
椅子をゆっくりと回して、クシダ社長は背後の大窓から外を眺める。
「タイミングって、大事だからさ」
どろりどろりと、私の奥に注がれていく。
「えー、クッシーとあたしの仲じゃん」
ミクは、わずかに身を乗り出した。
「そんなこと言わないでよー」
ミクの頬が、わずかにこわばる。
それでも、どうにか笑みを浮かべていた。
クシダ社長が向き直る。
そのまま、ミクの瞳を覗き込んだ。
「⋯⋯ははっ」
手で覆っていた口元が緩む。
身体に勢いをつけて、椅子から立ち上がり、ミクの隣まで来た。
ソファーに身体を預けるように、隣へ沈み込む。
ミクの身体がわずかに弾んだ。
「いいよ。そこまでいうなら――」
クシダ社長の手がミクの肩へと伸びる。
「特別に、時間を作ってあげる」
黒い泥の勢いは、底が見えない。
◇
あの時の会話が、頭に浮かんだ。
ミクが助けたいと決断して、クロヤと向き合っていた直後のこと。
「サナが車に乗ったって話、あったよね」
「⋯⋯ああ」
少しだけ間があいた。
「人を一人、隠すのってさ」
ミクが言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。
「そんな簡単じゃないよね」
「楽じゃねえな」
クロヤは短く返す。
「だよね」
ミクが視線を落とす。
「生きてるなら⋯⋯どっかに閉じ込めないといけない」
クロヤは何も言わない。
「⋯⋯一度でもその、車で連れてったなら」
ミクの声が、少しだけ低くなる。
「もう一回、行くかもって」
沈黙が落ちた。
「⋯⋯かもな」
クロヤは否定しなかった。
ミクの指先が、わずかに動く。
「⋯⋯だったらさ」
ほんの少しだけ、顔を上げる。
「その車、追えたら――」
言いかけて、止まった。
クロヤの視線が向く。
「⋯⋯まあ、そんなの無理か」
「やりようはあんだろ」
短い声だった。
それ以上は、続かなかった。
◇
「クシダ社長、ご飯美味しかったよ。ごちそうさま」
ミクの声が頭上から落ちてくる。
「いやいや、たいしたことじゃないよ」
クシダ社長が、軽く手を振りながら応えた。
すっかり夜に染まった景色。
窓越しには、昼間の雰囲気とは異なる賑やかさがある。
居酒屋へ誘う店員に、酔っぱらった仲間に肩を貸す人⋯⋯。
信号が青に変わると、黒い車は静かに進み始めた。
街の明かりが、後ろへ流れていく。
「それにしても、あまりたくさんは食べないんだね。ミクちゃんは元気だから、少し意外だったな」
「いやあ、あたしって、食べるとすぐに体重が増えるんで⋯⋯。美味しいのを、ちょっとずつ摘ませてもらっちゃった」
「そうなの? でも、とてもスタイルが良く見えるけど」
「あははっ、クッシーったら、上手なんだから」
車内に、軽い笑いが広がる。
――どろり。
「でもさ、僕はもう少し食べてもいいと思うんだ」
赤信号を前にして、ゆっくりと速度を落としていく。
止まったところで、クシダ社長が少しだけ身体を寄せてきた。
「その方が――」
その動きに合わせて、手がミクの膝に触れた。
「好みだからさ」
クシダ社長が、ふっと口元を緩める。
「あー、そうなん?」
ミクの指先が、わずかに強く私を掴む。
「じゃあ、前向きに考えてみよーかな」
「⋯⋯素直なところも、君の魅力の一つだね」
クシダ社長の手は、ハンドルへと戻っていく。
車がぐいっと進み、私の身体がかすかにミクへ押し付けられた。
それからしばらくは静かだった。
車の振動と、ミクの胸の鼓動。
それだけが、やけに強く伝わってくる。
「この後、時間ある? もう少し話をしたくてさ」
クシダ社長の口元が歪む。
「うちに来る?」
ふと、そんな言葉が落ちる。
「こんな遅い時間に? おうちの人に迷惑かかっちゃわない?」
「まあ、うちは一人だしさ」
軽く笑う。
「誰もいないから、ゆっくり話せるよ」
ミクが返そうとした、その前に、
「⋯⋯ああ、いや。今日はやめておこう」
言葉を引っ込めるように、クシダ社長は小さく首を振った。
「明日⋯⋯。そう、明日なら、たぶん大丈夫かな。それでいいかい?」
「⋯⋯うん、わかった」
私はクシダ社長の横顔を見つめた。
何かに気づいて、警戒された。
そう思ったのだけど。
どろりとした欲望は消えない。
むしろ、わずかに濃くなっている。
なにかあるのかもしれない。
連れていきたいはずなのに、
そうもいかない理由が。
ミクの左手が、スマホを軽く弄る。
視線は画面を捉えていない。
前を向いたまま、横目でクシダ社長を追っている。
ミクの左手が、スマホごとわずかに膝から外れる。
背中越しに私へ伝わってくる鼓動が早い。
クシダ社長が右折確認で、すっと視線をそちらへ向けた。
ミクの左手が滑るように落ちていく。
ドアポケット。
ほんの一瞬、手が止まる。
それから、何事もなかったように左手が戻った。
そのまま指先が、少しだけ強く私を掴んだ。
他愛もない会話が続く。
やがて車は駅前で止まった。
「今日はありがとう、クッシー」
「こちらこそ楽しかったよ。またね」
ミクが軽く手を振ると、クシダ社長は片手をあげてくれた。
ドアが閉まる。
黒い車は、そのまま夜の街へ溶けていった。
◇
寝静まった住宅街。
夜の帳が下りた中で、その邸宅は唯一の明かりを灯し、不気味にたたずんでいた。
コンクリートの塀は家を囲い、外界を拒絶しているようだ。
塀は高い。
だが、その内側に広さは感じない。
すぐ向こうに、家の影が迫っている。
さっと見回ったところでは、中へ繋がっていそうなところは、正門とシャッターの閉められた駐車スペースぐらいか。
人影はないが、正門では監視カメラがしっかりと睨みを利かせていた。
クロヤとミクは、少し離れた電信柱の陰に潜んでいた。
今はミクが抱っこ紐をつけ、私を運んでくれている。
「あそこにクシダ社長の車があんだよね」
「ああ」
クロヤがスマホに目を落とす。
私にはわからないが、画面の地図でミクのスマホ位置を見ているらしい。
クシダ社長の家らしきところには、たどり着けた。
だけど、問題はここからだった。
本当にここで合っているのか。
サナはいるのか。
そもそも、どう動けばいいのかもわからない。
今は、様子を見るしかなさそうだった。
せめて、何か一つでも変わらないか。
そう思いながら、しばらく眺めていると、遠くからエンジン音が近づいてきた。
ミクの腕が、わずかに強張る。
ヘッドライト。
壁をなぞるように、光が流れた。
「⋯⋯来る」
クロヤが低く言う。
白い車が、塀に沿うように停まった。
運転席から男が一人、降りる。
派手なシャツにチェーンを下げている。
一度、周囲を見回す。
慣れた様子で門へと向かった。監視カメラを気にする素振りもない。
門を開け、ライトに照らされる玄関に立つ。
インターホンを鳴らしたわけでもないのに、玄関扉が自然と開いた。
中から出てきたのは、クシダ社長だった。外の様子を確かめるように。
なぜか、スーツのままだ。
クシダ社長と男は、短く言葉を交わした。
クシダ社長は玄関の電気を消し、男の後についていく。
男が白い車の後ろのドアを丁寧に開ける。
クシダ社長はしっかりと頭を下げてから、後部座席へと入っていった。
白い車のフロントライトが灯った。ゆっくりと、走り出した。
クロヤが、すぐにバイクへとまたがる。
「えっ、兄貴?」
「ミク、お前はここで様子をみとけ」
「兄貴はどうすんの」
「あの車を追ってみる。雰囲気が普通じゃねえからな」
夜も遅い時間に、クシダ社長がスーツで対応する。
――普通じゃない。
私もそう思った。
「動くな。三十分で戻る」
それだけ言い残すと、闇夜に飛び込み、バイクの音が遠ざかっていった。
ミクは電信柱に身体を預け、私の頭に手を乗せた。
右手首にある腕時計の秒針が、よく聞こえる。
そうしてどのくらいが経ったろうか。
ミクがふと家を見上げた。
二階の一室だけ、光が漏れ出ている。
「⋯⋯なんで、二階だけ」
ぽつりと呟いた。
次の瞬間、二階のカーテンが、ほんのわずかに揺れた。
風じゃない。
誰かが、そこにいるみたいに。
そういえば、と私も思った。
クシダ社長の車の中で、あの人は「家は一人だ」と話していた。
さっきも出かける時に、玄関のライトを消していた。
なのに。
二階の電気だけが、ついている。
⋯⋯誰か、いる?
「シロ。兄貴には悪いけど⋯⋯。ちょっと手伝って」
一人で行くのは危ない。
そう思って左手を撫でた。
「なんとなく、言いたいことはわかるよ。兄貴を待つ。あたしも、それは考えた。でもさ――」
ミクの視線が灯りのついた窓へと向かう。
「車の中で、あいつが言ってたよね。明日ならって。それってつまり、今日なんかするってことじゃない」
言われてみれば、たしかにそうだった。
あの時の違和感が、胸の奥で嫌な形に繋がっていく。
「何を隠してるのかは、わからない。でも、今ならクシダが家にいないってのは、間違いないでしょ」
今しかないのかもしれない。
そう思うと、完全には止めきれなかった。
少しためらいながら、ミクの右手をなぞった。
「どうにかして、家の中に入ろう」
ミクは一歩を踏み出した。




