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第10話 失踪

 ミクの撮影に付き添うのも慣れたもので、もう三回目になる。

 いつもの鏡台を背もたれにする私は、メイクをするジュウゴを眺めていた。


 話したり歩くときの、あのなよっとした感じはない。

 

 ジュウゴは細い筆を手に取る。

 輪郭をなぞるように、ゆっくりと色を乗せていく。

 真剣な表情。

 さっきまでのジュウゴと、同じ人には見えなかった。

 

 しばらくして、ミクの変身は無事に終わった。

 うん、今日も可愛い。


 ジュウゴはすっと立ち上がり、一息ついた。


「ねえ、そういえば聞いたかしら?」


 ジュウゴは筆を片付けながら、鏡越しにミクへ尋ねた。


「なんか、サナちゃんと連絡がつかないんですって」

「⋯⋯えっ?」


 ミクの声が不安に揺れた。


 自然と私も、ミクの隣の席を見つめてしまう。

 いままでは必ずそこにあった姿が、ない。


「あの子、基本遅刻しないし、なんかあったらすぐに連絡するのに⋯⋯。それに今日の撮影は、初めて雑誌の一番前に載る予定だったでしょ。すっごい喜んでたのに⋯⋯」

 

 ジュウゴが頬に手を添え、小さくため息をつく。


「ミクちゃん、なんか聞いてない?」

「⋯⋯聞いてないかな」

「そうなのね⋯⋯」


 ジュウゴはそう言い残すと、仕事道具の片付けに行ってしまった。


 ミクは膝上にある両手をぎゅっと握った。

 不安はある。だけど逃げない。

 そんな強さを、にじませている。


 サナは、どうしてしまったんだろう。


「ミクちゃん」


 そんな声と一緒に、ぱたぱたと小走りでジュウゴが戻ってきた。


「休憩時間になったら、クシダ社長が来てくれって」


 その言葉は、高いところから突き飛ばされるみたいに、ぞわっとした。


 クシダ社長。

 あの黒い泥の人。

 ミクに、どんな用があるのだろう。


 

 コンコン。

 ノックをしてから、ミクはドアノブに手をかけた。


「⋯⋯失礼しまーす」


 ミクは私を抱えたまま、部屋に入った。

 モデルの子や、スタッフが使う雑多な場所と違って、余計なものがなくてすっきりしていた。


「おー、ミクちゃん。急に呼んで悪かったね。さ、座って座って」


 クシダ社長は三人掛けのソファーの真ん中に座っていた。

 手招きをして、対面のソファーを勧めてくる。

 ミクが、ソファーに腰を下ろした。


 クシダ社長は黒いスーツを着こなしていた。シワ一つない清潔感。袖口から覗く腕には、重みのある金属の時計が巻かれていた。

 

「なんか飲む? まあ、冷蔵庫にあるものしか出せないけどね」

「ありがとうございまーす。でも、さっきお茶を飲んじゃったんで、大丈夫かな」

「そうかい? まあ、気が変わったら遠慮なく言ってね」


 クシダ社長は、人の良さそうな笑みを浮かべていた。

 仕草も、見た目も、文句のつけようがない。


 ――どろり。

 こんな重い感情さえなければ、だけど。


 この泥はなんだろう?

 嫌悪の気持ちは塵だった。だけど、それとは違う気がする。

 まとわりついてくる感じが、ねばっこいというか⋯⋯。


 なんにせよ、こんなのいいもののはずがない。

 強く念じて、ミクの手のひらをぐっと押す。

 ミクの喉が小さく鳴った。


 急ぎの用事かと思えば、クシダ社長は微笑むばかり。

 どういうつもりなのか、いまいち掴めなかった。


「あの⋯⋯、あたしを探してたって聞いたんですけど。なんかやっちゃいました?」

「え⋯⋯? ああっ、そんな深刻な話じゃないから、楽にしてね」

「そっか。よかった」

「むしろ、君にとっては良い話のはずさ」

 

 クシダ社長の笑みが、少しだけ深まった。


「良い話? えー、なんだろ?」

「聞きたいかい?」

「もう、クシダ社長ったら、焦らさないでよー」


 いつもを演じようとするミク。

 私を掴む手に力がこもってる。


「ほらほら、またクシダ社長って⋯⋯。かたいなあ。クッシーって呼んでくれないかい? そうしたら教えてあげるよ」


 クシダ社長は肩をすくめ、軽く言う。

 「あー⋯⋯」と呟きながら、ミクは困ったように笑った。


「それじゃ⋯⋯。クッシー、教えてよ」

「その方がミクちゃんらしくて、僕は好きだな」


 満足そうにうなずき、言葉を続ける。

 弱い笑みをこぼすミクは、右手を左肘に添えた。


「サナちゃんが急遽、撮影に来れなくなったみたいでね。予定されてたページ構成に、ちょっと穴が空きそうなんだ」

「サナっちが? え⋯⋯、なんかあったの?」

「プライベートなことだから、そこに関してはちょっと話せないかな」


 クシダ社長が苦笑した。


「本題はね、ミクちゃんにその穴を埋めて欲しいってことなんだ」

「あたしが?」

「ああ。前社長の時から、何度も重要な看板ページを任されてきたんだよね?」

「それは⋯⋯、まあ、やったことあるけど⋯⋯」

「正直、僕は前社長の経営方針とかはおかしいと思ってる。だけど、素晴らしいモデルを見抜く力だけは、凄いと感じてるんだ」


 わずかに熱のこもった声で言う。


「ここだけの話、ミクちゃんのことは特別だと思ってる」

「⋯⋯特別?」

「読者モデルの先⋯⋯ブランド提携や、雑誌の顔にもなれる。僕は、そう思ってるんだ」

「またまた⋯⋯、クッシーは口が上手なんだからー」

「いや⋯⋯、本気だよ」

 

 真剣な表情でそう言った。

 しばらくミクのことを見つめ、フッと表情を崩した。


「まあ、そのことは心の片隅に置いてくれればいい。それより、サナちゃんの代わりを任せていいかい?」


 ほんの少しだけ間をあけて、


「⋯⋯やるよ」


 ミクはクシダ社長を真っ直ぐ見つめた。


「サナっちが戻ってきた時に、雑誌のことで責められたら可哀想だし⋯⋯。あたしで埋められるなら、やるよ」

「ありがとう。助かるよ」


 そう言って、クシダ社長がそっとミクの手を取る。


「これが上手くいったら⋯⋯何かお礼をしないとね」


 やわらかい声だった。


「そうだな⋯⋯今度、少し時間もらえるかな。ミクちゃんのこと、ちゃんと知っておきたい」


 ミクの手を離さずに、クシダ社長は続ける。


「スタジオだとバタバタしてるし、落ち着いて話せる場所でさ」

 

 ――どろり。

 さっきよりも、重い。

 これ以上、ここにいるのは良くない。

 ミクも、私を握る手に力がこもってる。


 念を外へ向ける。

 扉の向こう。

 さっきミクが部屋へ入った時のことを想像する。


 コンコン。


 はっきりとした音が、部屋に響いた。


「あれ?」


 クシダ社長が視線をドアへ向ける。


「誰か来たみたいだね」


 ミクの手を離し、ゆっくりと立ち上がる。

 ドアノブに手をかけて、開く。


「⋯⋯?」


 廊下には、誰かがいるはずもない。

 ほんの一瞬だけ、空気が止まる。

 その隙に。


 ミクの腕が、私を抱き直した。


「あっ、ごめんクッシー。あたし、もう行かなきゃ!」


 ミクが少しだけ声を明るくする。


「兄貴になんも言わずに来ちゃった! 絶対うるさいからさっ」


 扉の隙間をするりと抜けて、そのまま廊下へ出た。

 ミクが歩く。いつもより少しだけ速い。

 背中にまとわりついているなにかを、振り払おうとしてるみたいだ。


 角を曲がって、ようやく階段室の扉に手をかけた。



「ヤバいヤバいヤバい! ホントに、なにあれ!」

 私をぎゅっと抱え込んで、ミクが足を何度も踏み鳴らす。音が階段室に跳ね返った。


 5階の扉前。

 ミクが私に話しかけたい時、決まって連れてくる場所だ。


「シロってば、マジで天使だわ。あれなかったら、あたし、怖すぎて手が出てたもん」


 わかる。

 あの人の顔は、心とまるで合ってない、仮面みたいなものだ。

 今までの誰よりも、そのズレが気持ち悪い。

 

「ついて行ったら、ダメ、絶対ってやつだわ。ほんとに」

 

 首をぶんぶんと振ると、整えられた髪が揺れた。


「サナっちのこともさ、プライベートとかなんとか言ってたけど、絶対なんか隠してるって。でも、証拠なんてないもんなあ⋯⋯」


 ミクの独り言を聞いていると、下の方から扉が開く音がした。


「ねー、なんでここに連れて来んのよー。この前、変な足音したところじゃんか〜」

「いや、ごめんって⋯⋯。だけど、他のとこだと、誰に聞かれてるかわからないからさ」


 この前、おしおきした二人組の声だ。


「なになに? 面白い話? この前言ってた、ジュウゴさんとカレピの続報とか?」

 

 片方はとても明るい。けれど、


「⋯⋯」


 もう一人は、沈んだ気配を漂わせている。

 ミクは息を止めた。

 階段室は静かすぎて、下の声が嫌でも響いてくる。


「えー? なにそんなマジな顔してんのよー。そんなヤバい話なの?」

「⋯⋯あーし、見ちゃったんだよね」


 静かな階段室に、そんなひと言だけが残った。

 

 相手が尋ねない時間が、妙に長く感じた。

 ミクは少し前のめりになって、聞き耳を立ててるようだった。


「え⋯⋯。なにを、みたのさ⋯⋯」


 ゆっくりと時間が動き出す。

 明るさは、一瞬で陰っていた。


「サナがさ⋯⋯」

「サナ? さっき、ジュウゴさんに聞かれたとき⋯⋯、あんた、知らないって⋯⋯」


 わずかに責める口調だった。

 しかし、もう一人は構う余裕もないようだ。


「昨日、学校前で誰かが車で迎えに来て⋯⋯。サナ⋯⋯それに乗っていったんよ」

「それって⋯⋯。誰が運転してたん? 顔、見たりしてないの?」

「それは、わかんない⋯⋯」


 車に乗り込んだところが、姿を見かけた最後なのかな。


「でもね、ちょっと気になることあってさ⋯⋯」

「なになに?」

「スタジオの駐車場に並んだ車の一台が⋯⋯」


 小声なのによく反響する声。

 ミクが小さく喉を鳴らした。


「似てんだよね。あーしが見たのと⋯⋯あの車」

「どれ?」

「ほら、最近見るようになった、黒めの高そうなやつ」

「⋯⋯ああ、あれ?」


 二人の間に沈黙が落ちる。


「⋯⋯誰のか聞いてみる?」

「⋯⋯うん。⋯⋯いや、でも。⋯⋯やっぱ、やめとこっかな」

「まあ⋯⋯、ビルにはスタジオ以外もあるし。使ってんの、ウチらんとこだけじゃないしね」

「そうだね」


 それだけ話すと、二人は廊下へと戻って行った。

 そんなやりとりが、頭にこびりついて離れなかった。



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