第10話 失踪
ミクの撮影に付き添うのも慣れたもので、もう三回目になる。
いつもの鏡台を背もたれにする私は、メイクをするジュウゴを眺めていた。
話したり歩くときの、あのなよっとした感じはない。
ジュウゴは細い筆を手に取る。
輪郭をなぞるように、ゆっくりと色を乗せていく。
真剣な表情。
さっきまでのジュウゴと、同じ人には見えなかった。
しばらくして、ミクの変身は無事に終わった。
うん、今日も可愛い。
ジュウゴはすっと立ち上がり、一息ついた。
「ねえ、そういえば聞いたかしら?」
ジュウゴは筆を片付けながら、鏡越しにミクへ尋ねた。
「なんか、サナちゃんと連絡がつかないんですって」
「⋯⋯えっ?」
ミクの声が不安に揺れた。
自然と私も、ミクの隣の席を見つめてしまう。
いままでは必ずそこにあった姿が、ない。
「あの子、基本遅刻しないし、なんかあったらすぐに連絡するのに⋯⋯。それに今日の撮影は、初めて雑誌の一番前に載る予定だったでしょ。すっごい喜んでたのに⋯⋯」
ジュウゴが頬に手を添え、小さくため息をつく。
「ミクちゃん、なんか聞いてない?」
「⋯⋯聞いてないかな」
「そうなのね⋯⋯」
ジュウゴはそう言い残すと、仕事道具の片付けに行ってしまった。
ミクは膝上にある両手をぎゅっと握った。
不安はある。だけど逃げない。
そんな強さを、にじませている。
サナは、どうしてしまったんだろう。
「ミクちゃん」
そんな声と一緒に、ぱたぱたと小走りでジュウゴが戻ってきた。
「休憩時間になったら、クシダ社長が来てくれって」
その言葉は、高いところから突き飛ばされるみたいに、ぞわっとした。
クシダ社長。
あの黒い泥の人。
ミクに、どんな用があるのだろう。
◇
コンコン。
ノックをしてから、ミクはドアノブに手をかけた。
「⋯⋯失礼しまーす」
ミクは私を抱えたまま、部屋に入った。
モデルの子や、スタッフが使う雑多な場所と違って、余計なものがなくてすっきりしていた。
「おー、ミクちゃん。急に呼んで悪かったね。さ、座って座って」
クシダ社長は三人掛けのソファーの真ん中に座っていた。
手招きをして、対面のソファーを勧めてくる。
ミクが、ソファーに腰を下ろした。
クシダ社長は黒いスーツを着こなしていた。シワ一つない清潔感。袖口から覗く腕には、重みのある金属の時計が巻かれていた。
「なんか飲む? まあ、冷蔵庫にあるものしか出せないけどね」
「ありがとうございまーす。でも、さっきお茶を飲んじゃったんで、大丈夫かな」
「そうかい? まあ、気が変わったら遠慮なく言ってね」
クシダ社長は、人の良さそうな笑みを浮かべていた。
仕草も、見た目も、文句のつけようがない。
――どろり。
こんな重い感情さえなければ、だけど。
この泥はなんだろう?
嫌悪の気持ちは塵だった。だけど、それとは違う気がする。
まとわりついてくる感じが、ねばっこいというか⋯⋯。
なんにせよ、こんなのいいもののはずがない。
強く念じて、ミクの手のひらをぐっと押す。
ミクの喉が小さく鳴った。
急ぎの用事かと思えば、クシダ社長は微笑むばかり。
どういうつもりなのか、いまいち掴めなかった。
「あの⋯⋯、あたしを探してたって聞いたんですけど。なんかやっちゃいました?」
「え⋯⋯? ああっ、そんな深刻な話じゃないから、楽にしてね」
「そっか。よかった」
「むしろ、君にとっては良い話のはずさ」
クシダ社長の笑みが、少しだけ深まった。
「良い話? えー、なんだろ?」
「聞きたいかい?」
「もう、クシダ社長ったら、焦らさないでよー」
いつもを演じようとするミク。
私を掴む手に力がこもってる。
「ほらほら、またクシダ社長って⋯⋯。かたいなあ。クッシーって呼んでくれないかい? そうしたら教えてあげるよ」
クシダ社長は肩をすくめ、軽く言う。
「あー⋯⋯」と呟きながら、ミクは困ったように笑った。
「それじゃ⋯⋯。クッシー、教えてよ」
「その方がミクちゃんらしくて、僕は好きだな」
満足そうにうなずき、言葉を続ける。
弱い笑みをこぼすミクは、右手を左肘に添えた。
「サナちゃんが急遽、撮影に来れなくなったみたいでね。予定されてたページ構成に、ちょっと穴が空きそうなんだ」
「サナっちが? え⋯⋯、なんかあったの?」
「プライベートなことだから、そこに関してはちょっと話せないかな」
クシダ社長が苦笑した。
「本題はね、ミクちゃんにその穴を埋めて欲しいってことなんだ」
「あたしが?」
「ああ。前社長の時から、何度も重要な看板ページを任されてきたんだよね?」
「それは⋯⋯、まあ、やったことあるけど⋯⋯」
「正直、僕は前社長の経営方針とかはおかしいと思ってる。だけど、素晴らしいモデルを見抜く力だけは、凄いと感じてるんだ」
わずかに熱のこもった声で言う。
「ここだけの話、ミクちゃんのことは特別だと思ってる」
「⋯⋯特別?」
「読者モデルの先⋯⋯ブランド提携や、雑誌の顔にもなれる。僕は、そう思ってるんだ」
「またまた⋯⋯、クッシーは口が上手なんだからー」
「いや⋯⋯、本気だよ」
真剣な表情でそう言った。
しばらくミクのことを見つめ、フッと表情を崩した。
「まあ、そのことは心の片隅に置いてくれればいい。それより、サナちゃんの代わりを任せていいかい?」
ほんの少しだけ間をあけて、
「⋯⋯やるよ」
ミクはクシダ社長を真っ直ぐ見つめた。
「サナっちが戻ってきた時に、雑誌のことで責められたら可哀想だし⋯⋯。あたしで埋められるなら、やるよ」
「ありがとう。助かるよ」
そう言って、クシダ社長がそっとミクの手を取る。
「これが上手くいったら⋯⋯何かお礼をしないとね」
やわらかい声だった。
「そうだな⋯⋯今度、少し時間もらえるかな。ミクちゃんのこと、ちゃんと知っておきたい」
ミクの手を離さずに、クシダ社長は続ける。
「スタジオだとバタバタしてるし、落ち着いて話せる場所でさ」
――どろり。
さっきよりも、重い。
これ以上、ここにいるのは良くない。
ミクも、私を握る手に力がこもってる。
念を外へ向ける。
扉の向こう。
さっきミクが部屋へ入った時のことを想像する。
コンコン。
はっきりとした音が、部屋に響いた。
「あれ?」
クシダ社長が視線をドアへ向ける。
「誰か来たみたいだね」
ミクの手を離し、ゆっくりと立ち上がる。
ドアノブに手をかけて、開く。
「⋯⋯?」
廊下には、誰かがいるはずもない。
ほんの一瞬だけ、空気が止まる。
その隙に。
ミクの腕が、私を抱き直した。
「あっ、ごめんクッシー。あたし、もう行かなきゃ!」
ミクが少しだけ声を明るくする。
「兄貴になんも言わずに来ちゃった! 絶対うるさいからさっ」
扉の隙間をするりと抜けて、そのまま廊下へ出た。
ミクが歩く。いつもより少しだけ速い。
背中にまとわりついているなにかを、振り払おうとしてるみたいだ。
角を曲がって、ようやく階段室の扉に手をかけた。
◇
「ヤバいヤバいヤバい! ホントに、なにあれ!」
私をぎゅっと抱え込んで、ミクが足を何度も踏み鳴らす。音が階段室に跳ね返った。
5階の扉前。
ミクが私に話しかけたい時、決まって連れてくる場所だ。
「シロってば、マジで天使だわ。あれなかったら、あたし、怖すぎて手が出てたもん」
わかる。
あの人の顔は、心とまるで合ってない、仮面みたいなものだ。
今までの誰よりも、そのズレが気持ち悪い。
「ついて行ったら、ダメ、絶対ってやつだわ。ほんとに」
首をぶんぶんと振ると、整えられた髪が揺れた。
「サナっちのこともさ、プライベートとかなんとか言ってたけど、絶対なんか隠してるって。でも、証拠なんてないもんなあ⋯⋯」
ミクの独り言を聞いていると、下の方から扉が開く音がした。
「ねー、なんでここに連れて来んのよー。この前、変な足音したところじゃんか〜」
「いや、ごめんって⋯⋯。だけど、他のとこだと、誰に聞かれてるかわからないからさ」
この前、おしおきした二人組の声だ。
「なになに? 面白い話? この前言ってた、ジュウゴさんとカレピの続報とか?」
片方はとても明るい。けれど、
「⋯⋯」
もう一人は、沈んだ気配を漂わせている。
ミクは息を止めた。
階段室は静かすぎて、下の声が嫌でも響いてくる。
「えー? なにそんなマジな顔してんのよー。そんなヤバい話なの?」
「⋯⋯あーし、見ちゃったんだよね」
静かな階段室に、そんなひと言だけが残った。
相手が尋ねない時間が、妙に長く感じた。
ミクは少し前のめりになって、聞き耳を立ててるようだった。
「え⋯⋯。なにを、みたのさ⋯⋯」
ゆっくりと時間が動き出す。
明るさは、一瞬で陰っていた。
「サナがさ⋯⋯」
「サナ? さっき、ジュウゴさんに聞かれたとき⋯⋯、あんた、知らないって⋯⋯」
わずかに責める口調だった。
しかし、もう一人は構う余裕もないようだ。
「昨日、学校前で誰かが車で迎えに来て⋯⋯。サナ⋯⋯それに乗っていったんよ」
「それって⋯⋯。誰が運転してたん? 顔、見たりしてないの?」
「それは、わかんない⋯⋯」
車に乗り込んだところが、姿を見かけた最後なのかな。
「でもね、ちょっと気になることあってさ⋯⋯」
「なになに?」
「スタジオの駐車場に並んだ車の一台が⋯⋯」
小声なのによく反響する声。
ミクが小さく喉を鳴らした。
「似てんだよね。あーしが見たのと⋯⋯あの車」
「どれ?」
「ほら、最近見るようになった、黒めの高そうなやつ」
「⋯⋯ああ、あれ?」
二人の間に沈黙が落ちる。
「⋯⋯誰のか聞いてみる?」
「⋯⋯うん。⋯⋯いや、でも。⋯⋯やっぱ、やめとこっかな」
「まあ⋯⋯、ビルにはスタジオ以外もあるし。使ってんの、ウチらんとこだけじゃないしね」
「そうだね」
それだけ話すと、二人は廊下へと戻って行った。
そんなやりとりが、頭にこびりついて離れなかった。




