第93話「海の王の、涙」
海の王が、水盤の縁に座った。
下半身がまだ水の中にある。脚が——ヒレだった。人間の脚じゃなく、魚のような長い尾ヒレ。
人魚、って言うのか。上半身が人間で、下半身が魚。
チョンがじっと見てる。
「タカラ、海の王って、人魚さんなの?」
〝そうみたいだな〟
「きれいだね」
「ありがとう、チョン」
海の王がくすっと笑った。
声が——本当に澄んでる。笑い声ですらメロディに聞こえる。
全員が水盤の周りに集まった。ガルドも入り口から戻ってきた。
「入り口にガウルを残してきた。見張り。何かあったら吠えるって」
〝了解〟
海の王が俺たちを見回した。
「宝箱、ホブゴブリン、骸骨、巫女、スライム、ホブゴブリンの子供。……面白い組み合わせね」
〝よく言われる〟
「あなたが、蓋を開ける者」
〝タカラだ〟
「タカラ。いい名前」
〝海の王は、名前は〟
「……ない」
〝ない?〟
「封印された時に、奪われた。名前も、記憶の一部も。大賢者が——私の名前を封印の鍵に使った」
名前を封印の鍵に使った。
灰守は自分で名前を棄てた。海の王は——奪われた。
「だから、私には名前がない。八百年間、ずっと〝海の王〟としか呼ばれない」
〝……悲しいな〟
「悲しいわ。名前って、その人そのものだから。名前がないと——自分が誰か、わからなくなる」
俺も——名前を差し出したら、たぶんそうなるんだろうな。
いや、俺は記憶を差し出した。カイルとしての記憶を。何を差し出したかも覚えてないけど。
「タカラ。一つ聞いていい?」
〝なんだ〟
「あなたも、何かを失ったことがある?」
〝……〟
〝あるらしい 何を失ったか覚えてないけど〟
海の王が——目を伏せた。
「そう。あなたも——奪われた側なのね」
◇
「私の話を聞いてくれる?」
〝聞く〟
「長い話になるけど」
〝いい〟
海の王が、水盤の水面に指先を触れた。水面に波紋が広がった。
「八百年前——私は、海に住んでいた。この岬の近くの海底に。魚人族と一緒に」
魚人族。昨日、俺たちを案内してくれたあの種族。
「海の民は、平和な種族だった。人間を襲うこともなく、人間と交易をしていた。魚を売り、貝を売り、人間からは穀物や道具を買っていた」
「私は——海の民の長だった。王、と呼ばれるのは大袈裟だけど。実際には村長みたいなものだった」
村長。
「人間の街とも交流があった。この岬の近くに、潮見という街があった。漁師の街。そこの人間たちと、私は友好関係を築いていた」
潮見。構成案で出てた街の名前だ。
「特に、一人の人間と——親しくしていた。潮見の街の長老の息子。リヒトという名前だった」
リヒト。
「リヒトは、海が好きだった。毎日海に来て、私と話をしてくれた。海の歌を聴いて、人間の歌を教えてくれた。私の歌と、リヒトの歌が——一緒に響くのが、好きだった」
海の王の声が——少し震えた。
「リヒトは、友達だった。人間と魔物の垣根を越えた、本当の友達だった」
ガルドが横で静かに聞いてる。レグナが蒼い炎をゆっくり揺らしてる。
「大戦が始まった。大陸中の魔王が封印されていった。対話の王が、戦の王が、知の王が——次々に封じられた」
「私は——何もしなかった。戦いに参加しなかった。海の民を守ることだけを考えた。人間と戦う理由がなかったから」
「大賢者が来た。〝おまえも封印する〟と言った」
「私は聞いた。〝なぜ? 私は何もしていない〟と」
「大賢者は答えた。〝今は何もしていないかもしれない。だが、将来暴走する可能性がある。七人の魔王は全員封印する。例外はない〟と」
…………。
全員を封印する。例外はない。
可能性だけで。
「私は抵抗した。〝私は暴走しない。人間と共存している。友達がいる〟と」
「大賢者は——リヒトに聞いた。〝おまえは、この魔王を信じるか〟と」
海の王の声が——震えた。
「リヒトは——」
長い沈黙。
「——〝封印してください〟と、言った」
…………。
「リヒトが——私を裏切った」
チョンが目を見開いた。
「友達は——封印に協力した。〝将来暴走するかもしれない魔王を、野放しにはできない〟と」
「〝ごめん〟と言ったわ、リヒトは。泣きながら。でも——〝封印してください〟と言った」
「私は——なぜ、と聞いた。なぜ、と」
「答えはなかった。泣きながら背を向けた。それが、最後に見た顔」
海の王が——涙を流した。
水盤の水と涙が混ざった。でも、涙だとわかった。声で。
「八百年——ずっと考えてた。なぜリヒトは裏切ったのか。友達だったのに。一緒に歌ったのに。なぜ」
「答えは見つからなかった。八百年、見つからなかった」
…………。
ホールが静かだ。
チョンが海の王の手を、ぎゅっと握り直した。
「それは……つらいね」
「つらかった。ずっと」
◇
俺は——しばらく黙って聞いてた。
他の魔王は、自分の意志で封印を受け入れた。
対話の王は暴走した罪悪感で。戦の王は悟りを得て。知の王は自ら書斎に閉じこもって。灰守は後悔で自分を罰して。
海の王だけが——何も悪いことをしてないのに、封印された。
友達に裏切られて。
〝リヒトは悪い人だったのか〟
「……わからない。わからないの。悪い人だったなら、簡単だった。〝裏切り者〟って恨めば済んだ。でも——リヒトは泣いてた。本気で泣いてた。裏切りたくなかったのに、裏切った」
〝なら——リヒトにはリヒトの理由があったのかもしれない〟
「理由?」
〝大賢者に逆らえなかったのかもしれない おまえを守りたかったけど、大賢者の権力に勝てなかったのかもしれない〟
「…………」
〝リヒトが泣いてたのは、本当に辛かったからだろう 友達を封印することが〟
「でも——結局、封印したじゃない」
〝ああ でも、裏切りたくて裏切ったんじゃない 守れなかっただけだ〟
海の王が——長い沈黙の後、顔を上げた。
「……守れなかった、だけ?」
〝おまえを守る力がなかっただけだと思う 大賢者に逆らう力が〟
「…………」
博士が静かに言った。
『大賢者の記録に、海の王の封印に関する補足がある。〝海の王の友人であるリヒトは、封印に反対した。だが、大賢者団の決定は覆せなかった。リヒトは、封印の条件として、〝海の王の歌を残すこと〟を要求した。大賢者団はこれを受け入れた〟と』
「歌を、残す……?」
『海の王の歌の力を完全に封じずに、塔の中で歌い続けられるようにすること。それがリヒトの条件だった。リヒトは——海の王が歌を失うことだけは、防ごうとした』
海の王が——目を見開いた。
「リヒトが……私の歌を、守ってくれていた……?」
『封印の構造を見れば、確かにそうなっている。海の王の塔だけ、音響の結界が内部に施されている。歌が塔の中で響くように。他の塔にはない構造だ』
リヒトは——裏切ったんじゃなく、守れなかった。
でも、守れる範囲で——歌だけは守った。
海の王の——一番大切なものを。
「……そう、だったの」
海の王が、両手で顔を覆った。
「八百年……恨んでた。リヒトを。裏切り者だと思ってた。でも——リヒトは、最後まで私の味方だった」
涙が、指の隙間からこぼれてる。
「ごめんね、リヒト。私、ずっと恨んでた。あなたが、私のために戦ってくれてたのに」
ホールに、海の王の泣き声が響いた。
歌じゃない。ただの泣き声。
でも——八百年分の誤解が解けた泣き声だ。
チョンが、海の王の手を両手で包んだ。
「泣いていいよ。いっぱい泣いていいよ」
「……ありがとう、チョン」
「うん」
パカッ。
俺は——黙って見てた。
宝箱にできることは、蓋を開けることだ。
海の王の「恨み」という蓋を開けたのは——チョンの手だった。
俺が開けたんじゃない。仲間が開けた。
それでいい。全部俺が開けなくたっていい。
◇
海の王が——しばらく泣いて、落ち着いた。
目が赤い。
「ごめんなさい。八百年泣いてなかったから、つい」
〝気にするな〟
「タカラ。あなたは——私を浄化しに来たの?」
〝そうだ 封印を解いて、おまえを自由にする〟
「自由に、か」
海の王が水面を見つめた。
「自由になったら——海に帰れる?」
〝帰れる〟
「魚人族と、一緒に暮らせる?」
〝暮らせる〟
「歌を——自由に歌える?」
〝歌えるよ〟
海の王が——笑った。泣いた後の笑顔。
「じゃあ——お願い。封印を解いて。私、海に帰りたい」
パカッ。
〝解く〟
〝でもその前に——おまえに名前をつけたい〟
「名前?」
〝封印で奪われた名前の代わりに 俺がつける〟
灰守にもそうした。名前のない存在に、名前を入れる。
宝箱の仕事だ。
海の王が——目を瞬いた。
「あなたが名前をくれるの?」
〝くれるんじゃなくて、入れるんだ〟
〝俺は宝箱だから 空っぽのところに、大事なものを入れる〟
海の王が——また笑った。今度はくすっと。
「変わった宝箱ね」
〝よく言われる〟
「じゃあ——つけて。私に、名前を」
◇
名前。
海の王。歌を愛する人魚の王。人間の友達に歌を守ってもらった王。
歌——潮の音——波の声——
〝潮音〟
「しおね……?」
〝潮の音 海の音 波の声〟
〝おまえの歌は海の声だ 海そのものの歌だ だから——潮音〟
海の王が——名前を、口の中で転がすように、何度も呟いた。
「潮音。潮音……。潮音」
涙が——また流れた。でも、今度は笑いながら。
「いい名前。ありがとう、タカラ」
〝どういたしまして〟
パカッ。
名付け完了。
あとは——封印を解く。
でも、その前に——マリウス派の問題がある。鎖を外したことに、あいつらが気づいたら、動いてくる。
ガウルが入り口から吠えた。
「ガウッ! タカラ! 海上に船が来てる! マリウスの匂い!」
……来た。
パカッ。
◇
【次回】マリウス派が海上から介入してくる。海の王の封印解除を阻止しようとするカシス。海上での戦闘が始まる。




