2話 あの日の轍
あの日から、家に俺の居場所はなくなった……。
そして俺は、大学入学を機に一人暮らしをすることにした。
薄暗い部屋の中。
机に散らかる資料と、一冊のノート。
そのノートには、こう書かれている。
――幽霊は存在しない。それはただの現象である。
――そして、その中には決して犯してはいけないタブーがある。
ボロアパートの一室に、チャイムの音が鳴り響く。
「どうぞー」
気だるげな声で出迎える。
「あのー、こちら心霊研究家さんの事務所で、
合っていますか?」
そう言って、おばちゃんが尋ねてきた。
「はい。俺は心霊研究家の修二と申します」
「どうぞお座りください。
何か飲みますか?
コーヒーしか出せませんけど」
そう言いながら、修二はテーブルにコーヒーを置き、腰掛ける。
少し戸惑いながらも、おばちゃんは腰を下ろして話し始めた。
「私はアパートの大家をして生活しているんですけど、
ここ数年で、アパートの住民が一人もいなくなってしまってねぇ」
「みんな、黒い子供の幽霊が出る、
夜にベランダの窓をドンドンと叩かれる、
って言って、出ていってしまったのよ」
「成仏できていないんだろうな、と思ってねぇ。
お坊さんにも頼ってみたけど、効果がなくて……」
「そこで、あなたの噂を聞いてね。
お願いしたいのよ」
その話を聞き、ふと思う。
――まるで状況が、あの時とそっくりだ……。
姉さんが起きなくなってしまった、あの日。
あの場所に……。
俺は一切の迷いなく言った。
「わかりました。
その依頼、引き受けましょう」
「ただ一つだけ、
あなたに伝えておかないといけないことがあります」
「幽霊は存在しません。
そこにあるのは“現象”です」
そう言いながら、手元のカップを机に置く。
「現象を紐解くためにも、大家さん。
住民がいなくなるまでの流れを、
教えていただけますか?」
大家さんは、
「不思議なことを言う人だ」と言わんばかりの表情で、
こちらを見ながら話し始めた。
「はい……あれは、そうね。
八年前に親子が引っ越してきてからというもの、
毎日、怒鳴り声や泣き声がしてね」
「あれから一年くらい経って、
異臭がするから警察を呼んで、部屋を調べたら……
子供が死んでいたのよ」
「今更だけど、
もし今もあの部屋に取り残されているなら、
なんとかしてあげたいと思って……」
「周りにも幽霊アパートなんて言われてるし、
もし、そうなら……
成仏させてあげたいの。だから……」
修二は、その言葉を遮る。
「お話の途中、すみません。
もう十分です。
というより、これ以上は話さない方がいい」
「部屋の鍵を、貸していただけますか?
今日の夜に、部屋を調査しましょう」
「わかりました。お願いしますね」
そう言って大家は、
鍵を用意するために事務所を出ていった。
夜十二時。
大家から鍵を受け取り、部屋の前に立つ。
――今回の現象は、
あの時と条件が、似通っている……はずだ。
鍵を開け、ドアを開く。
埃が舞い、月明かりの差し込む部屋は、
あの日の部屋の光景を彷彿とさせた。
外に風は吹いていない。
それなのに、ベランダの窓が、
ドン……ドンドンと叩かれる音がする。
そして、気づく。
――音は、部屋の中からしている。
そこには、“影”があった。
俺は、あの日から“影”が見えるようになってしまった。
そして、この影は幽霊なんかじゃない。
――別の、何かだ……。
あの時は、何も知らなかった。
だが今は、この現象と対面する際のタブーを知っている。
一つ。名前を与えてはいけない。
一つ。物語を語ってはいけない。
一つ。感情を投影してはいけない。
これさえ守れば、安全に仕事を終えるための、
最低限のルールだ。
部屋の真ん中に座り、
窓の前にいる不定形の“影”を見つめる……。
すると、目の前に腕と頭らしき膨らみが現れ始めた。
大家や周辺住民の噂が、
形をなすための情報を、
すでに与えてしまっている。
その事象を目にした瞬間、
姉との苦い記憶が蘇る。
このまま放置していたら、いずれ……。
いや、
誰かが止めなければ、必ず起きてしまうのか?
姉との過去を思い返しているうちに、
いつの間にか、俺は口にしていた。
(……こ、ここは、君の居場所じゃない)
言った瞬間、気づいてしまった。
――自分が、タブーを侵してしまったことに。
俺は無意識に、
その“影”に感情を向けて、語りかけていた。
背中に悪寒が走る。
部屋に鳴り響いていた、
ベランダを叩く音が――
いつの間にか、止んでいた。
影は、少しずつ、
そしてはっきりと形を成していく。
肩の線。
首のくびれ。
立ち姿――人の輪郭。
しまった。
必死に視線を逸らし、目を瞑り、耳を塞ぐ。
心臓が、
ドクン、ドクン、ドクンと、
激しく脈打つのを感じた。
目を開けるのが怖い……。
姉のようにはなりたくない!
俺は……まだ……!
それから、
必死に自分の内側へ意識を向け続けて、
どれくらい経っただろう。
恐る恐る瞼を上げ、
“影”がいた方向を見る。
“影”は、人になりきれず、
不安定な“影”へと、
少しずつ戻っていた。
朝になっても“影”は消えていない。
だが夜よりも、
薄く、不安定になっているように感じられた。
翌朝、大家が修二に声をかける。
「何か、ありました?」
「いえ。何もありませんでした」
「では、僕は失礼します。
調査結果は、まとめて後日、郵送しますね」
事務的なやり取りを終え、帰路につく。
俺は、この事象を
止めたかったわけじゃない。
本当は……
また同じことになるのかを、
試したかったんだ……。
――でも次は、止められる。
そう確信して、
俺はノートを閉じた。




