第九話 されど不幸の星の下・3
ただでさえ仕事が大変なところ小説賞の発表が遅れに遅れて栄吉はすっかりやられていた。
今、ストレスフルな日常生活を送っている。
それを言うなら五年前、働くということをし始めてから毎日が大変だった。
――でも、いい経験をしている、とは思っている。
様々な人たちとの出会いを果たした。すずかけは言うまでもなく――いろいろな仕事を経験した。世の中にはいろいろな職業があっていろいろな働き方をしているいろいろな人たちがいる。それを体感としてしっかり理解できた。あの血族の連中には決して分かりえない世界の真実だ。
それでも大変なのは大変であり、苦痛なのは苦痛だった。今の職場はとても恵まれていると思えているが、やはり”普通の会社員”があまりにも苦痛だった。
雪尋やすずかけのみんなに日々癒されてはいるが、対症療法でしかない。
そんな中……YouTubeで、精神科医の配信している動画を、見た。
親子でカウンセリングをするのはありかなしか、という視聴者からの質問に、そのドクターはなしだと答えていた。それは、親子は親子の会話をするべきである、そういう親子関係は健康的ではない、という説明だった。
それを聞いて栄吉は、不登校になったあの日のことを思い出した。正確に言えば不登校になるきっかけとなったあの日。
あの日。学校で先生にやられにやられて、とぼとぼと帰路に着いていた。
家に帰ると母親がいた。その日たまたま家にいたのか、そのときたまたま家にいた時期だったのかは忘れてしまったが、とにかく母がいて――即、「どうしたの」と訊いてきてくれた。
それで事のあらましを説明した。すると、「もう学校なんか行かなくていい」と言ってくれて……学校にすぐに動いてくれた。
あの日、中学一年生のあの日までは、うちは”普通”だった。いや、普通より良い家庭だったのではないかとすら思う。
そしてしばらくしてから母は心理学に中途半端にのめり込み始めた。
それからダメになった。
親子は親子の会話をすべきだった。そこに心理学の知識はいらなかった。母はそれが分からなかった。
それでも自分なりに栄吉を大切にした結果だった。結果は裏目に出たけれど。
そのことを思い出して、そのことに気づいて――栄吉は、思う。
いろいろなことがあった。親には散々な目に遭わされた。生活を奪われ将来を奪われ人生を奪われ、夢を奪われた。
それでも、でも、あの日。
お母さんは、ぼくをちゃんと愛してくれていた。
それに気づいて……やがて憎しみが薄れていった。永遠に続くかと思っていた憎悪がゆっくりと落ち着いていった。
そして……今。
栄吉は絶体絶命の大ピンチに陥っていた。
「育児の方はどうですか?」
美容院。文彦に髪を切ってもらいながら史生は、ぐったりした。
「ぐったりです」
「見たままですね」
「分かります?」
「正直に言えば、そこまでダイレクトに共感できるかというと――難しいところです。結局、父親ですから」
「お母さんって大変なんだなって実感してます。それこそ妊娠中からですけど」
「大変なんだなということは分かりますよ」
「こうなってくると、もう~夫の一挙手一投足にイライラしちゃって。わたしはいろいろなことができなくなったっていうのにあなたはいいわよねみたいな」
「どうぞ吐き出していってください」
「でも良い夫ではあるんですけどね」
「なんだ、惚気ですか」
「いやいや。……だから、お父さんってかわいそうだなって気持ちにもなります」
「何となく分かりますよ」
「こう言っちゃなんですけど、まあ~、わたし自身、お母さーんでしたもの。ピンポイントでお父さんに用があるってとき以外で親に用があるときは十中八九お母さーん」
「どんなに家事育児を頑張って、一生懸命仕事をして、親子仲良し夫婦仲良し、みんなのために精一杯、ってなっても、結局子どもたちは母親を選んじゃいますからね」
「わたしの施設の利用者さんが、わたしは同僚から電話で聞いただけなんですけど」
「はいはい」
「お母様への憎しみがなくなったら、ついでにお父様への憎しみもなくなった、と」
「そうなんですよねぇ。結局のところ、お母さんの代わりはどこにもいないけれど、お父さんは究極誰でもいいんですよねぇ」
「でも、母性神話だとは思います。我ながら客観的に」
「あるいは福祉士さんの目線?」
「でも仕方がないのかしら。生命の誕生ということから言うと」
「それと社会問題等の話は別ですし」
「まあ、そうですよね」
「子どもはかわいいですか?」
史生は満面の笑みで答えた。
「それはもう!」




