第九話 されど不幸の星の下・2
『今度、ちょっとそっちに帰ろうかと』
『今、実は彼氏と家で暮らしてまして。だから来られるのはちょっと困るかなー』
『どこの部屋使ってるの?』
『優作の部屋。ちなみに荷物は全部段ボールにしまってあるからご心配なく』
『帰るよ。様子を見たい』
『いやそれは困る。今、二人で楽しくやってるから来られると邪魔だし迷惑。荷物が必要なら送ります。家を処分するときに、そのときによろしくです。それじゃ』
(よう。久しぶりだな)
音楽室。一人きりで航平の絵を何となく見ていたら例の声が聞こえたので理一はそちらを振り向く。
(――お前か)
(会いたがっていたんじゃないか?)
(そうだな。お母さんのことが気になっていた)
(しかしお前には悪いが事の詳細はおれにもわからなくてな。おれが珠枝の残留思念だとして、彼女の記憶を継承しているわけではない。おれはただ、今ここに、世界の危機が訪れたから、それを処理しに現れたというだけだ)
(〈サイド・マウンテン〉、か……)
(あるいは珠枝の能力を継承したのかもしれないお前が、おれを生み出したのかもしれん)
(事の詳細はわからない、か)
(とにかく――世界に危機が迫っている。それをどうにかしなければならない。少なくとも今のおれはそういった役割しか持っていない)
(……)
がらっと部屋の扉が開かれたので、誰だろうと思いそちらを見るとそこに亜月と優作がいた。
「ああ。瀬戸くん」
「小津野。先生も。どうしました?」
「いや。たまたまぼくが事務室にいて、小津野が鍵を取りに来たから。それで一緒に来たんだよ」
「今日で部活は休止だっていうのに、猪瀬も大和田も古屋も帰っちまって」
「そのようだね」
「おれ、習慣で来ただけだから。そろそろ帰ろうかなって。小津野はピアノ弾いてくの?」
「うん。習慣だし。やっぱりグランドピアノはとてもいい」
「そうだな。わかるよ」
といって理一は再び航平の渚の絵を見つめる。
(世界の危機だ)
(わかってるよ。わからないけど)
(世界はお前にかかっている)
(……わからんねぇ)
「先生。元気?」
突然亜月が優作にそう呼びかけたので、優作はもちろん、理一もどうしたんだろうと思いそちらを振り向いた。
「どうして? 元気だよ」
「彼女に振られたのかと思って」
「それ、古屋が言ってたのか?」
「え。どうして古屋くん?」
「藪蛇だった」
「?」
「いや、まあとにかく。元気だけど」
「わたし、実は特殊能力があって。今まで黙ってたんですけど」
(特殊能力)
「ほう。それは興味深いね。どういった種類の?」
「『その人が今、調子が良いか悪いかを、瞬時に見極める』という能力なんですけど」
(これが世界の危機?)
(お前の予測は外れる)
(だが小津野も特殊能力の持ち主なんだろう?)
(あるいは〈サイド・マウンテン〉というのもただそれだけのものなのかもしれないぞ)
(――単に”予測が甘い”だけ、みたいな?)
そうとは思えない。現に今、自分の目の前には化け物がいる。
「医療や福祉の方向に進めば有益な力だ」
「だから先生も、元気なさそうだなーって」
「そんなことはないけれど」
うーん、と、ちょっと頭を捻って、やがて亜月はこう切り出した。
「この間、お父さんが会ってきたって言ってて……それぐらいから元気ないな、先生、って思ってたから、お父さんが何か嫌なことでも言ったのかなって。お父さん割と自由人だから、いい人なんだけど、無邪気に傷つけたりみたいな」
「――ああ。それを気にしていたのか」事の詳細がわかって優作はホッとした。「大丈夫だよ。もともとここのところ気になることがあったってだけなんだ。智也くんに何かされたわけじゃないよ」
「ああ、気になることがあったんですね」
「藪蛇だった」
「わたしで良ければ。ぜひ」
「生徒に悩み相談なんて……」
ふふ、と、亜月は微笑んだ。
(……)
(さて、ここからっぽいな)
「……いや実は」
と、やがて優作は話をし始めた。智也とのことを心配してくれていたのだし、ここで何でもないと言ってしまう方が不親切だと思ったのだろうと理一は考える。
「はい」
「ぼく、兄貴がいるんだけど。そいつのことが気になっていてね」
「どんな人?」
「病気があって。精神の」
亜月は身構えた。
「病気があるんですね」
「ニートの引きこもりで。三年ぐらい会ってない。今は何をしているのか連絡を取ってないからわからないんだけど、向こうからも来ないし。まあどうせぶらぶらしてるんだろうけどね、成長も進歩もせずに。……みたいな。昔からトラブルメイカーで。まあ、病気だからそうなるのは仕方がないと言えばそうなんだけど」
心臓病の亜月は内心ムッとしたが、何とかセーブできた。
「それで」
「いや。それだけなんだけどね。いや、この間LINEしたら返事がおざなりっていうか」
「はあ」
「はい。おしまい」
(これ以上続かなさそうだけど)
(否定だ)
(先生も話したくない話っぽいし)
(それも、否定だな)
亜月がちょっと沈黙していると、するとやがて、優作は言った。
「いや。本当に、困ったちゃんの兄貴でね」
(話したかった話なのか?)
(さて。ここからどうなるか――)
「困ったちゃんって、先生自身、病気だから仕方がないって」
「いやあの、うん。それはそうなんだけどね。でもだからってこっちがいろいろ我慢しなきゃいけないっていうのは違うじゃない?」
亜月は少しずつ――イライラしてきた。
「それはわかるんですけど」
「うん、まあ。ずっとヒキニートで……本当は音楽がやりたかったらしいんだけど。もう四十過ぎだっていうのにね」
「……」
(小津野はイライラしているようだ)
(既定事項の否定は機能しないからな)
(キレるか? 何だかよくわからないけど)
(基本的には、外れだ)
「でも、この間もそんな話をみんなにしたけど。若い頃はいいんだよ。でも、大人になっていくにつれてそんな甘い夢見るのはやめて現実を生きろってただそれだけの話で。音楽なんてそんな凄いことができるわけがないんだから普通の仕事で普通に働けってね。その兄貴が連絡お座なりで、まあ、ちょっとイラっとして」
「”下”の者が歯向かうなんて許せない――って?」
あくまでも冷静な亜月の一言に、一瞬、場の空気が凍り付いた。
「――え?」
優作はやや呆けている。
(まずい。睨んでる? 先生がキレる――)
(どうかな)
「そういうことなんじゃないですか? 先生のお話伺ってるとそう思います」
理一の予測とは反対に、優作は教師として自分を律した。
「いや、ぼくは別にそんな。下とか上とか。家族だし」
「家族間にも上限関係はあるし」
「それは否定しないけど」
「でも、今の話だけ聞いてると、連絡がお座なりなのも分かる気がします」
「え。どうして」
「それは……なんていうか。”もう、いい”――ってなったんじゃないですか?」
亜月の言っていることがよくわからず、優作は質問する。
「何で? 何が?」
「いやだって、先生はお兄さんに、お前なんかにそんな凄いことができるわけがない、って言い続けて、その一方で、普通に働け、って言い続けたわけでしょう。それはお兄さん、矛盾を感じますよ。だってお兄さんにとってはたぶん”普通に働く”ことが”そんな凄いこと”なんだもの。長年ニートならなおさら」
(小津野もこういう目に遭っているのだろうか)
(あるいは――それは未来の話だ)
優作は反駁した。
「ぼくは、音楽なんてそんな、ってことを言ったのであって」
「そこは変換されちゃったんじゃないかな」
優作は何とかして反論したかったが、しかし、病気だから仕方がないということは同じように病気を患っている亜月に配慮がなさすぎるということにいよいよ気づき、さりとて智也の娘である以上迂闊に反発もできないし、なんといっても教師として教え子に“キレる”わけにはいかず、だから亜月の言葉をただただ受け止めるしかなかった。それでも何とかして反論してやりたかった。
「それならなおさら兄貴の妄想だ」
「でも一言頑張れって言ってあげてたら、それこそ”妄想”にならなかったんじゃないでしょうか」
亜月は必死で、かつ容赦がなかった。かつて雅哉が言っていたように女は容赦がないということだろうかと理一は思ったが、しかし、違う、それだけではないと思った。亜月には心臓の病気がある。これまで優作が言っていたことは全て結果的に亜月にとってのダメージになっている。亜月はそれと優作の兄を重ね合わせている。ここで自分が”負ける”ことは、それは自分の人生を諦めることになる――だから亜月は必死で、容赦がないのだと理一は思った。
しかし、優作は巧妙に論点をすり替えた。ように二人には映った。
「……頑張れって、プレッシャーにならないのかい」
だが亜月は食らいつく。絶対に逃すまいと。
「わたしが頑張りたいことに関しては頑張れって言ってほしいなぁ」
「難しいな。多様性なのはわかるけど」
「いえ」
気がついたら亜月は優作の瞳をこれほどかというぐらいまっすぐ見つめていた。その瞳を、優作は受け止めきれない――しかし、教師として、受け止めなければならないと自制する。
見つめ合い、そして亜月は言った。
「その人を見る、ってことです。今、その人がなにをやりたいと思っているのか。やりたいことは何なのか――それができないまま、もし、死んじゃったりしたら、ううん生きてても終わってしまったら、わたし、きっと自分が一体何のために生まれてきたのか、本当にわからなくなると思う――」
(これは……)
そこで理一は気づき始めていた。
(……お父さん……?)
ふと理一は春樹と、そして音楽のことを思い出していた。
〈サイド・マウンテン〉――横山。それは母の旧姓。
父には夢があって、音楽があって――。
それは世界の仕組みを丸ごと変えてしまうような。
……この机の言っている、世界の危機、というのは、つまり――。
(おいお前は)
しかし机は既に消えていた。音楽室には必死の亜月と、亜月を受け止めるしかないからこそどうすればいいのかわからなくなっていた優作の二人が理一には映っていた。




