第八話 忘らるる想い・5
「はい。じゃ、ちょっと待っててね」
「はーい」
都メンタルケア。検査室で看護師の留美が採血の準備をし始めたので、栄吉は、うう、と唸ってしまった。
「どうかした?」
「本当にもうね、昔から注射が苦手で」
「それは仕方がない」
「それはそう。そんなぼくを無視し、山崎さんはてきぱきと」
「仕事ですから」
ちょっとからかってみたくなって栄吉は切なげに言った。
「仕事かぁ」
しかし留美は動じない。
「いちいち動じてたらこの仕事はやっていけない」
「ああ、まあね。それじゃこないだの強盗事件のときも落ち着いていたのでしょうね」
「いや、パニックにはなったのよ? もちろん。でも、わかりやすくパニックになった子がいたから」
「子。あのニュースになった男の子?」
「そう。過呼吸になっちゃって」
「あらら」
「ま、小説もそうしなきゃダメなのよたぶん」
「いちいち動じずてきぱきと?」
「仕事ってなったら『仕事ですから』でまとめなきゃやってはいられない。そのとき、やりたいことであるとかやってて楽しいとかはもはや関係なくなるのよ」
「シビアでドライでリアルで」
「看護師はファンタジーな夢じゃなくて現実の中の夢だもの」
ふと気になることが出てきた。
「薬局の薬剤師さんもこれぐらい話せるといいんだけど」
「いつも言ってるけど、喧嘩になっちゃダメよ」
「大人ですから」
「不満に思ってる人ちらほらいるのも事実だけどね」
「ああ、やっぱりいるんだあの人。いやぁ、あの薬剤師さん、基本折れないのよね」
「そんな感じね」
「たぶん”相手を楽しませよう”という気がない。自分の主張を押し付けるばっかりで」
「例えば?」
「親は偉大。親は正しい。その前提を守りたくて仕方がない。医療関係者だっていうのに都先生の邪魔をしないでほしい」
「まあ精神医療が専門じゃないしな」
「でもま、”親”ってそうなんでしょうけど。彼女も人の子の親である以上、”親のありがたみ”を知ってしまった以上、もはや子どもの立場に感情移入はできないんでしょうけど」
「でもそれは木下くんには関係のないこと」
あれ、どこだったかな、などと言いながら留美はちょっと手こずっていた。
「相手の反応を見て自分の出方を変える、っていうことができてないんですよね」
「自分でコントロールできることを頑張りましょう。彼女はダメ」
「あの子もなぁ」
「まだ言ってる」
「恋は眠らない」
「それは分かる」
「アスペだからしょうがない、じゃなくて、こだわる子だからしょうがない、と捉えた方がいいんでしょうね。要するにぼくは情報処理の仕方が雑だった」
「その人を見る、ということね」
「”人間”として。”一個人”として」
「そ」
「――しかしねぇ」
ああ、あった、と、留美は探していたガーゼを発見してホッとした。
「それも、これも、あれも、どれも、飽きちゃったというか」
「飽きちゃったか」
「最近、とある俳優さん女優さんの事件が連日話題じゃないですか。アドリブでセクハラでトラウマでパワハラがどうとかみたいな」
「ああ、あれね」
「なんかもう世の中に飽きちゃった」
「何となく言いたいことはわかるけども」
「この事件そのものは新しいものとして、あーまたか……みたいな。まるで変わらぬ世の中に飽きちゃったのう……と」
「新しいニュースなのに、見えてくるパターンは古い。誰かが失敗して、それを過剰に叩かれて、そして擁護と批判に分かれて、しばらくしたらまた別の話題に移る……」
「そうそうそういうこと」
留美が道具を一式持って栄吉の方にやってきて、いよいよ採血の準備を始める。
「そういう繰り返しの連続で、それを何度も見てて、世の中変わらないな、って感じてしまうわけですよ」
「なるほどね~」
「引いては。なんというか、嫌なことや嫌なもの、例えば敵、あるいは仕事とか勉強とか、それこそ自分自身の内側から発生する問題とか……そういうものと向き合って、対峙して、勝利なり突破なり、要するにクリアすることで次のステップへと進んでいく……みたいなのに飽きちゃって。一難去ってまた一難、と、昔の人はいいことを言いましたが、それはそれとして飽き飽きしちゃいましてね」
「はい、いくよ」
と、留美は注射器を手に取った。
「うう。嫌だ」
「我慢だよ~で?」
「しかしそのやり方しかわからないから、仕方がないからこれまでのやり方でこれからもやっていくしかない……というのが、むう、みたいな」
「少し疲れちゃってるのは、”クリア”だけを目指してたからかな」
「ん?」
「だから例えば、ずっと戦闘だけをしてるのよ君は。敵に勝つことはできる。でも、街を歩いたり、意味もなく寄り道したり、景色を見たり、あるいは変なアイテムを集めたりする時間がないと、『このゲームって戦闘ばっかだな』ってなるわけ」
「さすがゲーマーおばさん」
「人間って意外と、“クリアすること”だけでは満たされないから。無駄なこととか、今の自分に必要のないこととかもしないと」
「あ~」
「いくよ~?」
留美は注射針を栄吉の腕に刺す。
「うう」
「痛い?」
「大丈夫。でもわかるよ山崎さんのおっしゃってること。要するにぼく、余暇の過ごし方が下手なんだな~」
「ただただYouTubeを眺めてるだけっていうのにも、そこから何か得られるものはないか? って視点で見たりね」
「有意義なことをしようと」
「悪くはないけども」
「音楽をざっと三十年やってましてね。本当に好きで好きで堪らなくて。おれは絶対にミュージシャンになるのだと」
「うん。いつも言ってたね」
「でも、もういいかなーと。いろいろあって。病気の件も絡んでてっていうのはあるんだけど。もういいかなって。今ではやる気も根性も情熱もありません。思い出に変わったかというと難しいんですが、再開することはないです」
「木下くんにとっては音楽があまりにも巨大な”遊び場”だったのね~」
「そう思います」
「”クリアする”ことだけが全てじゃないじゃない?」
「そうなの。上達するためには練習しなきゃいけないけれど――でも、根本的には”クリアする”ことじゃなくて、単に”やりたいからやる”だったの。そうねぇ。遊び場かぁ。そしてそれは小説とか別のことではちょっと代わりにならない」
「そこまで熱中できてたものがあったのは羨ましいけどね」
「恋でもしようかしら。あの子に会いたいなぁ……」
「わたしそこまで夢中になれる”何か”とは出会わなかったから、ちょっと羨ましいって気持ちもあるよ、木下くんに。”これだ”と思えるものが三十年もあったなんて」
「だからその後の静けさが妙~に広く感じます」
「はい、おしまい」
と、留美は絆創膏を貼った。
「どうもどうも」
「いえいえ」
「で?」
「いや、そうねぇ。余暇の過ごし方って言うけれど――木下くんの場合、一人で完結することじゃなくて、誰かと何かを共有することがいいのかなって。音楽とか。もちろん小説もばっちりね」
「確かに、聴いてもらう前提で作ってたし、読んでもらいたいと思いながら書いてますが」
「恋人が欲しいというより、また誰かと濃い時間を過ごしたいという欲求かもね――腕、大丈夫?」
「大丈夫です」
立ち上がりながら栄吉は言った。
「要するに視野が狭いのね、ぼく。”こう”って感じだもんね」
「木ばかり見てないで森も見ないとね」
「そうそう。なかなかいいことわざだ。じゃあまた後で、受付で~」
「はい。お疲れ様」
というわけで栄吉は待合室へと出ていくのだった。




