第七話 約千をこえて・4
「瀬戸さーん」
主治医の雪尋に呼ばれ、春樹は「はい」と返事をして診察室へと入っていく。
「どうぞ」
と促され椅子に座る。
「どうですか?」
と訊ねる雪尋、春樹は、
「今、忙しさのピークで」
「お疲れ様です」
「どうも」
「睡眠は?」
「少しは眠れるようにはなりましたが」もともと睡眠障害で春樹はここに来ていた。「一日、四時間ぐらいしか眠れなくて。それで休日に十三時間ぐらい眠るみたいな」
「薬の調整は」
「いえ。ぼくは素人ですけど、今はあまり変化がない方がいいです。ある程度会社の方が落ち着いたら、調整していただこうと思います」
ふう、とため息をついた春樹に雪尋はパソコンから目を離してそちらを見る。
「新山一斗の件は落ち着きましたか」
と言われ、複雑な表情になった。
「やはりだいぶ当てられています」
「そうですか」
「大学の、音楽サークルの後輩が、今になって全国区で活躍していて……最近は武道館ライヴの成功です。ぼくも音楽を少し夢見ていたので、やはりこう、ショックですね。おかげで不眠症が加速したところがあると思います」
「知り合いがスターになるというのは、ぼくには経験のないことですが、同じ夢を見ていた場合、何となくダメージの大きいことなのかなという気はします」
「ぼくも音楽を少し夢見ていたので」と、同じセリフを繰り返し、春樹は再びため息をつく。「ぼくももしかしたら彼のポジションにいたのかもしれないと思うと、やはり、諦めたとはいえ、諦められたとはいえ、ダメージなのは変わらなくて」
「音楽活動を再開する気はない?」
「それはありません」静かに、でもきっぱりと言った。「息子がいますし」
「高校生でしょう。もう少し待っていれば?」
「いえ。しません」
「そうですか」
「でも、あほらしい悩みだとは思っているのです」
「と、おっしゃいますと」
「新山が成功しているのは新山だからであって、誰も彼もがアラフォーで成功できるわけではない。アラフォーの感性で若い人に突き刺さるのはそれが新山一斗だからです。わかってはいます」
「ぼくの患者さんもそんなこと言っていましたね。ターゲットがどうとかマーケットがどうとか」
「その通りです」
「音楽好きのアラフォーに突き刺さるかと言えばそうでもないんでしょうね」
「そうでもないですし、主なマーケットは若い人たちですから。だから新山は凄いんです」
「昔から凄かったのですか?」
「昔は……こんなことを言っても何ですが、そんなことはなくて。でも二年前、活動を開始していたと思ったら、気がついたらすごい技術者になっていて、ああ、彼は二十年ずっと真剣に音楽と向き合い続けてきたんだなと思います」
「瀬戸さんは?」
「ぼくは”やめた”ので、もう技術も衰えました。最低限のギター演奏はできますけどとてもプロになれるレベルではない。もはや、ない」春樹は続けた。「後悔をしているのかと言えばそうでもないんですが。息子は、何だかんだ言ってかわいいですし、自分の命より大切なものができたのは、生きがいです」
「同じ人の子の親としてそれはわかりますよ」
「ただ、亡くなった妻のことだけが後悔です」
「息子さんが小さい頃にとおっしゃっていましたが」
「はい」ゆっくりと言葉を紡ぐ。「いつかまた音楽を夢見てね、なんて言っていましたね。でも、父一人子一人ではそんな余裕はないし、そんなやる気も根性もなくなったし。だからこそ妻のことが気がかりというか、彼女の夢を叶えてあげられなかった自分が不甲斐ない」
「とはいえ決心が揺らがない」
「音楽はやっぱり不安定ですから。ハードワークとはいえ、普通の会社員はやはり安定感が凄まじいですからね。音楽は人気商売で、水商売です。流れる水のごとく。ましてやこの年齢の自分に、守るものがありながらチャレンジするという覚悟はないし、そこまで音楽に対して誠実に向き合うことはできません。すみませんね。同じ話をぐるぐると」
「大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
ふと天井を見上げた。
「息子の……理一のことだけが心配です」
「親ですものね」
「そうです。ちゃんとした子で、しっかりした子ですが、しかしそういうことではない。まだ高校生の、未成年の、十代の子どもですから。しっかりしているとはいえ心配が尽きないことはない」
「わかります」
「彼もギターをやっています。というより、ぼくが教えたんですが」
「ギター親子なわけですね」
「なかなかの才能ではあります、が、じゃあスターになれるのかというと、親の欲目でなくともそこまでではないと思います」
「厳しいですね」
「珠枝としては……妻としては、天国で応援しているのでしょうけれど。いつか世界に届けてほしいと。でも、かつてのぼくほどの可能性が息子にあるようには思えない」
「ふむ」
「それでも、”やっている”というのは、可能性があるということでもあります」
「そうですね。人生は何が起こるかわからない」
「だからぼくに、可能性は、もはやない、というわけです」
「ロジカルですね」
「すみませんね。本当にぐちぐちと。ああ。新山に本当に当てられているようで……。まるでぼくの世界がやられているようです。いえ。まるでというか、実際にそうなのでしょうね……やや大袈裟な言い方ですが、奴が活躍すれば活躍するほど、ぼくの世界の危機という感覚を凄く覚えます。ああ。世界の危機といえば珠枝も生前、しょっちゅうそんなことを言っていましたねぇ……」
「なかなかファンタジーな奥様だったようですね」
「ええ。それはもう。例えば、彼女は、自分は、予測したことが必ず外れるという能力を持っている、としばしば言っていましてね――確か彼女はそれを自分の苗字から〈サイド・マウンテン〉と名づけておりまして……」




