第七話 約千をこえて・1
これはもう、人それぞれ考え方が違うと思うんですけど、おれは創作活動は質より量だと思ってるんです。
――量をこなすことによって質が上がっていく。
それにいろいろな曲を聴くことで、質のいい曲とそうでもない曲の区別を自分の中でできるようになるから、より質のいい音楽を意識的に聴けるようになる。そしたら当然、自分の創作の質も上がる、という好循環です。
朝。授業開始前。
何となく早起きしてしまったので早めに学校に来て仕事していたのだが、存外思ったより早く作業が終わり特にすべきことがなくなったので、何となく、優作は音楽室へとやってきていた。
「……」
航平の渚の絵の前に立ち、ぼんやり考える。
海川航平は知的障害があったぐらいだから、不便なこと、できないことが多い人生だったのだろう。
何ができて何ができないのか。どこまでができてどこからができないのか。そういった区別が、”普通の人”よりはっきりしていたのだろう。
それでいくと、例えばあの雅哉はできることが多いのだろうなと思う。知的障害ではなく、むしろ高い知能指数を示している。ペーパーテストの成績が良いだけではなく、とにかくあの子はいろいろなことが”できる”子だ。
うっかり取っちゃったんです。
中間テストの全教科満点という結果を褒めたらそんな風に言われた。”うっかり”というのがどういうことなのかはよくわからなかったが、しかし天才少年には天才少年の悩みがあるのだろうということは、別に高IQではなくとも成績のいい生徒に今まで何人も会ってきた優作としては実感のできることではある。
基準をズレている、というのは、それが”障害”ではなくとも、生きづらさを抱えることなのだろうと思う。
できることが多い故の苦悩、というものがあるのだろうと思う。それは凡人の自分には計り知れないことだが、教師歴十年として何百人もの子どもたちと出会ってきた優作にとっては容易く想像できることではある。
生きづらさで言えば亜月も相当生きづらさを抱えているだろうと思う。心臓に重大な欠陥があり、彼女の場合、できることが少ないというより、生活に制限がかかっている。
しかし迂闊なことをしたら死んでしまうかもしれない以上、制限がかかるのは致し方ないことだ。
特に親としては、嫌でもそうしてしまうだろうというのはわかる。
考えてみれば剛の弟も生きづらさを抱えているだろうし、それを言うならきょうだい児の剛自身も相当な生きづらさを抱えているはずだった。重度の発達障害があるそうで、それこそ、できないことも多いだろうし生活の制限も多いのだろう。
みんな何らかの生きづらさを抱えている。
それでも、それは何かを諦める理由にはならない、ように思う。
「……」
何かが引っかかる。
特性によってできないことがあり、病気によってできないことがある――。
でも、雅哉も亜月も剛も、もし何かやりたいことがあるのであれば、それができるようになったらいいなと教師として思うし、何か夢や目標があるのであればぜひそれを叶えてほしいと思うし少なくともチャレンジぐらいしてみたらいいと、大人としてそう思う。
「……?」
先日から何かが引っかかっている。しかし何が引っかかっているのかよくわからない。
――しかし優作の無意識ではそれが”何”なのか、はっきりわかっていた。
だがそれが彼の意識に上ることはなかった。
「あ、優作先生。おはようございまっす」
と、そこにやってきた純輝に、優作は挨拶する。
「やあ猪瀬。早いね」
「早く起きちゃったから、練習しに来ました」
「いいね。青春だね」
青春。
本当は音楽の学校に行きたかったのよね。
なぜ兄のかつての言葉が浮かんできたのか、優作にはよくわからず、そのうち純輝がアンプにベースを繋げてちょっと聴いてくださいというので、教え子が一生懸命音楽をやっている様を見て、青春はいいねぇと思う優作なのであった。




