第六話 あらわしながら・4
「こんばんはぁ。あきなでーす」
と、航平が「この子がいい」ということでやってきたキャバ嬢がそのように自己紹介したので、航平は、
「航平ですっ」
と本名を名乗ってしまったので、家族三人は渋い顔をした。史生と母親はキャバクラのシステムを直前に知ったのだが、それが航平に伝わるはずもない。母親は母親で父親が”暴走”する可能性を確信していたので絶対に彼に酒を飲ませないように、とにかく今日は特別な一日であり例外的な一日であり、あくまでも自分たちは航平のためにここに来たのだと肩を組んでやってきたのだった。ちなみに父は飲みたくて飲みたくて仕方がない様子なのが二人にはよく伝わったが、彼の好きにさせるわけにはいかない。
「航平くーん」あきなはテーブルに着く前にオーナーから航平が知的に障害があるという情報を知らされていたので内心怯えていたが、しかし彼女もアルバイトとはいえプロの接客業者である。「よろしくね~。何飲む~?」
「コーラ!」
「あたしも頼んでいい?」
「うん! えーと、えーとね」
「? どうしたの」
「お父さんとお母さんとお姉ちゃんと、ハロー・ファクトリーの職員さんたちが、このお店の一番安いのを飲んでもらってって言ってたですぅ」
「あ。はい。わかりました~」
自分はキャバ嬢をあくまでも金のためにやっている以上より稼がなければならない立場なのだが、だからといって今は自分の客である以上、それなりの対応をしなければならないと今日の稼ぎを半ば諦めることにした。あきなはボーイにコーラと”このお店の一番安いの”を頼み、やがてそれが届く。
「じゃ、かんぱーい」
「かんぱーい!」
と、二人でグラスを合わせて、航平はコーラをちびちびと飲む。ちなみにこの間、他の家族はなかなか案外、物見遊山状態であった。
「キャバクラって初めて?」
というあきなに、航平は、うん、と頷く。
「かわいい女の子がいっぱい、ドレス着てパーティしてるってハロー・ファクトリーの職員さんから聞いて、ぼく、そんなところ行ったことないから、来てみたいなぁって思ってたですぅ」
「ハロー・ファクトリーって何?」
「ぼくのお仕事してる会社ですぅ。春雨とか、ビーフンとかを、こう、袋に詰めたりするです」
「ふーん」仕事中である。「すごーい」
「へへん」
あきなはちょっと悩む。何か話題を提供しなければならない。所詮コーラでももっと飲んでもらわなければ。しかし知的障害者などテレビやドラマでしか見かけたことのないあきなには結局のところ航平とどう接すればいいのかまるでわからなかった。でも自分はプロである。キャバ嬢という仕事に別に愛着など抱いてはいないが仕事は仕事であり、仕事中なのだから。と、ふと航平のショルダーバッグに目をやる。
「そのバッグ、何入ってるの~?」
「えっと」と、航平はバッグの中からスケッチブックとジュラルミンの筆箱を取り出した。「スケッチブックと筆箱です」
「え。絵を描くの?」
「そうですぅ。絵を描くです」
「へー」この際、絵でも描かせて大人しくしてもらってるかと思い、あきなは言った。「じゃ、あたしのこと描いてくれる?」
ちょっと考え、航平は、
「うん!」
と満面の笑みで応えた。
そしてスケッチブックを開き、筆箱から2Bの鉛筆を取り出し――それはもう凄まじい速度であきなの絵を描き始めたので、あきなはちょっとびっくりする。もっと落書きみたいなのを想像していたのに、これは、なかなか、速い――絵のことなど何もわからないが、絵を描いている最中の航平の目は直前までのそれと大いに違った。真剣そのものの表情で自分とスケッチブックを交互に見る航平に、これはちょっと、なかなかいいものができるんじゃないかとちょっぴり期待する。でもあくまでちょっぴりである。所詮、障害者の絵だ。
やがて絵が完成したようだった。
「できたっ」
「見せてー」
「はいっ」
と、ページを見せる。それは――。
「えっ」と、あきなは驚愕と、興奮と、感動を覚えた。「凄い! ていうか、こんなに美人に見えてるの!? あたし!?」
「あきなちゃんかわいいですぅ」
「凄い……ていうかうまいっていうか、凄いなこれ。これ! あたしもらってもいい?」
特別、絵に興味があるわけではないが、これはなかなか宝物にして友達たちに見せたいという欲求が芽生えたのだった。
「うん!」と、航平はページを破ってあきなに渡した。「はい!」
「ありがと~! へえ、凄ーい。本当に、っていうか、あたしこんなに美人じゃないよ~」
「あきなちゃんとってもかわいいですぅ」
「そう~? ありがと~!」
ところでこの間、他の家族たちはただただ航平とあきなの様子を観察する一方、「あー飲みてぇ」「あなた」「嘘だよ。冗談に決まってるよ」「でもこういうお店って新鮮だな」などと雑談に集中することにしたようだった。
「――というわけで、おしまい」
史生が唐突に話を終えたので、航也はちょっとずっこけた。
「それだけ? フォレストはどこから?」
「たぶん、そのあきなちゃんって子と、何か会話して、そこからなんだろうな~っていう気はするんだけど」
「ふーん。おいお前、あきなちゃんは可愛かったのか? え、どうなんだよ」
と、航也が墓石を小突いたので、史生は笑ってしまった。
「で、その後は?」
「数週間後にもう一度行ったのね。あきなちゃんにまた会いたいって言って。それでまた行ったんだけど、もう辞めちゃってて。お金が貯まったからってことらしいんだけど。それでなんか、それっきりキャバクラに興味示さなくなって」
「ふぅん」
「でもねぇ……あの子の部屋の、ゴミ箱がねぇ……やたらとね」
「ゴミ箱がどうしたんだよ」
言いにくいことだったがうっかり説明を始めてしまった以上ここで止まるのは不親切だと思い、史生は答えた。
「ティッシュペーパーがやたらと」
「――ああ」
「そういうこと」
墓石を見つめる。
「お前も男だからなぁ。しょうがないなぁ、お前は。会えない子を想ってなんて、それはとってもいけないことなんだぞ~?」
「ふざけない」
「ごめんごめん」素直に謝る。「……でも、こういうことって、ちゃんとしなきゃいけないことではあるんだよな」
「それは思うけど、でも例えば福祉士としてはどうすれば”ちゃんとしている”ことになるのかがどうしてもわからない。家族としてはいよいよわからない」
「考えなければならないことではあるが」
「……そうなんだけど」
と、史生が何かを言い始めたので、航也は耳を澄ます。
「うん」
「七十年代のドラマなんだけど『車輪の一歩』っていうのがあって。山田太一脚本」
「そりゃ名作なんだろうな」
「障害のある人がテーマの話なの。そのドラマに出てくるのは車椅子利用者なんだけど」
「へえ。それじゃ、もしかしたら、障害者の性の問題とかも扱ったり?」
史生は頷いた。
「今から五十年前にとっくに”考えなければならないこと”として問題提起されていたことなんだよなぁって、あたし、福祉士としていろいろ考えちゃった。だから――わたしたち、半世紀も、たぶん今後も、ずーっと出発地点をうろうろしているんだな、って……」
「……」
「……」
二人で黙り込み、やがて航也は墓石をポンポンと叩いた。
「ま。お前はイケメンの芸術家だ。あっちで彼女、紹介してくれよな」
そんな弟の親友の様子を見て、本当に、もっと生きていてくれたら良かったのにな、と、つくづくそう思う史生であった。
……その日のキャバクラで、史生には見えていなかった出来事があった。
「あきなちゃん、苗字は何て言うの?」
「え、苗字?」
すっかり仲良くなっていた二人であったのだが、航平のその唐突な質問にちょっとあきなは手こずってしまった。参ったな、苗字まで設定してなかったんだけど、などと言いながら、どうしようかな、と考えた。
「? ぼく、海川航平って言うですぅ」
「それ本名なんだろうね~」
「? はいですぅ」
「えーと、あたしは……」そこで「あきな」という名前から連想される苗字をと考えたらこれが出てきた。笑顔で“自己紹介”する。「中森あきな」
航平は芸能界に興味がない。
ぱぁっと顔を輝かせた。
「中森さんっていうんだぁ」
「うん。中森。フォレスト。You can't see the forest for the treesの森」
突然英語が出てきたので航平はしどろもどろになった。
「う、うん? うん? え。え」
「”木を見て森を見ず”っていうの」
「えーすごーい。あきなちゃん、英語が喋れるんだぁ」
「ことわざの英語バージョンを調べるのが好きだったりして。日に日に忘れていくがね」
「へえ。すごーい。すごーい。で、どういう意味?」
「え」
と、考える。木を見て森を見ず、とはどういう意味か……。
「えーとねぇ。一つのことばかりに、注目してちゃダメで、もっと全体を見なきゃ、ダメだぞ~っていう」
「?」
「だから、そうね」考え考え、考えたが、ついに出てきたのはこの説明だった。「広ーい気持ちでいようみたいな」
「広ーい気持ち……」
「そうそう。広ーい気持ち」
「……ふーん」
果たしてことわざの意味が誤って伝わってしまっただろうかとちょっと悩み始めたところで、航平は満面の笑顔になった。
「あきなちゃんも、お姉ちゃんも、お父さんも、お母さんも、ハロー・ファクトリーの職員さんたちも、みーんな、フォレストですぅ」
「そうそう。フォレストなの。そうなのよ」
「わーいわーい。フォレストですぅ」
と、ちょっとした盛り上がりを見せ、やがて再び航平は絵を描き始めるのだった。




