第三話 素晴らしき「カタ」の世界・4
木下栄吉、四十二歳、男性。精神の病気を患っており、現在は就労支援A型を利用している。
中学生の頃、とある出来事で教師とトラブルになり、そのまま不登校になり、そして精神科に通院する日々が始まる。
定時制高校に進学し、卒業し、コンピュータ系の専門学校に入ったが、再び教師とのトラブルが発生し、退学。父親の古い友人だという教師がやたらと構ってきたのが原因だった。
その後二年ほどフリーターを続け、退職。そのタイミングで当時子どもの頃から通っていた精神科を主治医とのトラブルにより唐突にやめ、そしてその後十三年間、無職。
”先生”という人物とトラブルになることが人生の分岐点となる子ども時代だったな、と思う。
とにかく、これが、血族の誰もが認識している栄吉の歴史である。
その間、栄吉は、教師や医師といった人物に対して特に憎悪の感情を抱いたことはない。もう二度と関わりたくないと思っているのは歴然とあるが、しかし一切の感情を抱いていない。
栄吉は親を憎んでおり、家族を憎んでおり、“血族の連中”を、憎んでいる。
理由は単純だった。
――不登校になったときから誰もぼくを見てくれなくなった。
本当はずっと音楽の学校に行きたかった。二十四歳のときに当時勤めていた料亭の皿洗いというアルバイトを辞め、そのとき親にそれを申し出た。しかし断られた。
それは要するに、「お前なんかにそんな凄いことができるわけがない」というのが理由だった。
だからそのまま引きこもりになった。栄吉には音楽以外にやりたいことなど何一つなく、さりとて家出をする度胸もなかったからだった。
そしてその二年後、二十六歳。
”ある事件”が発生し、急性一過性精神病性障害を発症する。
もともと精神科に偏見自体はなかったため、自ら親に精神科に連れて行ってくれと言った。とにかく話を、それも傾聴のプロに自分の話を聞いてもらいたかったのだ。そして診てもらったらそのまま入院となった。
むろん幻覚、妄想に支配されていた栄吉だったから、それを拒絶したが、親が止めてくれなかった。だからそのまま入院することとなった。
結果的には実際に病気だったわけだから入院が何よりも大正解だったのだが、それはそれこれはこれだった。そのときから栄吉は親を諦めることにした。人生最大の危機において自分を助けてくれなかった。入院自体が大正解であっても、それはそれ、これはこれであった。
そして一ヶ月で退院し、そして紹介された都メンタルケアへと通院を開始する。
その二年後、母が死んだ。
確かにもともと乳癌を患ってはいたのだが、自分のせいなのかな、と、栄吉は何となく思い続けている。死の数ヶ月前、「本当は音楽の学校に行きたかったのよねぇ」という話を何気なくしたのがその理由だった。
そしてその四年後、今度は父が死んだ。
確かにもともと肝臓の病気を患ってはいたのだが、栄吉はこれも自分のせいなのかなと思う。その父とも亡くなる数ヶ月前に母にしたのと同じ話題をしたからだった。
本当はやりたいことがあったけれど、自分たちがそれをやらせなかったことで、息子がニートになり、精神病になってしまった――という現実を、自分たちの罪を目の当たりにしたからなのかなぁと栄吉は思う。
そしてなかなかの遺産を手にし、「本格的な」自宅療養を始めた。
親がいた頃はとても療養どころではなかった。
三十二歳で両親どちらもいなくなり、その二年後ホテルの清掃という仕事を始めたのだが、腰を痛めて二ヶ月で辞めてしまった。発病のきっかけとなった”ある事件”のことを考えた結果、辞めることにした。上司に、長期間休むことはいいのだがそのまま辞めると言われる方が困ると言われたので、辞めることにしたのだった。
簡単に辞めてしまったなぁ。いい職場だったのになぁ。と、栄吉は後々自分の病気を恨むようになるのだった。
そして再び無職になりその数年後、コロナが発生したので、恐怖を感じてそのまま無職生活を続けた。
でも、単純にまだ働きたくないと思っただけである。
そして三十七歳。金が尽きた。
というわけで主治医の雪尋に障害年金の申請を勧められ、その審査が通った。
だから何となく栄吉は、これは自分が本来もらうお金ではない、という意識がずっとある。
自分はズルをしていると思っている。
だから、いつか完全に自力で金を稼ぎたいと、思っている。
やがて栄吉はスーパーの朝の品出しというアルバイトを始める。
全然”うまく”働けなかった。しょっちゅう休んでいた。しかし店長や副店長、並びに同僚がみんな親切な人たちばかりで、何とか半年間続けることができた。半年間続けることで、こんなに働けるのならずっと音楽と並行して夢だった介護の仕事ができるのではないかと思い、老人ホームに勤めることになった。
計画性がないなぁと思う。いいバイトだったのに。
とにかく念願の介護の仕事を始めたのだが、当時世話になっていたサブリーダーの中年男性を栄吉は”怖い”と思ってしまった。親切な人間ではあったし、栄吉自身それはよくわかっていたのだが、しかし感情は止められない。
相変わらず休みがちだったのもあり、そして、夢が現実になることでこんなイレギュラーなことしか起こらない仕事は自分にはとても向いていないと思い、ずっと夢だった割には半年間で辞めてしまうのだった。
そして就労支援A型を利用することになる。
母が亡くなった二年後に就労支援B型に通っていた。当時、週二で半日がいっぱいいっぱいだったのだが、一年半勤めることで週五で四時間フルということができるようになったのだった。しかしそこで利用者の少年と喧嘩をし、そのまま辞めることになった。
あのまま勤めていたら、そのまま障害者雇用で一般企業に勤められたのかなぁと今でもちょっとだけ思う。
とにかくA型を利用することになる。
そこの仕事内容はパソコン事務だった。
そこで、恋をする。九つ年下の男の子だった。つまり栄吉はゲイである。
ひょんなことから仲良くなり、友達になり、連絡先を交換し、あるとき一緒にご飯を食べに行こうという話になり、そしてそのまま家に招き、本棚に並べていたLGBT関連の書籍を見せてカミングアウトしたら彼はパニックになった。落ち着かせベッドで二人で寝転び、そして不意を突いて栄吉は彼にキスをした。そしてそのあと約束であった散歩に出かけ、気まずい状況の中時間だけが流れ、そして栄吉のカミングアウトから七時間後、彼は、自分も男の子が好きだということを栄吉に告げた。つまり彼もゲイであった。
というわけで、自分をゲイだと自覚し始めた中学生の頃から、「たまたま好きになった人がたまたまゲイだったらいいなぁ」という想像をしていた栄吉はその夢が現実のものとなり、舞い上がった。
一緒に風呂に入り、つまり全裸になり、そしてそのままベッドで横になり、彼がなかなか眠れないというので、「じゃあ、セックスしてみようか」と呼びかけ、そしてセックスをしようとした。「それは”した”ってことだよ」と雪尋は言っている。つまり栄吉と彼はセックスをした。
そして舞い上がって、混乱し、我を忘れた栄吉は、彼に愛の告白をしたが、彼はうんともすんとも言わない。それも彼が抱えている障害の影響もあるのだろうかと何となく栄吉は思う。
とにかく栄吉は、狂った。
こんなにお前を愛しているのにどうしてお前は何も言わないんだ。
彼を責め立てた。もうやめてやればいいのにというほど責め立てた。酷い言葉を投げつけた。もうやめてあげればいいのにというほど、責め立てた。
やがて彼は、折れた。こうすればいいんでしょ、と言わんばかりに、栄吉の言うことに素直に従った。
二人で愛を語ったつもり。
そして就寝し、朝を迎えたら、気まずくなった。あるあるのパターンだと今の栄吉は冷静に思う。そしてそのまま別れ、そしてその日、LINEの返信がいつまで経っても来なかったことでパニックになった栄吉は、何とたまたま近所に住んでいた当時勤めていたA型の職員の家に押しかけ大いにパニックになった。玄関で、「あいつ死んじゃうのかな」と喚いたら彼女に宥めてもらい、そのまま落ち着きを取り戻した。
とんでもないことをしたと思う。そのことは。
そしてその翌日、仕事を休んだ。彼から反応がない状態で彼と会う勇気がなかった。すると自分が就労支援を利用するに当たって関わってくれている相談員が施設長を連れて自宅へやってきた。栄吉は昨日の件についてクビを覚悟したが、施設長はプライベートなことだからとその職員と自分とのトラブルは不問になった。そして事情を説明した。すると彼女はプライベートなことだから何もできないと言って、つまり彼に直接働きかけるということはしてくれないんだなと栄吉は思った。それはそうだと思った。
だから、話も聞いてくれないんだな。
そして数日間苦しんだ中、普段関わっている地域活動支援センターすずかけの臨時職員であるゆかりに話を聞いてもらった。いつものように。
でも、助けてもらえなかった。自分の手に負えないから、というのがパニックの栄吉にもよく伝わった。同じく施設職員の澤部にも助けてもらえなかった。
だから都メンタルケアの看護師である山崎留美に電話で相談をしたら、そしたらあっさり救いが得られ、完全に我を取り戻した。
というわけで翌日、出勤すると、彼の上履きがなくなっていた。ちなみにその時点で彼はLINEのアカウントを削除してしまっていたのだが。
自分のせいで辞めたんだ、と思った。
だからそのまま栄吉も辞めることにした。なぜなら彼がいなくなったと思ったからだった。しかし退職手続きをしている中、彼が退職したのではなく休職しているだけだということを知り、しかし今さら手続きは止められず、そのまま辞める羽目になった。職員二人は、自分が何に悩んでいて何を困っているのか、を、わかった上で、結果的に栄吉を見捨てた。そして「あの子がいるなら辞めなきゃ良かった」と捨てゼリフを吐いて、辞めた。そして彼の職場仲間である親友の少年に電話番号を預かってもらうということがなんとかでき、そのまま帰宅。
そしてショックとパニックで本格的に自殺を考えたのだが、そこも留美へギリギリのところで助けを求めることができ、救われた。そして薬の量が増えた。これってあの職員二人を傷害罪で訴えれば勝てるのかなぁと栄吉はぼんやりと思うことがある。そんなことはしないけれど。なぜならもう二度と関わり合いになりたくないから。近所だからたびたび運転中の彼女の姿を見かけることがあるが、もう、いい。
というわけで、その後、改めて栄吉は再び別の就労支援A型を利用することになる。今度は弁当工場で弁当箱に具材を詰めていくという仕事である。仕事は大変な肉体労働だが自分に合っていると思う。人間関係にも恵まれている。ここなら大丈夫だろうかと思った。
しかしこの働き始めてからの五年間の間に、血族の連中の言うように「普通の会社員」というものを実際にやってみて、やっぱり自分には合わないということがわかり、だからこのA型でも休みがちなのは止まらなかった。それでも辛抱強く施設長たち職員が付き合ってくれている。というわけで結局栄吉は今の職場に一年半以上も勤めることができている。
ここまでが栄吉のこれまでの歴史である。
木下栄吉、四十二歳、男性。精神の病気を患っており、現在は就労支援A型を利用している。
親を憎んでいる。
もともと音楽を夢見ていたが、現在は小説家を目指している。
好きな男の子がいるゲイで、そしてごくごく普通の中年男性。
栄吉は自分のことをそんな風に思っている。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
――それがこの「普通の会社員」という日々を過ごして獲得した、自分自身のありのままの姿であった。
いつか小説家になれたらいいなぁ。
いつかあの子がぼくに会いに来てくれたらいいなぁ。
ただただ、そう思う、そんな普通の人間が、栄吉であった。




