真刀と豪六(幕間)
リエは憔悴しきっている。
あの主要港で、真刀が目の当たりにした現実は恐ろしいほどどろどろとした人の肉の色をして、リエを飲み込もうとしているようだった。
「真刀」
リエが部屋へと籠もってから、ただ呆然と立ち尽くしていた真刀に豪六が声を掛けた。
無言でこの場から離れるように促され、リエの消えた部屋を一瞥してから豪六と共に縁側を進む。
この豪六の隠居屋敷にくるのは久しぶりだ。
リーエが普通の学生として生活したいと望み、鼎がそれを受け入れ城ではなくリエの家で暮らすようになってからは、一度もくる機会はなかった。
それまでは、城との距離も近いこともあってちょくちょく顔を見せてはいたのだが。
その度に豪六が尋ねる「りっちゃんは元気か」の言葉に、「恐らく」と答ええていた。
真刀がリーエの護衛に就任してから、リエと会うことはなくなった。
リエが城通いをやめ、真刀もリーエにかかりきりになり、互いの時間が重ならないのだろうと、ただ漠然と考えていた。
真刀にとって、リエはそんな存在だった。
その程度、といえばそれまでだが、リーエとも両親とも違う、友達のようで友達とも断言できない、そんな曖昧な存在。
王族の護衛として育てられた真刀も、リーエに及ばないながらも狭い世界で生きてきた。
真刀の世界にあったのは、尊敬すべき両親と祖父、その弟子たち、時々垣間見る王族の人間だけだった。
リエは、そんな世界に外から飛び込んできた唯一の存在だった。
真刀にとってリエは、どこに位置させればいいのかもわからないような人間だったのだ。
それでも年が近いこともあって、真刀はリエとうまくやっていたと思う。
笑いあったり喧嘩しあったり、季節のイベントを共にしたりと、一緒にいる時間は決しては長くなかったが、それでも真刀とリエなりに穏やかな関係を築いてきたと思っていた。
それは、真刀がリーエに心を奪われてからも変わらないと、勝手に思い込んでいたことだった。
正式に護衛につくことで今までのように時間を取ることはないだろうが、城で会えば世間話をしたり、笑いあったりはするだろうと、真刀は漠然と考えていた。
しかし結局、リエは城通いをやめ、真刀との時間はゼロになった。
そんなものか、とどこかで思ったこともあった気がする。
その程度のものだったのか、と落胆したような気もする。
それでもリーエの傍で護衛として徹する日々に、リエへの小さな憂いを持ち出す暇なんてものはなかった。
だからこそ、再会したリエが自分に冷たく当たる道理が理解できなかった。
確かに王族であるリーエを連れて居候になるのは、リエにもそれなりの負担があるだろうと解っていた。とはいっても、それを決めたのは真刀でもリーエでもない。
真刀はどこかで、リエが昔と同じように笑って「久しぶり」というものだと、思い込んでいた。
「……リエは、どうなる」
リエに宛がわれた部屋から随分と離れた縁側で、豪六はようやく足を止めた。
ここの庭は竹林になっていて、邸の人間も早々足を運ばない。
それが解っているからこそ、豪六は真刀をここへ連れてきたのだろう。
豪六の朝陽に輝く頭部を見つめながら、真刀は小さく問うた。
――どうなる?
どうなってしまうのだろうか。
リエも、リーエも。
主要港で、鼎の車から聞こえてきた悲鳴が、真刀の鼓膜にまだこびりついていた。
そうして飛び出してきたリエの姿を、真刀はきっと一生、忘れられない。
「……お前、まだ気付いてないのか」
真刀の問いとは全く関係のない言葉を、豪六は呆れたように吐き出した。
「……なににだ」
まるで馬鹿にされているようで、真刀も思わず硬い声で返す。
「りっちゃんがどうして城に現れなくなったか、だ」
豪六は振り向かなかった。
それはまるで、後ろ暗いことを暴露するような、そんな雰囲気がある。
いつも必要以上に感じる大きな背中が、今は何故か縮こまって見える。
そんな豪六を見たのは初めてだった。
真刀は今からとてもいやなものを聞かされるような気がして、口を開いた。
「そんな昔のことより、今のことを――」
「だめだ」
真刀の言葉を、豪六は強く遮った。
竹林の笹が擦れて、真刀の心情を表すようにざわざわと鳴る。
「……お前にこれを言うのが正しいのか、悪いのかは、頭の悪いわしには判断できん。ただ、わしが自己満足するだけの懺悔にしかならんかもしれん。それでも、……お前だけは、ちゃんとりっちゃんと向き合ってくれ」
声が震えていた。
その名の通り豪胆な祖父が、まるで怯えているように。
豪六は淡々と語った。
あのとき、表情や感情の乏しい真刀を、繊細な女性であるリーエの護衛とすることに危機感を抱いていたこと。
護衛になったところで、果たしてリーエの意を汲み、その通りに動き気遣えるかという問題があったのだ。
そこへ丁度、真刀と同い年の庭師の娘が現れたこと。その娘を利用して、真刀に人との関わり方を教え、リーエの護衛に相応しい機微を身につけさせようとしたこと。
だからこそ、鍛錬よりリエとの時間を優先させていたこと。
そして豪六と周りの策略通り、真刀は人への気遣いを覚え、よく感情を露にし、以前よりずっと人間らしくなったこと。
思った以上の成果に、真刀の両親はそれこそ諸手を挙げて喜んでいたこと。
そして真刀は、周囲も驚くほどリーエに傾倒し、尽くすようになったこと。
「……だからなんだ」
豪六の話を聞き終わっても、真刀には祖父がなにを言いたいのか判断できなかった。
確かに、リエと出会う前の真刀はまるで機械のようだったとは思う。自覚があるとか以前に、周りに散々指摘され続けたことだった。
ある種の閉鎖空間で、幼い頃からの鍛錬の日々、一般人とは一線を画す王族に代々仕える家に産まれた宿命として、真刀はただ淡々と生きていた。
そんなときに飛び込んできたリエは、確かに真刀にとって新鮮な存在だった。
少し冷たくすれば傷ついた顔をして、転んで怪我をすれば痛いと泣く。仕方なく立たせてやれば、ありがとうと笑う。
そんな当たり前のことを真刀に齎したのは、リエが初めてだった。
宿題を一緒にやったのも、庭の大きな池で石を飛ばして遊んだのも、迷宮のような城を一緒に探検したのも、リエがいたからできたことだ。
自分と同じく他人が体温を持ち、自分と違ってとてもか弱い生き物だということを、真刀はリエから学んだ。
だからこそ、真刀はリーエに恋をしたのだろうとも、なんとなく解っている。
その頃には真刀は一般的な感情を身につけていて、それなりの人間らしさを
持っていた。
「……りっちゃんは、練習台だった」
豪六の言葉に、真刀は眉間に皺を寄せた。
練習台、という言葉が、真刀の中のリエには当てはまらなかったからだ。
練習台もなにも、真刀がリエと関わった時間は嘘ではない。
そのときは、真刀も全力でリエという人間と関わって、だからこそ機械のようだと言われた自分が喧嘩をしたり笑いあったりするようになったのだ。
真刀にとってリエは、あえて言葉にするなら友達で、練習台では決してない。
だからこそ、豪六が何故そこまでの悲壮感を持ってリエを練習台呼ばわりするのか理解できなかった。
「なにもかも、りっちゃんに丸投げして、わしは最終的に、あの子を傷つけた」
豪六の言葉に、真刀はようやく気付いた。
「……リエに、そのことを話したのか」
ならば、城に通わなくなったことも頷けるような気もする。
自分が誰かの身代わりとして練習台にされていたとあっては、それがどういう理由からであろうと不愉快だろう。
(……本当に、それだけか?)
己の預かり知らぬところでリエが傷ついているような気がする。
(考えろ)
それでも、真刀が考えても答えは出なかった。
「りっちゃんは自分で気付いていたよ。わしが謝罪に訪れても、会ってはもらえなかった」
真刀がリーエの護衛就任につく際も、遠目で見ていたらしい、と豪六は言った。
そこで全てを、悟ったのだろうと。
〝――そうなったら、私は本当に、ただの日陰のリーエだな〟
リエの痛々しい独白が蘇る。
真刀の練習台として使われたリエ、今はまだ公の場に姿を出せないリーエの影武者をしているリエ、鼎にリーエと名前が似ているからという理由で蹂躙されたリエ。
考えて、真刀は胃が引っくり返るような不快感を感じた。
リエは、リーエではない。
それは解りきった事実だ。
リエの髪は確かにリーエと同じ色をしているが、それ以外は似ても似つかない。
だが、周囲の扱いはどうだ。
まるでリエとリーエを混合しているかのように扱ってはいないか。
いや、リエをまるでリーエのための贄にするように、軽視している。
〝私の赤毛は、誰から引き継いだものなの。どうしてこの国の王妃であるリーエと同じ髪をしているの。私は、……私は、一体なんなの〟
消えそうな声で囁いていたリエの言葉が、真刀の脳裏にじわりと滲む。
(リエと、リーエは……)
〝鼎は、私を生まれながらにしてリーエの影武者だと言った。それはつまり、私は、リーエの身代わりになるためだけに、生み落とされた存在――〟
昔、些細なことで喧嘩をして真刀の頬をひっぱたいたのはリエだ。
真刀が一目で心を奪われたのはリーエ。
真刀が護衛に就任してから、全く姿を現さなかったのはリエだ。
鼎の不誠実に傷つき、真刀に縋ったのはリーエ。
再会した真刀に冷たくあたったのは、リエだ。
――真刀の前で、真刀の想いを肯定して泣いたのは、リエだ。
「お前を人間にしてくれたのは、誰だ」
豪六の言葉が、真刀の心臓を貫いた。