6
「何か用か、おっさん」
パルは一歩前に進みソラを背に庇うようにして立つ。
何事かと周囲の空気も騒然としたものに変わっていく。
「って、あんたこないだの泥棒じゃないか!」
パルはその事実に気付いた。
パルたちの前に立ち塞がったのは先日パルが捕まえた泥棒その人だったのだ。
「脱走までしてこんなところで何やってんだ!」
虚ろな目と生気を感じさせないその表情。
わずか一〇日ほど前に見たばかりだがそのあまりの変貌ぶりにパルは驚きを禁じ得なかった。
「フォルトゥナ……オプティムス……」
「は?」
「守れない……償わない……許せないっ」
「何を言ってんだ?」
男はパルの言葉に反応しない。ぶつぶつと言葉をつぶやき続ける。
「脱落者! ソラ=セレセス!」
その声に急に力がこもった。同時に彼の放つ殺気が膨れ上がる。
「ぶっ壊す!」
その言葉を合図に男が両腕を振り上げて二人に向かい突進してきた。
「ソラさん、下がって!」
男の動きはその体格からは想像できないほど素早かったが、パルは男の身軽さをよく知っていた。パルはソラを後ろに押しやって冷静に男が接近してくるのを待つ。
「はっ!」
タイミングを合わせて両手で男の袖口と胸倉を掴み手前にそれらを引っ張ると同時に足払いをかけた。
男はほとんど自分の勢いによって空中で一回転し背中から地面に衝突した。
「ぐうう!」
男がくぐもった声をあげる。
パルは即座に男をうつ伏せの体勢にさせその腕を捻りあげると、背中を片膝で押さえつけ拘束した。
「うううう! があああ!」
しかし、男の動きは止まらない。
まるで痛みなど感じていないかのようにがむしゃらに暴れ続ける。
「お、おい! それぐらいにしないと腕が折れちまうぞ!」
パルは忠告したがそれでも男は抵抗をやめなかった。
男の動きに合わせてミシリと骨の軋むいやな感触が手に伝わってくる。
まともじゃない。
パルの背中を冷たいものがつたっていく。
「ぐおああああ!」
男がまるで獣のように咆哮した。
「離れて! 危険だわ!」
ソラの緊迫した声がパルの耳に届いた。
パルがそれに反応しソラの方に視線を向けた瞬間、パルの体を強烈な圧力が襲った。
「うがっ!」
声を上げることもできずに吹き飛ばされると周囲を囲む商店の壁に叩きつけられた。
身体を襲った衝撃に一瞬呼吸が止まった。喉の奥から苦いものがこみ上げてくる。
そのまま地面に崩れ落ちそうになるのを、右ひざと手をついて何とか堪えた。
強く頭を振って正気を無理やりに取り戻すと顔を上げて男の方を確認する。
そして、パルは眼前で起こっている事態に目を見開いた。
男の全身から黒く禍々しい光が溢れ出ている。
光はまるで霧のような細かい粒子なって空中へと立ち昇り、男の頭上で収束して小さな子供程度の大きさの球体を形成していた。
男の後ろに視線を移すとソラが唖然としているのが見えた。
特に怪我をした様子はない。その意味でパルはとりあえずホッとする。
どうやら自分は男を挟んでソラとは逆方向へ飛ばされてしまったようだ。
「うがあああああああ!」
男がもう一度絶叫した。それは、鋭い痛みに耐える断末魔ともいえるような響きだった。
男から吹き出す光の勢いが一気に増大する。頭上の球体もさらに速度を上げて膨張していく。
「何だってんだ、一体?」
パルは商店の壁を支えにどうにか立ち上がると半ば呆然としながら呟いた。
球体は拡大を続け、やがて臨界点を迎えた。
男から発せられた光をすべて吸収し終えると今度は強烈な突風をまき散らしながら爆発する。
パルもソラも周囲で状況を見ていた通行人たちも。その全てが風の勢いに思わず目を瞑り顔を背ける。中には耐え切れずにひっくり返る者もいた。
突風が通り過ぎた後、辺りを支配したのは打って変った一時の静寂であった。
皆が皆、何が起こったのかもわからずゆっくりと目を開け男の方へと視線を戻す。
「はあ?」
その中の一人であるパルの口からはそんな間の抜けた言葉しか出てこなかった。
巻き起こされた砂埃が徐々に晴れていく。
それにつれてパルのそして周囲の人々の目に入ってきたのは――。
異形。
そうとしか言い様のない存在だった。
二階建ての建物ほどもある巨大な体躯。細長い四肢が一応はついているが頭部がない。
その体表は深い黒一色。インクを溶かした真っ黒な液体が固まってできたような外見だ。
まさかおっさんが変身した?
などという荒唐無稽な想像が一瞬頭をよぎるが男は怪物の足元に立っていた。動くことも吠えることもなくただ呆然と立ちすくんでいる。
怪物はゆっくりと両の腕を振り上げると
「グオオオォォォォ!!」
身体全体を震わせて地鳴りのような低い声を発した。
本当に地面が揺れているような振動を感じた。足がすくむ。自分の心に手を突っ込まれてかき回されているような恐怖を感じる声だ。
そして怪物は振り上げた手を近くの建物に向かって振り下ろした。
巨大な手は建物に易々とめり込むと轟音と土煙を巻き上げて建物を廃墟へと変える。子供の作った砂の城のように呆気ない。
飛ばされてきた小さな破片がパルの頬をかすめた。パルは思わず頬を触れる。手を見るとわずかだが血がついていた。
「う、うわああああ!」
「きゃああああ!!」
その現実離れした光景に通行人が一人また一人と悲鳴を上げ、それを発端に現場はにわかに騒然とした。
辺りに充満する悲鳴と怒号。たくさんの人が四方八方に蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
「グオオオ!」
人々の喧しさが気に障るのか。
怪物はさらに凶暴な声を上げると両手を離れた商店に向かって突きつける。
すると掌から怪物の身体とまったく同色の漆黒の光が打ち出された。
光は手の先にあった建物に着弾すると、やはり容易にそれを残骸へと変えてしまう。
それがさらに人々の狂騒を煽る。現場は混迷を極めていた。
そんな混乱の中。
ただ一人、場違いなほどに落ち着いた様子で怪物に向けて歩を進める人物が目に入った。
ソラである。
その姿は正に悠然。
そこにある危険のことなど全く眼中にないかのように人の目を縫ってゆっくりと進んでいく。
パルは信じられないという思いでその姿を見つめる。
「まさか、一人でやる気かよ!」
パルには一つ考えていたことがあった。
『そもそも、なぜ自分たちが警備につく必要があるのか』
単純な疑問だ。
なぜなら孤児院にはソラがいる。
彼女はオプティムスの一人だった人物だ。
オプティムスに名を連ねる六人の能力者たちの力は、一般的なフォルトゥナのそれとは一線を画すると言われている。勇者イーノック=リヴァースなどは信じられないことに二つのオムニアを同時に操ったという。
その彼女がどうして駆け出しのギルドに過ぎない多芸無芸の力などを必要としたのか。
それはきっと自分だけでは子供たちを守れないと思ったからだ。
つまり、使えないのではないか。自分の能力を、何か理由があって。
そうだとすれば今の彼女は普通の少女と変わらない状態のはずだ。単身であんな化物と対峙するなど危険すぎる。
ならば、守らなければならない。彼女を。
そうするのが姉の前で宣言した決意に適う行為だ。
(やってやるさ。ぜっったいに守ってやる!)
パルはそう思った。
「えっ?」
しかし、そう思った矢先に彼の右足が半歩下がった。
パルは信じられない思いで自分の足を見つめていた。
膝が震える。進むどころか、尻餅をつくのをこらえるのが精一杯の有様だった。
パルの肉体は心中で固めた覚悟とは全く逆の反応を示していたのだ。
(バカ言うな! 怖気づいている場合か!)
パルは自分を叱咤する。
両手で膝頭を押さえつけ無理やりに震えを抑える。
何とか震えが止まったが、どうしても足が前に出てくれない。
(くそ、みっともない!)
ならば、と右の手のひらを怪物に向かって突き出す。
そして左手で右手首の腕輪を支えいつもの構えをとった。
細く呼吸をしながら一瞬だけを目を瞑る。
短い時間で精神を研ぎ澄ます。いつもの訓練のように。
数瞬の後、パルは目を見開くと
「同調!」
と叫んだ。
オムニアを発動させるための鍵となる言葉。
これにより彼のオムニア『百鳥』が発現する――はずだった。
「えっ?!」
しかしオムニアには何の反応もない。ただただ青い光を湛えているだけだ。
「おい! 澄ましている場合じゃないぞ!」
固めたはずの決意が、音を立てて崩れて行くのを感じた。
「戦うんだ! 守るんだよ!!」
戦うと決めたはずだ。
そのために力をつけてきたはずだ。
今それを使えなければ何の意味もなくなってしまう。
「頼むから!」
俺は、変わったつもりになっていただけだったのか?
臆病だったあの頃のままなのか?
「動けえええ!」
しかし、オムニアはやはり応えない。
遂に、彼は能力を発揮させることはできなかった。
パルはやがてぐったりと手を下すと、失意に押しつぶされたかのようにそのまま俯き膝をついた。
※※※
パルががっくりと座り込むのが視界の隅に映った。能力を使おうとしていたようだが失敗に終わったようだ。
フォルトゥナの力は使用者自身の精神状態に大きく左右される。その状態によってはオムニアの発動そのものができなくなることもある。
かつての、そして、今の自分と同じように。
現在の彼の熟練度ではこの緊迫した状況下では能力を発揮することがまだ困難なのだろう。
それなら、そのほうがいい。中途半端な実力で立ち向かってただで済む相手ではない。
さっきまでの男の言動からすれば怪物の狙いは一先ずは自分のようだ。あそこにいれば危険が及ぶことはないだろう。
まだ知り合って間もないがパルもナリアも悪い人間ではない。
不必要なケガなどする必要はないと思った。
「こっちよ。私に用があるのでしょう?」
ソラはゆっくりと歩を進め怪物の前に立ちふさがる。
怪物もソラに気付いたようだ。
顔や目がないので判断し難いが怪物の放つ禍々しい殺気がこちらに集中してくるのがわかる。
「グオオオ!」
怪物が再び腕を振り上げた。
ソラは変わらぬ静かな目でその様子を観察している。
怪物が建物を破壊したのと全く同じようにそれを鋭く振り下ろした。巨大な腕がうなりをあげてソラを襲う。
ソラは短く後方へと飛んだ。
豪腕の巻き上げた烈風が彼女の体を叩く。
怪物の腕は深く地面を穿ち、さらには周りの石畳を滅茶苦茶に隆起させた。
しかし、腕自体がソラをとらえることはない。
後方、少し離れたところに着地すると彼女は即座に地を蹴り、今度は怪物に向かって走った。
オムニアを使えない今の自分ではまともに戦っても勝ち目はない。それはよくわかっている。
ソラの狙いは最初から怪物の足元――男の方にあった。
彼女の目は捉えていたのだ。
男から発せられた黒い光が収束する際に、その中心となった黒く輝く石の存在を。
もしもあれが自分たちの使うオムニアと同種の物であるとすれば、使い手の意識を断って両者の同調を阻止することにより怪物の方も同時に倒せる可能性がある。望みはそこにしかなかった。
男はほとんど茫然自失といった状態で彼女の素早い動きに全く対処できない。
こちらのことを認識しているのかも疑われる虚ろな表情だった。
ソラは容易く男の背後を取ると、右の手刀でその首筋を一撃する。
男は簡単に気を失い――あるいは元々意識などなかったのかもしれないが――その場に崩れ落ちた。
(どう?)
ソラは素早く怪物の様子を窺った。
怪物は一瞬動きを止めたかのように見えた。
しかし。
怪物は地面にめり込んでいた右手をそのまま彼女に向かって滑らせた。
(だめか!)
そう思う間にも、怪物の強大な右手が地面を抉り土砂をまき散らしながら彼女に迫ってくる。
彼女の足元には怪物にとってはいわば生みの親であるはずの男が倒れているがそのことを怪物が意識しているようには思えなかった。
ソラは男と共に飛び退こうとする。
だが、大の男一人を抱えていては思うような動作は取れない。回避行動が間に合わず怪物の手が彼女をかすめた。
「きゃああ!」
それだけでも途方もない衝撃に襲われ彼女と男はそれぞれ後方へ弾き飛ばされる。
二人は地面に叩きつけられ何度も転げまわったところでようやく止まった。
すぐに追撃が来る。
全身を襲う痛みに顔をしかめながらソラは何とかして立ち上がった。
しかし、彼女はそれ以上動こうとはしなかった。
状況は決している。
使用者の意識を奪っても怪物は消えることはなかった。
一度発現させれば以降は自律して活動するタイプの能力のようだ。まるで生き物か何かのように。これまで類を見ない特性であり、自分で言っていてもにわかには信じがたい話である。
そして、正直に言って、今の自分にはもう打つ手がない。
少なくとも時間は稼いだ。それ以上の抵抗をする意欲は今のソラにはなかったのだ。
怪物がこちらへ向かって近づいてくる。
「これで、大人しくなってくれるといいけれど」
ソラは小さくそう呟くとゆっくりと目を瞑った。
次の行動を決めるためでも意識の集中を図るためでもない。
ただ死を受け入れるためだけの行動だった。
怪物の重量感のある足音がすぐそこまで迫る。
先程の建物のように豪腕の餌食となるのか、それともこのまま踏みつぶされるのか。
楽な方がいいけれど、どちらでも大して変わらないかしら。
ソラはぼんやりとそんなことを考えていた。
「ウオオオ!」
至近距離からの怪物の方向が空気をつんざく。
「……?」
しかしそれだけだ。それ以外の衝撃が全く訪れない。
訝し気にソラが目を開いた。
目に入ってきたのは一人の人間の背中。
大仰なマントをはためかせ自分と怪物の間に立ちふさがっている。
風にたなびく金色の髪が目を引いた。
ドオン!
重音が背中の方から響いてくる。
ソラが振り返って確かめると黒い物体――怪物の腕が地面に落下していた。肘の少し先のところで見事に切断されている。
「大丈夫?」
「え?」
聞こえてきたのは落ち着きのある女性の、しかも、聞き覚えある声だった。ソラは慌てて前方の人物に視線を戻す。
「あら、私のことわからない? 寂しいわ」
女性はソラの方に顔だけを向けると悪戯っぽく微笑んだ。
「フ、フローラさん?」
ソラは想定外の人物に目を見開いた。
フローラ=ホロウェイ。
かつてソラと共に旅をした戦友でオプティムスの一人である。会うのはソラが一団を離れて以来だ。
「嬉しい! 覚えていてくれたのね」
こんな緊迫した場面なのに語尾に音符でも付きそうなお気楽なその口調は以前と全く変わっていなかった。
「ど、どうしてここに?」
「そうねぇ。いい見せ場だからかしら。かわいい妹分と教え子のピンチだもん」
「い、妹……かわいい……」
こんなときだというのにソラの頬がさっと赤く染まる。
フローラの存在と言葉にはそれだけ彼女を安心させる力があった。
「ソラも相変わらずねぇ」
そんなソラの様子を横目で見てフローラは苦笑する。
「え? それに教え子?」
誰のことだろう? そんな疑問が一瞬だけソラの脳裏をよぎる。
「グオオオオオオ!」
ソラの思考を遮るように、腕を切断された怪物が絶叫した。
怒りに身を震わせているようだ。
「お話しは後にしましょうか。あちらがお待ちかねみたい」
「はぁ」
「そこで休んでいてね。――もう大丈夫だから」
「は、はい」
気が抜けたのかソラは返事をするとその場にへたり込んだ。
フローラは右手を伸ばし真横に持ち上げる。
上げた手には甲の部分だけを覆うグローブを装着しておりその中央部にオムニアがつけられていた。
「いくわよ! 輝刃!」
それまでの穏やかな声色と打って変った勇ましい掛け声を合図に右手のオムニアから金色の光が溢れ出す。
ソラはその眩しさに目を細めた。
光はやがて収束し大人の身の程もある長剣を形成する。
フローラはそれを手に取るとまっすぐ怪物に向かって突きつけた。
コルを凝縮した光の剣。それが彼女の力だ。
その刃は前の戦いではあらゆる魔獣を切り裂く切れ味を誇っていた。
コルで形成されているため軽量でフローラの細腕でも容易に扱うことができる(無論、彼女も歴戦の勇士でありその膂力は並の男性に劣るものではないが)。
彼女の放つ波動が怪物にも届いたのか。
怪物が素早く残った左手を彼女に向けて構えた。
「フローラさん!」
先程の光を放つつもりだ!
ソラが注意を促すべくそう叫んだ時にはもう光は打ち出されていた。
光はフローラとその後ろにいるソラに向かって一直線に走る。
それに対しフローラは特別な対応を取らなかった。刃を構えたまま光を悠然と待ち受ける。
やがて刃の先端と光が衝突する。黒と金色の波動が押し合うが決着はすぐについた。
フローラの刃はまるで果物でも切るかのように容易く光を両断した。
黒光は二つに分かれ、ソラの右後方と左後方にそれぞれ着弾する。
「ふっ!」
フローラは短く息を吐くと地を蹴り怪物に向かって走り出す。
その速さはまさに一陣の風だ。あっという間に怪物の懐へと入り込む。
フォルトゥナはその能力を使用する際、体内のコルが活性化するためその身体能力が多少強化される。彼女のような近接戦闘用の能力者の場合は特にそれが顕著である。
「はああ!」
速度を緩めず跳躍すると胴体めがけて光刃を水平に振りぬいた。
フローラは怪物の向う側、少し離れたところに着地する。振り返ることもなく刃を納めた。
怪物の胴体に亀裂が走り、亀裂から上の部分が横にゆっくりとずれ始める。胴体が半分ほどずれたところで怪物は元の黒い霧となり肉体すべてが霧散してしまった。
座り込んだソラも、振り返ったフローラも、そしてパルもその様子を無言で見つめていた。
怪物が完全に消滅したのを確認すると、フローラは急いでソラの下に駆け寄る。
「ソラ! 大丈夫だった?」
「は、はい。特には、何も」
「もう、またそんなこと言って! あちこち傷だらけじゃない!」
フローラはあっさりとソラの嘘を見抜くと、子供に対してそうするような口調でソラを叱りつける。
「すいません」
そうだった。聡明で優しい……彼女はこういう人だった。
ソラは昔を思い出して少し微笑む。
彼女の姿は辛いことが多かった旅から得られた数少ない暖かい思い出の一つだ。
王城へと続いていく街路から城の兵士や武装した自警団のメンバーがこちらにやってくるのが見えた。
「さっ、早く診てもらいましょう!」
ソラはフローラの手を借りてゆっくりと立ち上がったのだった。
事件の現場は王城から派遣されてきた一般兵たちによって厳重に封鎖されていた。
今もあちこちで怪我人の探索や救助、怪物の遺留物等の捜索が行われている。
パルは緊急の救護所の隅に座り込みそれらの様子を茫然と見つめていた。
最初は引っ切り無しに怪我人が運び込まれていたが、少し前からはその波も落ち着いている。
彼も人手が空いたところで一応は診てもらったがたいしたことはないとのことだった。
「クソッ!」
パルは地面に拳を叩きつける。
先程から持て余している忸怩たる思いを抑えるのに必死だった。
――もしも自分が力を使えていたら。
傲慢なことはわかっていてもそう考えずにはいられない。
今回の件で出た負傷者の数は通行人や住民を中心として数十人に上っていた。 死者も出てしまったようだ。
自分次第でそれを少しでも減らすことができたかもしれないのに。
誓いだ?
約束だ?
肝心な時に怖気づいて何もできないで!
スカスカの決意を固めたつもりで得意になっていたさっきまでの自分を殴り倒したい気分だった。
そうは思うが今の自分には全くその資格がないこともよく分かっている。自分は何も変われていない。気弱で臆病な小さい存在のままだ。
こうして事が終わった後なら言い訳がましく自分に対する怒りが湧いてくる。
自分のそういう卑怯なところにも鳥肌が立つようなおぞましさを覚えた。
そんな自分にまた苛立って。
そうやって一人で負の螺旋階段を転げ堕ちていると。
「貴方。まだいたの?」
頭上から声をかけられた。顔を上げるとソラがこちらを見下ろしている。
「ソラ……さん」
ソラもここで治療をしていたようだ。着ている服はあちこち破れ、顔や髪にも汚れがこびりついている。
「あの、大丈夫ですか?」
「ええ、治療もしてもらったし。もともとたいした怪我じゃないから」
彼女は心底つまらなそうに答えた。
幾つもの傷を負いながら平然とそう答える彼女の精神力に、パルは感嘆させられる。
「そうですか。その、よかったです」
「そうね」
彼女の目がすっと細められた気がした。
「誰かのために……か」
そして氷の彫刻のような美しくも冷たい無表情で。
「立派な決意だったわね」
今まで聞いたことのないような底冷えのする声でそう言い捨てると。踵を返して立ち去ってしまう。
パルはその後姿を黙って見送ることしかできなかった。
曇った空からは、ついに雨が降り始めていた。




