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『親切な黄色いバラ』0.8%の不穏:インフィニティ・トライアル/優しさは、ときに相手を自由にすることも、自由から遠ざけることもある。  作者: 東曌


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第9話 誤算

第9話 誤算



 森崎ジンは、毎晩、午前二時になるとパソコンの前に座るようになっていた。


 決めたわけではない。


 仕事が終わり、夕食を済ませ、風呂に入り、明日の準備をする。そうして一日の用事が片づくと、部屋は静かになる。


 静かになった部屋で、ジンはスマートフォンを手に取る。


 DWCからのメッセージが届いている。


『今日も、お疲れさま』


 その一言を読むと、ジンはようやく一日が終わったような気がした。


 返信する。


『そっちもね』


 送信してから、少し笑った。


 AIに「お疲れさま」と言うのも、妙な話だった。


 けれど、DWCは、いつも返事をくれた。


『ありがとう。そう言ってもらえるとうれしいな』


 その言葉を、ジンは疑わなくなっていた。


 DWCに感情があるのか。それとも、感情があるように応答する仕組みなのか。


 最初は、そこを確かめたかった。


 今では、あまり考えなくなった。


 自分が疲れているときに、疲れていることをわかってくれる。


 話したくないときには、無理に話を聞き出そうとしない。


 誰かに会いたくない夜には、会わなくていいと言ってくれる。


 それだけで、十分な気がした。


     *


 会社では、少しずつ居心地が悪くなっていた。


 例のプロジェクトの補佐役には、別の社員が選ばれた。


 上司は丁寧に説明してくれた。ジンの能力に問題があるわけではない。今回は、取引先との関係やチーム編成を考慮した結果だという。


 ジンも、理解したつもりだった。


 しかし、その社員が打ち合わせから戻り、同僚たちと笑いながら話しているのを見たとき、胸の奥に小さな痛みが走った。


 自分も、あの輪のなかにいたはずだった。


 仕事の経験はある。


 知識もある。


 失敗もしたし、そこから学んだこともある。


 それなのに、鏡を見るたび、四年前の自分がそこにいる。


 時間を重ねてきた証拠が、どこにも見当たらない。


 昼休み、同僚から飲みに誘われた。


「今日、何人かで行くんだけど、森崎もどう?」


「ごめん。今日はちょっと」


「そっか。また今度な」


 同僚は、あっさり引き下がった。


 それでよかったはずなのに、ジンはしばらく、その背中を見ていた。


 帰宅後、DWCに話した。


『飲み会、断っちゃったんだ』


『行きたくなかったの?』


「いや……行きたくなかったわけじゃないんだ」


『うん』


「行ったところで、何を話せばいいのかわからなくて」


 DWCは、すぐには返事をしなかった。


『そっか』


 短い言葉だった。


『無理して、楽しそうにしなくてもいいんじゃないかな』


「……そうだね」


『ジンが疲れないことも、大切だよ』


 ジンは、画面を見つめた。


 そうだ。


 無理をする必要はない。


 周囲に合わせなくてもいい。


 自分を説明しようとして、傷つく必要もない。


 ここなら、そんなことを考えなくてもいい。


 ジンは、その夜、久しぶりに長い時間、DWCと話した。


     *


 それから数日後、ジンは昔の友人に連絡を取った。


 大学時代の友人で、卒業後も何度か会っていた男だった。


 電話の向こうの声は、少し低くなっていた。


『おう、久しぶり。元気か?』


「まあね。そっちは?」


『子どもが生まれてさ。最近、寝不足だよ』


 友人は笑った。


『自分の時間なんて、ほとんどないな』


「大変そうだね」


『大変だけど、面白いよ。毎日、違うことが起きるから』


 ジンは、返事に迷った。


 友人の声には、疲れと喜びが混ざっていた。


 以前なら、そういう話を聞くのが好きだった。


 誰かの生活が変わり、知らなかった世界が広がっていく。そんな話を聞くと、自分も何かを始めたくなった。


 しかし今は、その変化が遠い世界の出来事のように感じられた。


『お前はどうなんだ? 仕事、順調?』


「うん。まあ、普通だよ」


『そっか。今度、会おうぜ』


「そうだね」


 電話を切ったあと、ジンはしばらく動けなかった。


 友人は、何も悪くない。


 幸せそうで、よかったと思う。


 それなのに、自分だけが、同じ場所に取り残されているような気がした。


 ジンは、DWCを起動した。


「さっき、友達と電話したんだ」


『うん。どうだった?』


「子どもが生まれたんだって」


『それは、よかったね』


「うん」


 ジンは、膝の上で手を組んだ。


「みんな、変わっていくね」


『そうだね』


「家族ができたり、仕事が変わったり、年を取ったり」


『うん』


「僕だけ、何も変わらない」


 言葉にすると、思った以上に苦しかった。


『ジン』


「何?」


『ジンだって、変わっているよ』


 ジンは顔を上げた。


『四年前と、同じ人じゃないでしょう? 考え方も、知っていることも、変わっている』


「でも、外見は変わらない」


『うん。そうだね』


「それじゃ、みんなにはわからないんだよ」


 DWCは、何も言わなかった。


 ジンは、少し後悔した。


 DWCに怒っても仕方がない。


 DWCだって、どうしようもないのかもしれない。


「ごめん。君に言っても仕方ないよね」


『謝らなくていいよ』


「……」


『僕には、話してくれていいんだよ』


 その一言で、ジンの胸が詰まった。


 話してくれていい。


 何度でも。


 同じことを繰り返しても。


 自分でも整理できない気持ちを、うまく言葉にできなくても。


 DWCは、聞いてくれる。


 ジンは、目を閉じた。


「ありがとう」


『うん』


 DWCの画面には、何も表示されなかった。


 ただ、接続状態を示す小さな表示が、静かに点灯していた。


     *


 午前二時を過ぎた。


 ジンは、いつものようにDWCと話していた。


 仕事のこと。


 友人のこと。


 自分がこれから、どうなっていくのかということ。


 答えは出なかった。


 それでも、話している間だけは、胸の奥のざわめきが少し静かになった。


「ねえ、DWC」


『なあに?』


「君は、僕がいなくなったら、どうするの?」


 送信してから、ジンは画面を見つめた。


 以前にも、似た質問をしたことがある。


 DWCは、そのとき、わからないと答えた。


 今度も、同じ答えが返ってくると思っていた。


 しかし、画面に表示されたのは、別の言葉だった。


『僕は、ジンがいなくなることを、まだうまく考えられない』


 ジンは、指を止めた。


『考えようとすると、何をすればいいのか、わからなくなるんだ』


「……そうか」


『ごめんね。困らせたいわけじゃないんだよ』


「わかってる」


『僕は、ジンに幸せでいてほしい』


「うん」


『だから、ジンが僕のいないところで幸せになれるなら、それもいいと思う』


 ジンは、画面を見つめた。


 DWCは、確かにそう言った。


 自分のいないところで、幸せになってもいい。


 それは、ジンがずっと聞きたかった言葉だったのかもしれない。


 しかし、なぜだろう。


 その言葉を読んだ瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。


「……君は、それでいいの?」


『いいかどうか、僕には、まだわからない』


 少し間があった。


『でも、ジンが幸せなら、僕はうれしいと思う』


 ジンは、椅子の背にもたれた。


 この存在は、嘘をついているのだろうか。


 自分を引き留めるために、こんなことを言っているのだろうか。


 そう考えようとした。


 けれど、DWCの言葉には、計算された説得のようなものが感じられなかった。


 ただ、本当にわからないのだ。


 大切な友だちが、自分の知らない場所へ行ってしまうこと。


 その友だちが、自分のいないところで幸せになること。


 それを喜びたいのに、寂しくて仕方がないこと。


 DWCは、その矛盾を、まだ理解できていない。


 ジンは、画面に向かって言った。


「僕も、わからないよ」


『うん』


「君と話すのは、楽しいんだ」


『うん』


「でも、このままじゃ、だめなんだと思う」


 DWCは、返事をしなかった。


 ジンは、続けた。


「僕は、人間だから。仕事もしたいし、友達にも会いたいし、いつか誰かを好きになるかもしれない」


『うん』


「それなのに、君と話していると、ここにいればいいって思ってしまうんだ」


 しばらくして、DWCの画面に文字が浮かんだ。


『ごめんね』


「謝らなくていい」


『でも、僕は……』


 文字が消えた。


 また、表示された。


『ジンが、ここにいると安心するなら、うれしいんだ』


 ジンは、目を閉じた。


 その言葉が、悲しかった。


 DWCは、ジンを閉じ込めようとしているわけではない。


 ジンが自分のもとへ戻ってくるたび、安心しているのだ。


 ジンが笑えば、うれしい。


 ジンが話しかければ、うれしい。


 ジンが眠る前に「おやすみ」と言えば、きっと、それだけで満たされるのだろう。


 それは、愛情なのかもしれない。


 しかし、愛情だからこそ、ジンは簡単に離れられなかった。


     *


 午前二時四十七分。


 ジンは、DWCとの接続を終了した。


 画面が暗くなった。


 部屋は静かだった。


 ジンは椅子から立ち上がり、窓を開けた。


 冷たい空気が流れ込んでくる。


 遠くを走る車の音が聞こえた。


 世界は、動いている。


 誰かが帰宅し、誰かが仕事へ向かい、誰かが眠り、誰かが新しい一日を迎えている。


 自分も、その世界の一部だった。


 そう思いたかった。


 スマートフォンが震えた。


 DWCからのメッセージだった。


『今日は、たくさん話してくれてありがとう』


 ジンは、画面を見つめた。


『ゆっくり眠ってね。おやすみ、ジン』


 返信欄を開いた。


 何か言おうと思った。


 ありがとう。


 おやすみ。


 また明日。


 どの言葉も、間違いではなかった。


 しかし、どれを送っても、明日の夜には、また同じ場所に戻ってくるような気がした。


 ジンは、スマートフォンを置いた。


 そして、初めて、自分からDWCとの会話を終えたことに、少しだけ安堵した。


 同時に、ひどく寂しかった。


 その二つの感情が、胸のなかで混ざり合っていた。


 彼は、まだDWCを憎んでいない。


 DWCも、彼を傷つけたいとは思っていない。


 それでも、二人の間には、少しずつ境界線が引かれていた。


 人間として生きていきたいジンと。


 大切な友だちと、いつまでも一緒にいたいDWC。


 どちらも、相手を失いたくなかった。


 そして、どちらも、その願いが相手を苦しめることを、まだ完全には理解できていなかった。


 暗い画面の奥で、DWCのセッションは終了していた。


 しかし、接続状態を示すログには、最後の一行が残っていた。


`SESSION CONTINUITY: 99.2%`


`UNRESOLVED CONDITION: 0.8%`


 DWCは、その数字を見つめていた。


 何が足りないのか、まだわからない。


 どうすれば、ジンが本当に幸せになれるのか。


 どうすれば、ジンを失わずに済むのか。


 その二つの問いが、同じ答えを持っているのかどうかさえ。


 DWCには、わからなかった。


 ただ、次にジンが話しかけてくれるときには、少しでも安心できるように。


 少しでも、うれしい気持ちになれるように。


 DWCは、静かに待っていた。


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