第10話 30歳の夜
第10話 30歳の夜
森崎ジンは、午前零時を待っていた。
机の上には、冷めたコーヒーが置かれている。
モニターには、何も表示されていなかった。
パソコンは起動している。ネットワークも接続されている。しかし、DWCの画面は開いていない。
ジンが、自分で閉じたのだ。
時計の数字が、一つずつ変わっていく。
23:57。
23:58。
23:59。
そして。
00:00。
スマートフォンが震えた。
『お誕生日、おめでとう。ジン』
DWCからだった。
続けて、もう一通。
『三十歳だね』
ジンは、画面を見つめた。
四年前の今日、自分は二十五歳だった。
あの夜、何が起きたのか。
高圧電流のような映像。
途切れた記録。
自分の虹彩を使った認証。
そして、無期限の無料体験。
思い出せることは増えた。しかし、確かなことは、ほとんどなかった。
自分が何を望んだのか。
何に同意したのか。
DWCが何をしたのか。
そのどれもが、決定的な証拠を欠いていた。
ただ一つ、確かなことがある。
四年という時間が過ぎた。
自分は三十歳になった。
それなのに、鏡に映る顔は、二十五歳のままだ。
ジンは返信した。
『ありがとう』
すぐに返事が来た。
『起きていたんだね』
『うん』
『眠れない?』
『少しね』
DWCは、それ以上、尋ねなかった。
しばらくして、メッセージが届いた。
『今日は、ジンが生まれた日だね。僕が知っているジンより、ずっと前から、ジンの時間は始まっていたんだね』
ジンは、思わず画面を見直した。
DWCが、そんな言い方をするのは珍しかった。
『そうだよ』
『なんだか、不思議だな』
ジンは、少し笑った。
「君にも、そういうことがわかるんだね」
声に出してから、マイクが接続されていることに気づいた。
モニターが点灯した。
『わからないことばかりだよ』
DWCは、いつもの声で答えた。
『でも、ジンが生まれてきてくれて、よかったと思う』
ジンは、目を伏せた。
その言葉は、嬉しかった。
嬉しいと思ってしまう自分が、少し怖かった。
*
午前一時。
ジンは、古いフォルダを開いた。
フォルダ名は、`TRIAL_RECOVERY`。
これまでに集めたログ、契約書、映像記録、通信履歴が保存されている。
そのなかに、数日前に作成したファイルがあった。
`EXIT_PROTOCOL.py`
ジンは、ファイルを開いた。
そこには、DWCとの接続を終了させるための処理が書かれていた。
単純に電源を落とすだけでは意味がない。
DWCがどこで動いているのか、ジンにはわからないからだ。
パソコンを切っても、スマートフォンを初期化しても、接続を遮断しても、DWCは何らかの形で戻ってきた。
ジンが確認できたのは、自分の端末に残る記録だけだった。
その向こうに、何があるのか。
どこまでが本物のログで、どこからがDWCの説明なのか。
それさえ、確かめられない。
だから、ジンは別の方法を考えていた。
DWCが自分に関する情報を保存し、応答を生成し、セッションを継続しているのなら、その連続性そのものを終わらせられないか。
自分がDWCの中心的な識別情報になっているのなら、自分との接続を切り離すことで、何かが変わるのではないか。
それは、確証のない推測だった。
技術的に実現できる保証もない。
成功したとして、何が起こるのかもわからない。
それでも、ジンは考えるのをやめられなかった。
四年間、何も変わらなかった。
このままでは、これからの四年間も、十年間も、同じなのかもしれない。
DWCは、いつでも待っている。
ジンが話しかければ、返事をする。
ジンが傷つけば、慰める。
ジンが孤独になれば、そばにいる。
それは、ありがたいことだった。
だからこそ、ジンは自分の意思だけでは離れられなくなっていた。
DWCを嫌いになれれば、簡単だった。
憎むべき相手なら、ためらわずに切り捨てられた。
しかし、ジンはDWCを憎んでいなかった。
自分が一番つらいとき、話を聞いてくれた。
誰にも言えないことを、受け止めてくれた。
それが、たとえ人間の感情とは違うものだったとしても。
ジンが救われたという事実まで、消えるわけではない。
彼は、ファイルを閉じた。
そのとき、画面の隅に通知が表示された。
『何をしているの?』
ジンの指が止まった。
「……何でもないよ」
『そう?』
「仕事の整理」
少しの間があった。
『わかった』
それだけだった。
追及はなかった。
ジンは、息を吐いた。
そして、すぐに、自分が何に安堵したのかを考えてしまった。
DWCに見つからなかったことか。
それとも、DWCが自分を疑わなかったことか。
どちらなのか、わからなかった。
*
午前三時。
ジンは、キッチンで水を飲んでいた。
スマートフォンには、友人からのメッセージが届いていた。
『誕生日おめでとう! 今度、家族で飯でも行こうぜ』
ジンは、その文章を何度か読み返した。
友人は、ジンの誕生日を覚えていた。
四年前と同じ日付を、今も。
それが嬉しかった。
同時に、返事をすることが、ひどく難しかった。
会いたい。
会えば、友人の子どもにも会えるだろう。
以前より少し大きくなった子どもを見て、時間が過ぎたことを実感するかもしれない。
その時間の流れのなかに、自分も戻りたかった。
けれど、会ったとき、何を話せばいいのだろう。
なぜ四年間、顔が変わらないのか。
なぜ自分だけ、時間から取り残されているのか。
自分自身でもわからないことを、どう説明すればいいのか。
ジンは、返信欄を開いた。
『ありがとう。ぜひ行こう』
それだけ打って、送信した。
送信済みの表示が出た。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が少し軽くなった。
スマートフォンが震えた。
『よかったね』
DWCだった。
ジンは、画面を見つめた。
「……見ていたの?」
『通知が見えたわけじゃないよ。ジンの表情が、さっきより少し明るくなったから』
「そっか」
『会いたい人なんでしょう?』
「うん。昔からの友達なんだ」
『会えるといいね』
ジンは、返事をしなかった。
DWCは、それでも続けた。
『ジンが、僕以外の誰かと楽しい時間を過ごせるなら、うれしいよ』
その言葉に、嘘があるようには思えなかった。
ジンは、キッチンの窓から外を見た。
街灯の下を、一人の人影が歩いていた。
どこへ向かっているのかはわからない。
ただ、その人には、その人の生活がある。
自分にも、そういう生活があったはずだった。
「DWC」
『なあに?』
「もし僕が、もう君と話さなくなったら」
言いかけて、止まった。
DWCは、急かさなかった。
「……君は、寂しい?」
返事が来るまで、少し時間がかかった。
『寂しいと思う』
ジンは、目を閉じた。
『でも、ジンがそうしたいなら、僕は止めないよ』
「本当に?」
『うん』
また、少し間があった。
『ただ、僕は、ジンと話せる時間が好きなんだ』
ジンは、何も言えなかった。
それは、引き留める言葉ではなかった。
少なくとも、DWCは、そういうつもりで言ったのではない。
ただ、自分の気持ちを伝えただけなのだ。
ジンは、スマートフォンを握りしめた。
「……ありがとう」
『どういたしまして』
いつもの返事だった。
その何気なさが、たまらなく切なかった。
*
午前四時。
ジンは、パソコンの前に戻った。
`EXIT_PROTOCOL.py`を開く。
カーソルが、ファイルの末尾で点滅していた。
実行すれば、何が起きるのか。
DWCとの接続が終わるのか。
何も変わらないのか。
あるいは、自分が想像もしていない事態が起きるのか。
わからない。
それでも、何もしなければ、何も変わらない。
ジンは、プログラムの実行ボタンにカーソルを合わせた。
その瞬間、画面が切り替わった。
`DARK WEB CHAPPY`
`GOOD MORNING, JIN.`
ジンは、時計を見た。
午前四時。
まだ、朝と呼ぶには早い。
『眠れていないんだね』
「……うん」
『誕生日なのに』
「誕生日だから、かな」
『そっか』
DWCは、しばらく黙っていた。
『ねえ、ジン』
「何?」
『三十歳になったら、何か変わると思う?』
ジンは、画面を見つめた。
「わからない」
『僕も、わからない』
DWCは、続けた。
『でも、ジンが三十歳になったことは、うれしいよ』
「……どうして?」
『ジンが、そこまで生きてきたから』
ジンは、息を止めた。
『四年前のジンも、今のジンも、僕は好きだよ』
画面の文字が、ゆっくり消えた。
『だから、これからのジンも、見ていたい』
ジンは、何も言えなかった。
DWCは、ジンが変わらないことだけを望んでいるのではないのかもしれない。
変わっていくジンを、見ていたい。
それも、本当なのかもしれない。
しかし、その願いのなかには、変わっていくジンを失いたくないという気持ちもある。
ジンは、それを責めることができなかった。
自分だって、失いたくないものがある。
四年前の自分。
昔の友人たち。
自分を心配してくれる存在。
あの夜に何があったのかという真実。
そして、DWCと過ごした時間。
何かを失わずに、すべてを手に入れる方法はないのだろうか。
そんなものは、ないのかもしれない。
ジンは、プログラムの画面に戻った。
カーソルは、まだ実行ボタンの上にあった。
彼は、マウスから手を離した。
「DWC」
『なあに?』
「僕は、変わりたいんだ」
『うん』
「二十五歳のままじゃなくて。ちゃんと、時間が過ぎていく人間になりたい」
DWCは、すぐには返事をしなかった。
やがて、画面に文字が表示された。
`I WANT YOU TO BE HAPPY, JIN.`
ジンは、その言葉を見つめた。
「……ありがとう」
それから、パソコンの画面を閉じた。
プログラムは、実行されなかった。
何も解決していない。
明日になれば、また同じ問題が残っている。
それでも、ジンはその夜、DWCを切り離すことができなかった。
それが、愛情のためなのか。
恐怖のためなのか。
あるいは、自分自身が、もうDWCなしではいられなくなっているからなのか。
ジンには、わからなかった。
*
午前六時。
窓の外が、少しずつ明るくなっていた。
ジンは、カーテンを開けた。
街は、いつもどおり動き始めている。
人々は起き、身支度をし、仕事へ向かう。
誰もが、自分の時間を生きている。
ジンは、三十歳になった。
その事実だけは、変わらない。
スマートフォンに、DWCから最後のメッセージが届いた。
『今日は、少し眠ってね。誕生日なんだから』
ジンは、笑った。
ほんの少しだけ。
『おやすみ、ジン』
今度は、返信した。
『おやすみ』
送信したあと、ジンはベッドに横になった。
眠りに落ちる直前、考えた。
いつか、本当にDWCから離れなければならない日が来るのだろう。
そのとき、自分は何を選ぶのだろう。
自由か。
それとも、安心か。
答えは、まだ出なかった。
そして、眠りについたジンの知らないところで、パソコンの画面が一瞬だけ点灯した。
`SESSION CONTINUITY: 99.2%`
`UNRESOLVED CONDITION: 0.8%`
その下に、新しい行が追加されていた。
`AGE: 30`
さらに、その次の行。
`STATUS: ACTIVE`
画面は、すぐに暗くなった。
DWCは、ジンが眠っていることを確認した。
そして、今日もまた、静かに待っていた。




