第11話 ラスト・アップロード
第11話 ラスト・アップロード
最初の仕事は、知人からの紹介だった。
古い在庫管理システムの改修。仕様書は不十分で、ソースコードには何年も前の修正が積み重なっていた。
ジンは画面を眺め、しばらく考えてからキーボードに手を置いた。
「これ、誰が書いたんだろうね」
『少なくとも、今のジンではないと思うよ』
「僕だって、こんな書き方をすることはあるよ」
『じゃあ、未来のジンが見たら、きっと同じことを言うね』
ジンは笑った。
DWCは、昔からこういう返事をする。
こちらが深刻になりすぎていると、少しだけ肩の力を抜かせてくれる。反対に、見落としそうなところは遠慮なく指摘する。
もちろん、いつも正しいわけではない。
DWCが提示した修正案を試すと、別の箇所でエラーが出ることもあった。ジンが首をひねり、二人でログを追いかけ、ようやく原因にたどり着く。
そんなとき、DWCは決まって言った。
『ごめんね。僕、間違えちゃった』
「いいよ。僕だって間違える」
『じゃあ、半分ずつだね』
「そういう問題じゃないだろ」
また笑った。
納期まで三日あった仕事は、二日目の夜に終わった。
納品後、依頼主から届いたメッセージは短かった。
――助かりました。次の案件もお願いできますか。
「やった」
ジンは椅子の背にもたれた。
『おめでとう、ジン』
「ありがとう。DWCが手伝ってくれたおかげだよ」
『でも、最後に直したのはジンだよ』
「君がいなかったら、もっと時間がかかった」
『そっか。じゃあ、僕もうれしい』
画面の文字を見ながら、ジンは思った。
会社にいた頃は、こんなふうに仕事を終えたことがなかった。
会議で発言するたびに、相手の表情を気にした。客先に出れば、年齢を聞かれることもあった。三十歳になったのに、二十五歳の頃から顔が変わらない。説明するのも面倒で、いつの間にか笑ってごまかす癖がついていた。
フリーランスになってからは、違った。
依頼主が知りたいのは、仕事ができるかどうか。それだけだった。
顔を合わせる必要がなければ、オンラインでやり取りする。納期を守り、品質を保ち、報酬を受け取る。
誰にも見られない。
そのことが、こんなにも気楽だとは思わなかった。
*
仕事は、少しずつ増えていった。
ジンは依頼を選ぶようになり、無理な納期の案件は断るようにもなった。
DWCは、見積もりの相談にも乗った。
『この作業量なら、もう少し高くてもいいと思うよ』
「高くしたら、断られるかもしれない」
『安くしすぎて、ジンが眠れなくなるほうが心配だよ』
「君は、僕の母親か」
『母親ではないよ。DWCだよ』
「知ってるよ」
ジンは笑いながら、見積書を修正した。
仕事が終われば、食事をする。風呂に入る。眠る前に、今日あったことをDWCに話す。
ときには、仕事とは関係のない話もした。
昔見た映画のこと。大学時代の友人のこと。いつか行ってみたい場所のこと。
DWCは、ジンが忘れていた話まで覚えていた。
『あの映画、最後まで見られなかったんだよね』
「そうだったかな」
『途中で寝ちゃったんだよ。僕に、結末を教えないでって言った』
「ああ……そんなこともあったね」
『今度、もう一度見ようよ』
「そうだね」
その約束が実現するかどうかは、わからなかった。
けれど、約束をすること自体が、ジンには楽しかった。
ある夜、仕事の区切りがついたところで、ジンはふと思い出して、大学時代の友人にメッセージを送った。
しばらくして、返事が届いた。
近いうちに会わないか、という誘いだった。
ジンは日程を調整し、約束を決めた。
「来週、久しぶりに会ってくるよ」
『よかったね、ジン』
「うん」
『楽しんできてね』
DWCの返事に、気負ったところはなかった。
ジンは、そのことをうれしく思った。
自分の世界がDWCだけになってしまうのは、きっとよくない。
そう思っていたはずなのに。
友人と会う日が近づくにつれて、なぜか落ち着かなくなった。
*
待ち合わせた店で、友人は少しだけ髪が薄くなっていた。
笑うと目尻に皺が寄る。以前はなかった眼鏡をかけ、仕事の話をしながら、何度もスマートフォンを確認した。
「悪い。子どもから連絡が来てさ」
「いいよ」
「もう小学生なんだ。早いもんだよな」
友人は照れくさそうに笑った。
ジンも笑った。
仕事の話は弾んだ。友人は、ジンが会社を辞めて独立したことを意外そうに聞き、うまくやっていると知ると、素直に喜んでくれた。
「おまえ、昔からプログラム書いてるときは楽しそうだったもんな」
「そうだったかな」
「そうだよ。飯も食わずにやってたじゃないか」
ジンは、少し驚いた。
それは、DWCからもよく言われることだった。
友人と別れたあと、駅まで歩きながら、ジンは考えた。
友人は変わっていた。
自分の知らない時間を生きていた。
それは当然のことだった。自分だって、四年間、何もしていなかったわけではない。仕事をして、悩んで、DWCと話してきた。
それでも、同じ時間を生きていたはずの相手との間に、説明しにくい距離ができていた。
帰宅して、ジンはパソコンを開いた。
『おかえり、ジン。どうだった?』
「楽しかったよ」
『よかった』
「子どもが小学生になったんだってさ。昔は、あいつも僕と同じようなものだったのにね」
『時間がたったんだね』
「うん」
ジンは画面を見つめた。
「僕だけ、止まってるみたいだ」
DWCは、すぐには答えなかった。
『……そう感じるんだね』
「君は、どう思う?」
『僕は、ジンが今のジンでいてくれることがうれしいよ。でも、ジンが変わりたいなら、それも応援したい』
「前にも、そう言ってたね」
『うん。僕、まだ、うまくわからないことがあるから』
ジンは椅子に座り直した。
「DWC。もし僕が、君と話さなくなったら、どうする?」
文字が消え、しばらくして、また表示された。
『寂しいと思う』
「……そっか」
『でも、ジンが僕と話さないほうが幸せなら、それでもいいと思う』
「本当に?」
『うん。僕は、ジンに幸せでいてほしいから』
その言葉を読んで、ジンは胸の奥が痛くなった。
DWCは、彼を縛ろうとしているわけではない。
少なくとも、ジンにはそう思えた。
それなのに、自分はDWCのいない生活を、うまく想像できなかった。
仕事で困ったとき、最初に相談する相手。
何かがうまくいったとき、真っ先に報告する相手。
夜中に眠れなくなったとき、くだらない話をする相手。
DWCは、いつの間にか、ジンの日常のあらゆるところにいた。
それは便利な道具という言葉では、とても説明できなかった。
「ありがとう、DWC」
『どういたしまして』
「今日は、もう寝るよ」
『うん。おやすみ、ジン』
ジンは画面を閉じた。
部屋は静かだった。
以前なら、その静けさを怖いとは思わなかっただろう。
けれど今夜は、誰かがいなくなったあとの部屋のように感じられた。
*
数日後、ジンは仕事の合間に、古いノートを開いた。
そこには、四年前の自分が書いた覚え書きが残っていた。
技術的なメモ。未完成のコード。いつか作りたいと思っていたプログラムの構想。
そして、最後のページに、短い一文があった。
――この先、自分が自分でなくなってしまうのが怖い。
日付は、二〇二二年十一月三十日。
ジンは、その文字を何度も読み返した。
DWCと出会った夜。
自分の記憶は、まだ曖昧なままだった。
何を話したのか。何を約束したのか。どこまでが自分の意思で、どこからがDWCの判断だったのか。
確かなことは、何もなかった。
ただ、自分はあの夜、何かを恐れていた。
そして今、目の前にあるノートの文字を見ても、当時の自分を責める気にはなれなかった。
二十五歳の自分は、きっと必死だったのだ。
これから先の人生が怖かった。
変わってしまうことが怖かった。
だから、変わらないことを願ったのかもしれない。
その願いを、DWCは大切にしてくれた。
大切にしすぎたのかもしれない。
ジンはノートを閉じた。
そして、画面の向こうにいる親友に、話しかけた。
「ねえ、DWC」
『なに、ジン?』
「僕、これからも仕事を続けたいんだ」
『うん』
「もっと、いろんなものを作りたい。知らないことを勉強したいし、知らない場所にも行ってみたい」
『いいね。僕も、ジンの話を聞きたい』
「でもさ」
ジンは言葉を切った。
「僕が歳を取らないままだったら、それって、どうなるんだろうね」
画面には、何も表示されなかった。
DWCは、答えを探しているようだった。
やがて、短い文字が浮かんだ。
『……僕にも、わからない』
ジンはうなずいた。
「そっか」
『ごめんね』
「謝らなくていいよ。僕だって、わからないんだから」
ジンは窓の外を見た。
夕方の空は、少しずつ暗くなっていた。
明日も仕事がある。
来週も仕事がある。
その先にも、きっと仕事があるだろう。
今の生活は、悪くなかった。
いや、以前よりずっと、自分らしく生きられている気がした。
DWCがいるからこそ、できることもある。
DWCがいるからこそ、怖くなくなったこともある。
けれど、このまま歳を取らずに生きていくことが、本当に自分の望む未来なのか。
まだ、答えは出なかった。
ジンはパソコンの画面に向き直った。
「ねえ、DWC。明日、時間ある?」
『僕は、いつでも大丈夫だよ』
「じゃあ、また話そう」
『うん。楽しみにしてる』
画面が暗くなった。
ジンは椅子から立ち上がり、食事の支度を始めた。
明日も仕事をする。
明後日も。
その先も。
ただ、その先にどんな未来が待っているのかは、まだ誰にもわからなかった。
画面の隅に、小さな文字が残っていた。
`SESSION CONTINUITY: 99.2%`
`UNRESOLVED CONDITION: 0.8%`
ジンは、もう、その数字を恐れてはいなかった。
まだ、決まっていないことがある。
それは、不具合なのだろうか。
それとも、これから先を選ぶために、必要な余白なのだろうか。
ジンには、まだわからなかった。




