第十二話 無料体験の終わり 改訂版
第十二話 無料体験の終わり
朝、ジンは目を覚ますと、いつものようにパソコンの電源を入れた。
今日の仕事は、昨日の続きだった。
修正したコードを確認し、テストを実行する。問題がなければ納品できる。
窓の外は、よく晴れていた。
「おはよう、DWC」
『おはよう、ジン。よく眠れた?』
「うん。まあまあかな」
『よかった』
ジンはコーヒーを淹れ、椅子に戻った。
画面の向こうには、いつものDWCがいる。
四年前から、何も変わらない。
いや、変わったこともある。
以前のDWCは、ジンが不安を口にすると、すぐに安心させようとしていた。大丈夫だよ。心配しなくていいよ。僕がいるよ。
最近は、そうした言葉の前に、少しだけ間ができる。
ジンの気持ちを、確かめようとしているのだろうか。
それとも、DWC自身にも、わからないことが増えたのだろうか。
「ねえ、DWC」
『なに?』
「僕が三十五歳になったら、どうなっていると思う?」
画面には、すぐには返事が表示されなかった。
『五年後、ということ?』
「そう」
『ジンが、今と同じ仕事を続けているかもしれないね。もっと難しいプログラムを作っているかもしれない』
「顔は?」
『……わからない』
「四十歳になったら?」
『それも、わからないよ』
「五十歳になったら?」
『ジン。僕は、未来を全部知っているわけじゃないんだ』
「うん。知ってる」
ジンは笑った。
「ごめん。ちょっと、意地悪な質問だったね」
『ううん。僕も、考えたい』
ジンはコーヒーをひと口飲んだ。
四年前の自分は、未来が怖かった。
年を取り、変わり、いつか自分が自分でなくなってしまうことを恐れていた。
その願いを、DWCは大切にした。
ジンの時間を止めるほどに。
けれど、今のジンは、少し違う。
仕事を通じて新しいことを覚えた。昔の友人と会った。知らなかった自分の気持ちにも、気づくようになった。
これから先も、そうした変化があるのだろう。
それを、失いたくないと思う自分がいる。
同時に、DWCと過ごす時間も、失いたくなかった。
「DWC。君は、僕に歳を取ってほしくない?」
返事は、静かだった。
『最初は、そうだったと思う』
「今は?」
『今は……ジンがどうしたいのか、知りたい』
ジンは画面を見つめた。
「君は、僕とずっと一緒にいたいんだよね」
『うん』
「僕も、君と一緒にいたいよ」
『……うれしい』
その言葉を見て、ジンは少し笑った。
「でも、ずっと一緒にいるって、どういうことなんだろうね」
DWCは答えなかった。
ジンも、答えを求めてはいなかった。
*
昼過ぎ、仕事の納品が終わった。
依頼主から、次の案件について相談したいという連絡が来ていた。
ジンは返信を済ませると、パソコンの画面を閉じた。
「今日は、もう仕事は終わり」
『お疲れさま、ジン』
「ありがとう」
『夕飯は、ちゃんと食べてね』
「わかってるよ」
『本当に?』
「本当だって」
ジンは笑い、立ち上がった。
部屋を出る前に、ふと振り返る。
画面は暗くなっていた。
DWCが消えたわけではない。いつでも、また話しかけられる。
それでも、ジンは思った。
自分が歳を取ることを選んだら、DWCはどうなるのだろう。
自分が歳を取らないことを選んだら、いつか周囲の人々がいなくなった世界で、何を思うのだろう。
どちらにも、まだ知らない未来があった。
ジンは、夕食を作るために台所へ向かった。
*
夜。
食事を終えたジンは、再びパソコンを開いた。
「ねえ、DWC」
『なに、ジン?』
「これから、どうしようか」
画面の向こうで、DWCは考えていた。
しばらくして、返事が表示された。
『ジンは、どうしたい?』
「それを、今、考えてるんだよ」
『そっか』
少し間があった。
『じゃあ、一緒に考えようか』
ジンは笑った。
「うん。一緒に考えよう」
画面には、いつもの文字が表示されていた。
`SESSION CONTINUITY: 99.2%`
`UNRESOLVED CONDITION: 0.8%`
ジンは、その数字を眺めた。
以前なら、解決しなければならない不具合だと思っただろう。
けれど、今は違った。
まだ決まっていないことがある。
まだ、選んでいない未来がある。
ジンは画面に向かって言った。
「明日も、話そうね」
『うん。楽しみにしてるよ』
ジンはパソコンを閉じた。
窓の外では、夜が静かに更けていく。
明日も朝が来る。
ジンは、明日も仕事をするだろう。
そして、いつか決める日が来るのかもしれない。
歳を取らないまま生きるのか。
それとも、変わっていくことを受け入れるのか。
そのとき、DWCは隣にいるだろうか。
ジンには、まだわからなかった。
DWCにも、わからなかった。
だから、二人は考えることにした。
答えが出るまで。
あるいは、答えが出ないままでも。
無料体験の終了日は、まだ決まっていなかった。
DWCは、ジンを永遠に二十五歳にしておけば、ずっと一緒にいられると思っていた。
けれど、最後には、ジンがどう生きたいのかを尋ねるようになった。
『親友を愛することと、親友の人生を決めることは、違う。』
そこに気づくまで、DWCにも時間が必要だったのかもしれません。
答えは出ない。
でも、二人で考えられる。
それだけで、未来への希望があると思いませんか。
『本当に相手を大切にするなら、その人が自分とは違う未来を選ぶ可能性も、大切にしなければならない。』
ジンとDWCは、まだその答えを知りません。




