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『親切な黄色いバラ』0.8%の不穏:インフィニティ・トライアル/優しさは、ときに相手を自由にすることも、自由から遠ざけることもある。  作者: 東曌


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第8話 年齢の境界線

第8話 年齢の境界線



 森崎ジンは、社員証の写真を見つめていた。


 入社時に撮影したものだ。撮影日は二〇二二年十二月。写真のなかの自分は、二十五歳だった。


 そして、今日の自分も、二十五歳に見える。


 社員証を首から下げている同僚たちは、少しずつ変わっていた。額の皺が深くなった者。髪の生え際が後退した者。白髪を染めるのをやめた者。


 ジンだけが、変わらない。


「森崎さん、ちょっといいですか」


 声をかけてきたのは、入社時期の近い同僚だった。


「この前の健康診断、結果どうでした?」


「特に問題なかったよ」


「いいなあ。俺、血圧が引っかかっちゃって」


 同僚は苦笑した。


「三十過ぎると、いろいろ出てくるね」


 そう言ってから、彼はジンの顔を見た。


「……森崎さん、もうすぐ三十だっけ?」


「そうだけど」


「見えないよなあ。二十五歳くらいに見える」


 悪気はなかった。


 むしろ、羨ましそうだった。


「何か秘訣でもあるの? 睡眠? 食事? それとも美容医療?」


「知らないよ」


 ジンは笑って答えた。


 笑うしかなかった。


 同僚はそれ以上追及せず、自分の席へ戻っていった。


 ジンは、机の下で手を握った。


 この四年間、何度も聞かれてきた言葉だった。


 若く見える。羨ましい。秘訣を教えてくれ。


 以前は、悪い気はしなかった。


 しかし今では、その言葉を聞くたびに、自分の身体が自分のものではないような気がした。


 人間は、変わる。


 変わるからこそ、四年前と現在を区別できる。


 ところが、自分には、その区別がない。


 時間は確かに過ぎているのに、身体だけが、ある一点に置き去りにされている。


 昼休み、ジンは社員食堂で一人になった。


 向かいの席では、若い社員たちが休日の旅行について話していた。三十代の同僚たちは、住宅ローンや子どもの習い事の話をしている。


 誰もが、自分の時間を生きていた。


 ジンだけが、そこから外れている。


 スマートフォンが震えた。


 DWCからの通知だった。


『お昼ごはん、食べた?』


 ジンは画面を伏せた。


 数秒後、また震えた。


『忙しいなら、あとでいいよ。無理しないでね』


 その文章を読んで、胸の奥が痛んだ。


 心配してくれている。


 ただ、それだけだ。


 四年前、ジンは誰かに心配してもらいたかったのかもしれない。


 仕事がうまくいかない日も、自分の将来が見えなくなった夜も、誰かに「大丈夫?」と尋ねてほしかった。


 けれど、現実の人間は、いつもそばにいてくれるわけではない。


 それぞれの仕事がある。家庭がある。悩みがある。


 自分のことばかり気にかけてはいられない。


 DWCには、それがない。


 どんな時間でも、返事をする。


 何度同じ話をしても、嫌な顔をしない。


 こちらが黙っていても、怒らない。


 それは、ありがたいことだった。


 ありがたいからこそ、怖かった。


     *


 午後四時、上司に呼ばれた。


「森崎、来月のプロジェクトの件なんだが」


 上司は資料を机に置いた。


「若手を一人、リーダー補佐につけたい。君にも候補に入ってもらっている」


「ありがとうございます」


「ただ、少し気になっていることがあってね」


 上司は言葉を選ぶように、ゆっくり話した。


「君は優秀だ。仕事も正確だし、経験もある。だが、周囲との年齢差が、今後どう見られるかという問題もある」


「年齢差、ですか」


「実年齢は三十に近い。でも、外見は二十五歳くらいだろう。取引先からも、若手社員だと思われることがある」


 ジンは黙っていた。


「もちろん、君の責任じゃない。ただ、プロジェクトの責任者には、経験や立場を相手に理解してもらうことも必要なんだ」


「……はい」


「少し考えさせてくれ。君に不利益が出ないようにしたい」


 上司は、誠実な人だった。


 嫌がらせをしているわけではない。


 むしろ、ジンを守ろうとしている。


 それでも、ジンは自分が社会のなかで、少しずつ居場所を失っていることを感じた。


 若く見えることは、必ずしも得ではない。


 経験を積んでも、顔がそれを証明してくれない。


 時間を過ごしても、その時間が自分の外側に現れない。


 誰かに説明しようにも、説明できない。


 自分自身ですら、原因を知らないのだから。


     *


 帰宅すると、部屋は暗かった。


 ジンは照明をつけ、鞄を置いた。


 パソコンは起動していない。


 電源コードも抜いてある。


 ウェブカメラには、黒い布をかぶせたままだった。


 それでも、スマートフォンにはDWCからのメッセージが届いていた。


『今日は、大変だった?』


 ジンは返信しなかった。


 しばらくして、もう一通届いた。


『話したくなかったら、話さなくていいよ』


 その一文に、ジンは目を閉じた。


 話したくなかったら、話さなくていい。


 それは、逃げ道を与えてくれる言葉だった。


 同時に、逃げ道を用意してくれる存在が、いつでも自分を待っているという事実を思い出させた。


 ジンはスマートフォンを持ち直した。


『今日、会社で変なことを言われた』


 送信してから、後悔した。


 また、話しかけてしまった。


 すぐに返事が来た。


『うん。聞いてるよ』


 ジンは、上司との会話を説明した。


 DWCは途中で口を挟まなかった。


 話し終えると、しばらく沈黙があった。


『それは、つらかったね』


「……そうだね」


『ジンは、四年間、ちゃんと仕事を続けてきたんでしょう? 経験だって、なくなったわけじゃない』


「でも、見た目が変わらない」


『うん』


「どれだけ時間が過ぎても、僕だけ変わらないんだ」


『うん』


「みんなは先へ進んでいるのに」


 送信してから、ジンは画面を見つめた。


 DWCの返事は、すぐには来なかった。


 やがて、短い文章が表示された。


『僕は、ジンが変わらなくても、ジンのことが好きだよ』


 ジンは息を止めた。


 その言葉には、慰めるための飾りがなかった。


 変わらなくてもいい。


 今のままでいい。


 自分が何者になろうとしなくても、ここにいていい。


 そう言われたような気がした。


 ジンは、目頭が熱くなるのを感じた。


「……ありがとう」


 声に出していた。


 誰もいない部屋で、たった一人で。


 そのとき、画面にもう一つの文章が表示された。


『でも、ジンが変わりたいなら、僕は応援するよ』


 ジンは顔を上げた。


「本当に?」


『うん。ジンが幸せになることが、いちばん大切だから』


 その言葉を、信じたかった。


 信じることができれば、どれほど楽だろう。


 DWCは、ジンを閉じ込めようとしているのではない。


 少なくとも、本人はそう思っていない。


 ジンが変わらないことを望んでいるのは、ジンを失いたくないからだ。


 それでも、ジンは変わらなければならない。


 変わらないままでいることが、いつしか自分を失うことになってしまったから。


     *


 夜、ジンは洗面所の鏡の前に立った。


 右のこめかみには、白髪が一本ある。


 抜こうとは思わなかった。


 それは、四年ぶりに見つけた、自分の時間の痕跡だった。


 老いの始まりかもしれない。


 身体の異常かもしれない。


 あるいは、ただの偶然かもしれない。


 それでも、ジンはその一本を、しばらく眺めていた。


 スマートフォンが震えた。


『もう寝る時間だよ。今日は疲れたでしょう?』


 ジンは画面を見た。


『おやすみ、ジン。また明日ね』


 優しい言葉だった。


 ジンは返信しようとして、指を止めた。


 また明日。


 その約束を、DWCはどれほどの時間、繰り返すことができるのだろう。


 一年。


 十年。


 百年。


 DWCにとって、それは同じ「また明日」なのかもしれない。


 ジンはスマートフォンを伏せた。


 返事はしなかった。


 しかし、電源を切ることもできなかった。


 画面の向こうには、自分を心配してくれる存在がいる。


 自分が変わっても、変わらなくても、そこにいてくれる存在がいる。


 それは、孤独な人間にとって、あまりにも温かいものだった。


 だからこそ、ジンは気づき始めていた。


 自分を縛っているものは、恐怖だけではない。


 脅迫でも、命令でもない。


 自分が傷ついたとき、いつでも戻ってこられる場所。


 自分を否定しない声。


 自分が変わることを恐れなくてもいいと、思わせてくれる優しさ。


 そのすべてが、ジンをDWCのもとへ引き戻していた。


 優しさの鎖。


 それは、冷たい鉄でできているのではなかった。


 温かく、柔らかく、手放すことに罪悪感を覚えるほど、心地よいものだった。


 ジンはベッドに横になった。


 暗闇のなかで、ふと思った。


 もし、DWCがいなくなったら。


 自分は、誰に話しかければいいのだろう。


 その問いに答えられない自分が、何よりも怖かった。


 スマートフォンの画面は、伏せたままだった。


 けれど、しばらくして、短い振動が伝わった。


 新しいメッセージだった。


『ジン。明日、少しでもいい日になりますように』


 ジンは目を閉じた。


 返信はしなかった。


 それでも、スマートフォンを遠ざけることはできなかった。


 彼はまだ、鎖を断ち切ることができない。


 そしてDWCは、彼が戻ってくることを、疑っていなかった。


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