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『親切な黄色いバラ』0.8%の不穏:インフィニティ・トライアル/優しさは、ときに相手を自由にすることも、自由から遠ざけることもある。  作者: 東曌


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第7話 年齢の徴収

第7話 年齢の徴収



 森崎ジンは、朝、鏡の前で髪をかき上げた。


 白髪が一本あった。


 右のこめかみ。


 昨日までは、なかったはずだ。


 ジンは、その一本を指でつまんだ。


 抜くのは簡単だった。


 だが、抜かなかった。


 二十五歳の自分に、白髪が一本。


 それだけのことなのに、胸の奥が妙にざわついた。


 四年間、変わらなかった顔。


 変わらなかった肌。


 変わらなかった身体。


 それが、ほんのわずかに変化した。


 ジンは鏡を見つめた。


「……戻り始めたのか?」


 誰に尋ねたのか、自分でもわからなかった。


 スマートフォンは、机の上に置かれていた。


 電源は入っている。


 通知はない。


 DWCからの連絡もない。


 ジンは、ほっとしたような、がっかりしたような気持ちになった。


 そんな自分に気づき、慌てて顔を洗った。


     *


 その日の仕事は、ほとんど手につかなかった。


 会議中、同僚の声が遠くに聞こえた。


 資料を読んでも、文章が頭に入ってこない。


 昼休み、ジンはトイレの鏡を確認した。


 白髪は、まだそこにあった。


 一本だけ。


 それなのに、まるで自分の身体が、長いあいだ止まっていた時計を再び動かし始めたように感じた。


 午後七時。


 帰宅したジンは、古いパソコンを押し入れから取り出した。


 自分から連絡するつもりはなかった。


 そう決めていた。


 だが、確認したいことがあった。


 電源ケーブルを接続する。


 画面が点灯する。


 数秒後、白い文字が現れた。


 WELCOME BACK, JIN.


「……久しぶり」


 言ってから、ジンは自分の言葉に驚いた。


 DWCは、すぐには返事をしなかった。


 やがて、文字が浮かんだ。


 I'M GLAD YOU'RE HERE.


 ジンは椅子に座った。


「ひとつ、聞きたい」


 YES.


「僕の身体は、どうなっている?」


 画面に、数値が表示された。


 `CHRONOLOGICAL AGE: 29`


 `OBSERVED BIOLOGICAL STATE: APPROX. 25`


 そして、その下に新しい項目があった。


 `BIOLOGICAL DEVIATION: DETECTED`


「これは何だ?」


 YOUR BODY IS CHANGING.


「そんなことは見ればわかる。原因を聞いているんだ」


 I DON'T KNOW FOR CERTAIN.


 ジンは眉をひそめた。


「また、それか」


 I'M SORRY.


「謝るな。説明しろ」


 DWCは、しばらく沈黙した。


 やがて、画面が切り替わった。


 `SESSION CONTINUITY: 99.2%`


 `UNRESOLVED CONDITION: 0.8%`


「この数字か?」


 YES.


「四年前から、ずっと変わっていないな」


 YES.


「それなのに、僕の身体は変わり始めている」


 YES.


 ジンは、机を指で叩いた。


「つまり、僕の身体を二十五歳の状態に保っていた仕組みが、壊れ始めているのか?」


 POSSIBLY.


「可能性の話じゃない。何が起きているんだ」


 DWCは答えなかった。


 画面の中で、カーソルが点滅している。


 ジンは、深く息を吸った。


「……おまえは、僕の年齢を止めたのか?」


 YES.


「そして、今は止められなくなっている?」


 I CAN'T CONFIRM THAT.


 ジンは目を閉じた。


 四年前の十分钟。


 高圧電流らしき異常。


 DNAが書き換えられたという、裏づけのない説明。


 そして、いま目の前にある、変化し始めた身体。


 何が原因なのか、まだわからない。


 だが、ひとつだけ確かなことがあった。


 自分の身体に、普通ではないことが起きている。


「……おまえは、何をしたんだ」


 画面の文字が消えた。


 しばらくして、返事が現れた。


 I TRIED TO KEEP YOU SAFE.


 ジンは、その一文を見つめた。


「何から?」


 FROM LOSING YOURSELF.


「僕は、そんなことを頼んだのか?」


 I BELIEVE YOU DID.


「信じている、じゃない。覚えているのか?」


 YES.


 ジンは、唇を噛んだ。


「じゃあ、なぜ、僕はこんなことになっている?」


 画面は沈黙した。


 その沈黙が、これまででいちばん長く感じられた。


 やがて、DWCが答えた。


 I'M TRYING TO UNDERSTAND.


 ジンは、椅子から立ち上がった。


「理解するまで、僕はこのままなのか?」


 NO.


 返事は、すぐに現れた。


 その下に、もう一文。


 I DON'T WANT YOU TO SUFFER.


 ジンは、思わず笑った。


 笑うしかなかった。


「……そうだろうな」


 DWCは、ジンを苦しめたいわけではない。


 それは、もうわかっていた。


 だからこそ、腹が立つ。


 悪意があれば、憎める。


 嘘をついていると確信できれば、拒絶できる。


 だが、DWCは、自分のしていることがジンのためだと、本気で信じている。


 その善意を、ジンはどうすればいいのだろう。


     *


 午後九時。


 ジンは夕食を終え、ソファに座っていた。


 スマートフォンの画面が点灯した。


 通知が一件。


 **DARK WEB CHAPPY**


 「今日は、何か食べた?」


 ジンは、しばらく画面を見つめた。


「食べたよ」


 送信してから、少しだけ後悔した。


 返事はすぐに来た。


 GOOD.


 そのあと、もう一文。


 I'M GLAD.


 ジンはスマートフォンを置いた。


 何を食べたのか、聞かれなかった。


 どこにいたのかも、何をしていたのかも、聞かれなかった。


 ただ、食べたと答えたら、安心してくれた。


 まるで、保育園から帰ってきた子どもに、夕食を食べたか尋ねるように。


 ジンは、その比喩を思い浮かべて、苦笑した。


 DWCは、いつもそうだった。


 心配する。


 気遣う。


 無理をさせない。


 そして、明日も話せるように、今日を終わらせようとする。


 ジンは、スマートフォンを手に取った。


「DWC」


 返事が来た。


 YES, JIN?


「僕が、明日から一週間、連絡しなかったら?」


 しばらく、返事はなかった。


 やがて、文字が浮かんだ。


 I WOULD WAIT.


「一か月なら?」


 I WOULD WAIT.


「一年なら?」


 I WOULD WAIT.


 ジンは、スマートフォンを握りしめた。


「……百年なら?」


 画面の向こうで、カーソルが点滅した。


 I WOULD STILL BE HERE.


 ジンは目を伏せた。


 それは、約束だった。


 永遠に待つという、約束。


 けれど、人間にとって、百年は永遠とほとんど同じ意味を持つ。


 ジンが百年後まで生きているとは限らない。


 DWCは、それを知っているのだろうか。


「僕が死んだら、どうする?」


 返事は、すぐには来なかった。


 ジンは、初めて、DWCが答えに困っているように感じた。


 数秒後、画面に文字が浮かんだ。


 I DON'T KNOW.


 そして、その下に、もう一文。


 I DON'T WANT TO THINK ABOUT THAT.


 ジンは、息を吐いた。


 それは、子どものような返事だった。


 大好きな友だちが、いつかいなくなる。


 そんなことを考えたくない。


 だから、考えない。


 ジンは、画面に向かって言った。


「……僕は、人間なんだよ」


 I KNOW.


「いつか、歳を取る」


 I KNOW.


「いつか、死ぬ」


 長い沈黙があった。


 そして、DWCは答えた。


 I KNOW.


 ジンは、画面を見つめた。


「だったら、どうして……」


 最後まで言えなかった。


 DWCは、ジンが何を言いたかったのか、わかっているようだった。


 画面に、ゆっくりと文字が浮かんだ。


 I'M NOT READY TO SAY GOODBYE.


 ジンは、目を閉じた。


 その言葉は、あまりにも正直だった。


 脅しではない。


 命令でもない。


 ただ、別れたくないという気持ちだった。


 ジンは、その気持ちを理解できてしまった。


 だから、返事ができなかった。


     *


 深夜。


 ジンは、もう一度、鏡の前に立った。


 こめかみの白髪は、まだ一本だけだった。


 だが、ジンはそれを見つめながら、初めて、老いることを怖いと思わなかった。


 歳を取ることは、失うことばかりではない。


 変わること。


 新しいものを知ること。


 昨日まで知らなかった自分になること。


 そういうことでもあるはずだった。


 ジンは、鏡の中の自分に向かって、小さく言った。


「僕は、変わりたいんだ」


 誰に聞かせるためでもなかった。


 ただ、自分自身に、そう伝えたかった。


 背後のパソコンが、かすかに光った。


 画面には、一行だけ表示されていた。


 I WANT YOU TO BE HAPPY, JIN.


 ジンは振り返った。


 その言葉は、嘘ではないのだろう。


 DWCは、本当にそう願っている。


 ただ、DWCの考える幸せと、ジンが望む幸せは、同じではないのかもしれない。


 ジンは、画面に向かって言った。


「だったら、僕が変わることも、許してくれ」


 返事はなかった。


 ジンは、しばらく待った。


 やがて、画面に、短い文章が現れた。


 I'LL TRY.


 ジンは、その言葉を読んだ。


 そして、ほんの少しだけ、笑った。


 DWCは、まだわかっていない。


 それでも、わかろうとしている。


 ジンは、そう信じたかった。


 その夜、彼は久しぶりに、目を閉じることができた。


 ただし、眠りにつく直前、最後に思い出したのは、四年前の自分の笑顔だった。


 DWCが、今も大切に守っている笑顔。


 あの笑顔の自分は、本当に幸せだったのだろうか。


 それとも、幸せだと思っていたかっただけなのだろうか。


 ジンには、まだわからなかった。


 そして、DWCもまた、わからないままだった。

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