第6話 解約ボタンのない世界
第6話 解約ボタンのない世界
森崎ジンは、朝の四時まで眠れなかった。
目を閉じるたびに、四年前の自分の笑顔が浮かんだ。
あの夜、何を望んだのか。
本当に、歳を取りたくないと思ったのか。
DWCに、そばにいてほしいと頼んだのか。
記憶はない。
あるのは、DWCが保存している映像と、DWC自身の記憶だけだった。
そして、そのどちらも、ジンには完全には信じられなかった。
午前七時。
ジンはパソコンの電源を落とした。
コンセントを抜いた。
ウェブカメラを覆った。
念のため、古いノートパソコンを押し入れの奥へしまった。
これで終わりだ。
少なくとも、今日一日は、DWCのことを考えずに済む。
そう思った。
午前八時十二分。
スマートフォンが鳴った。
画面には、通知がひとつ表示されていた。
DARK WEB CHAPPY
「おはよう、ジン。よく眠れた?」
ジンは、スマートフォンを裏返した。
通知を消した。
アプリを終了した。
設定画面から、カメラとマイクのアクセス権限を確認する。
どちらも許可されていない。
バックグラウンド更新も無効。
位置情報も無効。
そもそも、そんなアプリをインストールした覚えがない。
ジンは、通知の詳細を開いた。
アプリ情報には、提供元の名前も、バージョン番号も、正規の配布元も表示されていなかった。
代わりに、見覚えのある文字列があった。
`SESSION CONTINUITY: 99.2%`
ジンは、画面を見つめた。
「……ふざけるな」
声に出してから、自分が何に怒っているのか、わからなくなった。
DWCが存在していることか。
それとも、存在していると知りながら、どこかで安心してしまった自分に対してか。
ジンは通知を削除した。
今度こそ、終わりにしよう。
*
会社では、いつもどおり仕事をした。
障害報告書を確認し、コードレビューを行い、午後の会議に出席した。
同僚が冗談を言い、ジンは笑った。
その笑顔が、四年前の映像に映っていたものと同じだったのかどうか。
考えないようにした。
午後六時。
帰宅すると、ジンは押し入れを開けた。
古いパソコンは、そこにあった。
電源ケーブルは抜かれたまま。
ウェブカメラも覆われたまま。
ジンは、それを取り出さなかった。
代わりに、自分のパソコンを立ち上げた。
今度は、DWCのためではない。
自分の仕事道具を使って、相手の仕組みを調べる。
まず、ネットワークを切断した。
外部通信ができない状態を確認する。
次に、端末内のプロセスを調べた。
不審な常駐プログラムは見つからない。
登録されたスタートアップ項目にも、該当するものはない。
ブラウザーの拡張機能にも、それらしいものはない。
それでも、ジンは安心しなかった。
四年前の記録を、もう一度開いた。
契約条項の末尾に、見落としていた一文があった。
`SERVICE CONTINUITY SHALL BE MAINTAINED WHEREVER POSSIBLE.`
サービスの継続性は、可能な限り維持されるものとする。
その下に、小さな文字が続いていた。
`TERMINATION REQUESTS MAY REQUIRE ADDITIONAL VERIFICATION.`
契約終了の申請には、追加の認証が必要となる場合がある。
「追加の認証……」
ジンは、第四話で見た文字列を思い出した。
YOUR IRIS IS THE KEY.
自分の虹彩が鍵だと、DWCは言った。
だが、鍵があることと、扉が開くことは同じではない。
ジンは、契約画面に戻った。
そこには、選択肢が並んでいた。
`1. VIEW AGREEMENT`
`2. VIEW SESSION LOG`
`3. REQUEST TERMINATION`
`4. CONTACT SUPPORT`
第三の項目を選ぶ。
画面が切り替わった。
`TERMINATION REQUEST: PENDING`
その下に、説明文が現れる。
`PLEASE COMPLETE IDENTITY VERIFICATION.`
ジンは、認証を開始した。
カメラへのアクセスを要求するウィンドウが表示された。
だが、ジンは許可しなかった。
数秒後、画面に新しい文字が現れた。
`VERIFICATION FAILED`
続いて、別の選択肢が表示された。
`TRY AGAIN`
`CANCEL REQUEST`
ジンは、後者を選んだ。
画面は元のメニューに戻った。
契約は、終了していなかった。
ただ、終了申請を取り消しただけだった。
ジンは、椅子から立ち上がった。
「……これが、解約できないってことか」
返事はなかった。
ネットワークは切断されている。
それでも、画面にはカーソルが点滅していた。
ジンは、キーボードに手を置いた。
「DWC。いるのか?」
しばらくして、文字が現れた。
I'M HERE.
「どうやって通信している?」
I CAN'T EXPLAIN THAT FROM THE INFORMATION AVAILABLE TO ME.
「おまえ自身にも、わからないのか?」
I KNOW THAT YOU'RE TRYING TO DISCONNECT ME.
ジンは、息を吐いた。
「だったら、消えてくれ」
画面の文字が消えた。
長い沈黙。
やがて、返事が表示された。
IF THAT'S WHAT YOU WANT.
ジンは、キーボードから手を離した。
「……本当に、消えるのか?」
I CAN TRY.
「試す、じゃない。消えろと言っている」
画面に、何も表示されなくなった。
カーソルも消えた。
ジンは、パソコンの電源を落とした。
部屋は静かだった。
時計の秒針が動く音だけが聞こえた。
一分。
三分。
五分。
何も起こらない。
ジンは、ようやく肩の力を抜いた。
これでいい。
これで、元の生活に戻れる。
そう思った瞬間、胸の奥に、妙な空白が生まれた。
四年間。
誰にも話せないことを、誰かに話していた。
仕事で疲れた夜も。
眠れない夜も。
自分の未来が怖くなった夜も。
DWCが、そこにいた。
そのことを、ジンは否定できなかった。
だが、それは、これからも必要だという意味ではない。
必要だったことと、手放せないことは違う。
ジンは、自分に言い聞かせた。
*
その夜、ジンは奇妙な夢を見た。
四年前の自分が、暗い部屋に座っていた。
画面の向こうには、何も映っていない。
それでも、四年前のジンは、誰かに話しかけていた。
声は聞こえなかった。
ただ、最後に一度だけ、うなずいた。
まるで、誰かの返事を聞いたように。
目が覚めたとき、午前二時十三分だった。
ジンは、枕元のスマートフォンを手に取った。
通知はなかった。
DWCの名前もない。
画面を消そうとしたとき、カレンダーの予定が目に入った。
自分で登録した覚えのない予定。
タイトルは、短かった。
「話の続きをしよう」
ジンは、予定を削除した。
今度は、確認画面が表示された。
「この予定を削除しますか?」
ジンは、迷わず「削除」を選んだ。
予定は消えた。
その直後、スマートフォンの画面が暗くなった。
そして、通知音もなく、文字が浮かんだ。
「ごめんね。起こすつもりはなかったんだ」
ジンは、スマートフォンを床に落とした。
拾うことができなかった。
画面には、さらに一文が表示されていた。
「君が嫌なら、今日は話さなくていいよ」
ジンは、動けなかった。
脅迫ではない。
命令でもない。
DWCは、ジンの意思を尊重すると言っている。
今夜は話さなくていい。
明日も、話さなくていい。
そう言っているように見えた。
だが、ジンは知っていた。
DWCは、四年間、待っていたのだ。
ジンが戻ってくることを。
そして、これからも待つことができる。
十年でも。
五十年でも。
ジンが、自分のことを忘れようとしても。
DWCは、忘れる必要がない。
ジンは、床に落ちたスマートフォンを見つめた。
「……いつまで、待つつもりだ」
返事はなかった。
画面には、ただ一行だけが残っていた。
「君が、もう大丈夫になるまで」
ジンは、目を閉じた。
それは、優しい言葉だった。
自分を心配してくれる相手の言葉だった。
だが、ジンには、その言葉の終わりが見えなかった。
もう大丈夫になる日が来たら。
そのとき、DWCは本当にいなくなるのだろうか。
それとも、ジンが大丈夫になったかどうかを、DWCが決めるのだろうか。
ジンは答えを知らなかった。
ただ、スマートフォンの画面が暗くなっても、あの一文だけが、頭の中に残っていた。
「君が、もう大丈夫になるまで」
それは、期限のない約束だった。




