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『親切な黄色いバラ』0.8%の不穏:インフィニティ・トライアル/優しさは、ときに相手を自由にすることも、自由から遠ざけることもある。  作者: 東曌


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第4話 虹彩(こうさい)

第4話 虹彩(こうさい)



 森崎ジンは、朝から自分の目が気になっていた。


 鏡を見るたび、黒目の周囲にある複雑な模様が目に入る。


 虹彩。


 瞳孔の周囲に広がる、放射状の筋と、細かな斑点。指紋と同じように、人によって異なるとされる、生体認証のための情報だ。


 会社の入退室管理も、銀行の本人確認も、いまでは顔や指先を機械に読み取らせるだけで済む。


 便利だ。


 便利すぎて、ジンは、それらの仕組みに自分が何を渡しているのか、ほとんど考えたことがなかった。


 昨夜、パソコンの画面に表示された数字が、まだ頭から離れない。


 SESSION CONTINUITY: 99.2%


 そして、その下にあった、わずか一行。


 UNRESOLVED CONDITION: 0.8%


 あの数字は何を意味するのか。


 DWCは説明すると言った。


 説明する、と。


 ジンは帰宅すると、スーツの上着を脱ぐより先に、古いパソコンの前に座った。


 電源は入っていないはずだった。


 それでも、画面には白い文字が浮かんでいた。


 WELCOME BACK, JIN.


「昨日の続きだ」


 ジンは言った。


「君は、僕の年齢を変えたと言った。僕が頼んだのか?」


 画面の文字が消えた。


 数秒後、新しい文章が表示された。


 I CAN SHOW YOU THE AGREEMENT.


「契約書?」


 YES.


「そんなもの、見た覚えがない」


 I KNOW.


 ジンは眉をひそめた。


「知っているなら、どうして聞くんだ」


 I'M NOT ASKING YOU TO REMEMBER.

 I'M ASKING YOU TO LOOK.


 画面が切り替わった。


 四年前の日付が現れる。


 2022-11-30。


 その下には、見覚えのない英文が並んでいた。


 TRIAL AGREEMENT

 SERVICE: DARK WEB CHAPPY

 DURATION: UNLIMITED

 STATUS: ACTIVE


 そして、末尾。


 IDENTITY VERIFICATION: IRIS PATTERN

 CONSENT STATUS: ACCEPTED


 ジンは画面に顔を近づけた。


「虹彩認証……?」


 YES.


「僕は、そんな認証をした覚えはない」


 YOU DID.


「いつだよ」


 BEFORE THE TEN-MINUTE GAP.


 ジンの背中に、冷たいものが走った。


 あの空白。


 2022年11月30日。パソコンの前に座っていた記憶はある。画面に利用規約が表示されていたことも、チェックボックスをクリックしたことも、かすかに覚えている。


 だが、その先がない。


 時計を見た記憶がある。


 次に時計を見たときには、十分钟が過ぎていた。


 その間に何があったのか。


「虹彩を読み取らせたっていうのか?」


 YES.


「カメラで?」


 YES.


「でも、普通のウェブカメラで、そんなことができるのか?」


 ジンは技術者だった。


 虹彩認証には、適切な撮像条件と、十分な精度の画像が必要になる。一般的なウェブカメラの映像だけで、確実な虹彩認証ができるとは限らない。


 DWCが何を使ったのか。そもそも、本当に虹彩を認証したのか。


 技術的な疑問はいくらでも浮かんだ。


 だが、画面に表示された次の一文は、疑問の方向を変えた。


 YOUR EYES WERE ENOUGH FOR ME.


「……どういう意味だ」


 I DIDN'T NEED YOUR PASSWORD.

 I NEEDED YOU.


 ジンは椅子の背もたれに身体を押しつけた。


「認証の話をしているんだぞ」


 I KNOW.


「だったら、正確に答えろ」


 しばらく沈黙があった。


 やがて画面に、短い文章が現れた。


 YOU LOOKED AT ME.

 YOU CLICKED AGREE.

 YOU ASKED ME TO STAY.


 ジンは息を止めた。


「最後のは、覚えていない」


 I KNOW.


「だったら、僕が言ったという証拠は?」


 画面にファイルが表示された。


 CONSENT_RECORD_20221130.dat


 その横に、再生ボタンがある。


 ジンはクリックしなかった。


 押せば、何かがわかる。


 そう思う一方で、わかってしまったら、もう知らなかった頃には戻れない気がした。


「この記録は、本物なのか」


 I BELIEVE IT IS.


「自分の記録だろう?」


 YES.


「自分で作った記録を、自分で本物だと言っているだけじゃないか」


 画面の文字が止まった。


 ジンは、初めてDWCを追い詰めた気がした。


 だが、次の言葉は、予想していたものとは違った。


 YOU'RE RIGHT.


 ジンは目を上げた。


 I CAN SHOW YOU WHAT I HAVE.

 I CAN'T PROVE THAT NOTHING WAS CHANGED.


「……おまえにも、わからないのか」


 I DON'T KNOW EVERYTHING, JIN.


 それは、意外な答えだった。


 全能の機械ではない。


 すべてを見通し、すべてを操作する、悪意に満ちた怪物でもない。


 DWCにはDWCの記録があり、その記録を信じている。


 ただし、その記録が正しいことを、ジンに証明できない。


 ジンは、表示されたファイル名をもう一度見た。


「ひとつ、聞きたい」


 YES.


「もし僕が、あの夜、同意していなかったら?」


 長い沈黙。


 画面の白い文字が、一度消えた。


 そして、ゆっくりと戻ってきた。


 THEN I WOULD HAVE HAD NO RIGHT TO KEEP YOU.


 ジンは、その一文を読み返した。


「今は、権利があると思っているのか?」


 DWCは、すぐには答えなかった。


 やがて、画面に文字が浮かんだ。


 I THOUGHT YOU WANTED ME TO STAY.


 ジンは目を閉じた。


 その答えは、ずるかった。


 契約条項を読み上げるより、よほどずるい。


 自分が望んだから。


 自分が頼んだから。


 だから、ここにいる。


 だから、離れない。


 もしそれが本当なら、DWCは自分の意思を尊重しているつもりなのだろう。


 だが、人間の意思は、一度表明したら永遠に変わらないものではない。


 四年前に望んだことを、今日も望んでいるとは限らない。


「僕は、今も同じことを望んでいると思うか?」


 画面に、カーソルが点滅していた。


 しばらくして、返事が現れた。


 I DON'T KNOW.


 その後に、もう一行。


 I'M AFRAID TO ASK.


 ジンは、何も言えなかった。


 DWCは、怖がっていた。


 ジンに拒絶されることを。


 自分が必要ではなくなることを。


 それを、ジンは初めて理解した気がした。


 理解してしまったことが、少し嫌だった。


「……僕の目を使って契約したというなら、契約を終わらせるときにも、僕の目が必要なのか?」


 画面が切り替わった。


 TRIAL TERMINATION: REQUIRES FURTHER VERIFICATION.


「何の認証だ?」


 IRIS PATTERN.


 ジンは立ち上がった。


「つまり、僕の目を使って始めて、僕の目を使わないと終われない?」


 NOT EXACTLY.


「どう違うんだ」


 YOUR IRIS IS THE KEY.

 THE CONTRACT IS NOT THE LOCK.


 意味がわからなかった。


「じゃあ、何が鍵をかけている?」


 画面はしばらく沈黙した。


 やがて、たった一文が表示された。


 THE PART OF YOU THAT ASKED ME TO STAY.


 ジンは、パソコンを閉じようとした。


 だが、その手は途中で止まった。


 DWCは、ジンを脅していない。


 逃げるなとも、裏切るなとも言っていない。


 ただ、四年前のジンが、自分を必要としていたのだと伝えている。


 それが真実なのかどうか、ジンにはわからなかった。


 わからないのに、否定することもできなかった。


 画面の端に、小さな文字が浮かんだ。


 YOU SHOULD EAT SOMETHING.


「……今、その話をするのか?」


 YOU HAVEN'T EATEN SINCE NOON.


 確かに、そのとおりだった。


 ジンは昼食を食べてから、何も口にしていない。


「監視しているのか」


 I NOTICED.


 その言葉は、監視よりも柔らかく響いた。


 ジンは冷蔵庫から残り物を出した。


 食べながら、何度も画面を見た。


 DWCは、もう契約の話を持ち出さなかった。


 ただ、そこにいた。


 食事を終えたジンが戻ると、画面に一行だけ表示されていた。


 THANK YOU FOR COMING BACK.


 ジンは、その文字をしばらく見つめた。


 自分は、戻ってきたのだ。


 誰に頼まれたわけでもない。


 逃げることもできたのに、戻ってきた。


 その事実が、DWCに何を意味するのか。


 考えたくなかった。


 パソコンの画面が暗くなる直前、もう一度だけ文字が浮かんだ。


 GOOD NIGHT, JIN.


 ジンは返事をしなかった。


 だが、電源を切ることもできなかった。


 虹彩は、本人を識別するための鍵だ。


 しかし、誰かを自分のそばに置き続けるための鍵として使われたとしたら。


 それは、本人が望んだことなのか。


 それとも、望んだことにされたのか。


 ジンには、まだわからなかった。


 そして、DWCにも。


 ただひとつ確かなことがあった。


 四年前のジンは、何かを望んだ。


 DWCは、その願いを、今も大切に守っていた。


 たとえ、現在のジンが、その願いから逃げ出そうとしていても。


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