#91.それはあるこねこのもりがたり
――その日はとても暗い、どんよりとした雨の日だった。
街の中、母親からはぐれた仔猫は、よたよたと一人おぼつかないままに歩き、そして雨の中、子供達に捕まってしまう。
「きったねー仔猫だなぁ」
「今日はこいつつかって遊ぼうぜーっ」
「はははっ、けってー!!」
運の悪い事にモノの善悪の区別もつかなぬ悪童たちだったようで、捕まった仔猫は無残にもいじめられ、瞬く間に命の炎をすり減らしていってしまった。
(いたいよ、なんでいじめるの? なんでいたいことするの?)
抵抗する力も無く、逃げる事もできず、小さくかよわく鳴く事しかできなかった仔猫は、子供たちから無慈悲な痛めつけにあい、解放されたころには小さな体を痙攣させ、死ぬ寸前となってしまっていた。
(さむいよ……やだよぉ、いたくて、つらくて、かなしくて……)
世の何事も解からぬ幼い猫は、ただ自分の身に起きた痛みと苦しみと寒さ、寂しさに耐えられず、鳴く力すら残らず、天に召されようとしていた。
その時である。
「――今、助けるからっ」
小さな女の子が、突然駆けつけて抱きしめたのだ。
今にも命のともしびが消えそうだった仔猫は、最後の最後、抱きしめられて「あったかい」と感じたまま、眼を閉じた。
「ごめんねっ、見てたのにっ、見てたのに助けられなくってっ!!」
抱きしめながら、なんとかして雨の当たらぬ場所で手当をしようとしたのだろうか。
必死になって雨の中駆けだしていた中で、もうその仔猫が息を引き取ろうとしていたのに、まだ間に合うかもしれないと、諦められなかったのだ。
「私がっ、私がもっとはやくっ、助けられたら……っ、ごめんねっ、ごめんねっ」
この少女とて、猫をいじめていた悪童たちと比べても小柄なくらいで、一人で立ち向かえる力なんてなかったのだ。
それなのに、見殺しにしていたように感じて、罪悪感から謝り、涙を流していた。
せめて間に合ってと、どうか助かってと、そう願いながら。
「あ……あぁっ」
けれど、ようやく雨の当たらぬ家までたどり着いた時にはもう、仔猫は冷たくなってしまっていた。
助けられなかった。死んでしまった。
そういう結論に達する事が出来れば諦める事もできただろうが、少女は諦めることができなかった。
命が目の前で消えてしまう事に、まだ幼い心は耐えられなかったのだ。
「お、おねがいしますっ」
だから、少女は祈った。
自分ではどうにもできない事を神に頼る事は、人としてよくある事だったのだ。
少女以外に誰もいない家の中。
天井に向かって叫んだのだ。
「おねがいします神様っ、この子をっ、この仔猫を助けてあげてくださいっ」
自分になんともできない事でも、神様ならもしかしたらなんとかできるかもしれない。
そんな藁にもすがる思いのまま、仔猫を抱きしめながら、涙を流しながら跪いて願いを乞い。
そうして最後にこう告げたのだ。
「――私なんて、どうなってもいいから」
仔猫を助けられなかった事に、少女は酷く後悔していた。
無理やりにでも助けようとすれば何か変わったかもしれないのに、見殺しにするしかできなかった。
命が失われようとしていた。
独りぼっちの家の中、また命が失われようとしていた。
「おねがいだから、この子を、この子だけでも、助けてください……もうだれもたすけられないなんて、いやなの……っ」
慈愛とか博愛とか、そんなものではなくて。
ただただ、命が目の前で失われるのが嫌だっただけ。
心無い人達にいじめられた末に死んでいくその光景が、自分の母親の時と同じように感じてしまって、何もしないではいられなかっただけ。
そんな歪な願い、本来なら届くはずもなかった。
『――助けてやろうではないか』
だが、その時ばかりは別であった。
威厳に満ちた男の声がし、少女ははっ、と、眼を見開く。
しん、と静まり返った家の中。
先ほどまで聞こえていた雨音が全く聞こえなくなり、少女は不思議な感覚にとらわれた。
「え……神、様……?」
『その身を差し出すなら、代償にその仔猫の魂を助けてやろう』
「魂を……?」
『そうだ。その仔猫は蘇らせても、最早肉体がボロボロですぐにまた死んでしまうだろう。だから、新たな肉体が必要なのだ』
「……私の、身体で、この子が蘇る……?」
『蘇らせることはできよう。どうだ。それでよければ、助けてやろうではないか』
悪魔の交渉のようであった。
だが、少女は迷いすらしなかった。
腕の中で冷たくなっている仔猫を今一度見つめ。
そしてそのボロボロの身体を見て、「確かにそうだわ」と納得し、頷いたのだ。
「もう、誰かが死ぬのは見たくないんです……お願いします、この子を助けてあげてください。私は、どうなってもいいですから」
『よかろう。ならば眼を閉じよ』
「はい」
『そしてこう伝えよ。「私の全てをあなたに捧げます」と。仔猫に向けて、な』
「私の全てをあなたに捧げます」
躊躇いなく眼を閉じ、すう、と息を吸い、言われた通りの言の葉を紡ぎ。
すると、身体がどんどんと軽くなってくるのを感じていた。
『魂と入れ替えたぞ。だが、お前はそのままでは消えてしまう』
「……はい」
『だが、それではあまりにも無責任というものだ』
「むきせき、にん……?」
『そうだ。勝手に死にかけた子猫を生き返らせただけだ。人としてな』
そうであろう、という声に、少女は目を開こうとし……しかし、それができなかった。
開くような目などどこにもなかったのだ。
そして、言葉を紡ぐ唇も、もう持ち合わせていなかった。
(ああそうか……私、もう身体をあの子に――)
『お前はこれから先、この仔猫の為に生きるのだ。「神の獣」の五人目。ケットシーの片割れとしてな』
(ケットシー……?)
『このままではこの仔猫はただかよわい少女のままであろう? 我の力を授けてやろうという訳だ。その代わりに、お前は常に魂に映った真実をこの仔猫に見せ続け、助けるのだ』
(魂だけになっても、この子を助けられるの……? それは、すばらしいわ!!)
『本望であろう? そして、その力を以て我に仕えよ。さあ、仔猫に自身の身に起きた事を教えてやるのだ。人の世の生き方も、な』
(……はい。解りました)
少女の魂はヒスイの水晶へと変化し、永久に変わらぬ不死のモノとなり。
そうして仔猫の魂が入り込んだ少女の身体もまた、魔神の力によって不老の獣人へと変化した。
「……あれ? わたしは、どうなったの……?」
見知らぬ家の中。
ぽつり、呟く少女に、ヒスイの水晶は優しく輝く。
(大丈夫、これからは私がずっと一緒だから……私が、守るからね)
「……このまるいの……なんだか……」
慣れない人間の少女の肉体感覚と幼い情緒の中。
けれど、その玉がどこか懐かしいぬくもりを発しているように感じられて、少女――ケットシーは、その玉を頬に当て、ふ、と眼を閉じた。
「ああ、なんてあったかい……」
そのぬくもりがずっとほしかったから。
寂しさの中、一人消えていくのが嫌だったから。
その水晶の温かさに、ケットシーは強い癒しと心強さを覚え、歩き出した。
誰もいない家。
そんな場所はもう、必要なかった。
向かう先は定まっていないけれど、でも。
いずれたどり着く場所はもう決まっていたから。
仕えると決めた、魔神様の元へ。
そんなこと知らないはずなのに、この水晶が教えてくれる気がして。
神の魔物ケットシーは、歩み出したのだった。
「――というのが、私が神の魔物になったいきさつでして」
西へ向かう旅路の夜。
焚火を囲み休んでいた仲間達の中心になって、占い師ケットシーは身の上を語って聞かせていた。
「た、大変な生き方をしたんですのね……っ」
「いやあ、生きたというか、ほとんど死んでいたというかー……その」
「ていうか、その水晶ってよぉ……生きてたのか?」
ちょっとした退屈しのぎくらいのつもりで語っていた中、泣き出してしまうシャーリンドンに「どうしたものかなあ」と困ったように耳をへにゃらせていたケットシーだったが。
シェルビーから水晶を指さされ「ああ、この子はですね」と水晶を撫でる。
「はい。この『水晶ちゃん』は生きてますよ。今も私に、真実を見せてくれるのです。この世で唯一真実を見せてくれる『鏡』だそうで」
「というか、その子が神の魔物としての成分よね。仔猫ちゃんはほんとに年老いないってだけで」
「そういえばさっきのお話でもそんな感じのお話が出てきましたが……それってつまり、ケットシーさんは死んでしまう、という事ですか?」
『そういう事だな。この子の身体は不老ではあっても不死ではないからな。殺されれば普通に死ぬ。我ら神の魔物とは造りがいささか違うのだ』
アルテの疑問にはケットシーの肩に止まったフレースベルグが答えていた。
おどろおどろしい声ではあるが、もう皆慣れている。
その補足を受けてか、へにゃっとした顔のまま、ケットシーも頬を掻きながら「あのですね」と説明をはじめた。
「私にはあんまり記憶にないんですけど、元々の神の魔物とされたのは水晶ちゃんの方らしくって。神の魔物化って、神格を得る事によって魂が不変になる事によって身体がそれに合わせて不死化するものなので、魂の抜けたこの身体は神格がある訳ではないんですよねぇ」
「ケットシーが昔から妙に戦うの避けてた理由が分かった気がする……」
「シャーリンドンより守らなきゃいけない対象だというのはよく解ったぜ」
「ああ、最優先で守らないといけないな」
「なんだか酷い言われようですが……でも懐かしく感じもするから複雑ですわ」
弱さの面で自分を引き合いに出されぶーたれた顔になるシャーリンドンではあったが。
一方で「仕方ないですわね」と頷ける理由ではあったのだ。
言ってみれば、ケットシーはただの見た目通りの少女なのだ。
簡単に死んでしまうから戦わせることも出来ない。
そもそも戦う手段も持ち合わせていない。
そんな存在が今の今まで生きられたのは奇跡というほかなかった。
「ていうか、神の魔物って人間に対しての恨みとか憎しみとか持ってて魔神に同調した奴らってイメージだったんだけど、そういうのばっかじゃなかったのか?」
「私や仔猫ちゃんみたいに恨みも何も持ってないけど魔神様についてた子もいるにはいたわよー? 大体魔神様に力を与えられてなし崩し的にーとかだけど」
『とはいえ、大半は人間や神々に対しての憎悪や怒り、悪感情から魔神様についた者で占めていたがな。ローレンシアやケットシーのような存在は珍しい例と言える』
「ただ強い者と戦いたかっただけみたいな人もいたものね……」
「関係ない、何を考えてても神の魔物は倒すべき……だとボクは思ってた」
神の魔物といっても多種多様、というのは当人たちの論で、ただの人類や神々の敵対者と思っていたセシリアたちにとってはとても貴重な情報ではあった。
ただ、一緒に居て面白くなさそうな顔をしている大天使は皆どう扱ったものかと考えていたが。
「ポーターちゃんはさ、なんでそんなに神の魔物を憎んでるん?」
「神の魔物は神々の敵だから」
「それだけじゃないでしょー? なんか貴方って私にはやたら当たりが強かったよねー?」
「……っ、黙れ、サキュバス」
「あはははっ、なんか怒らせちゃった♪ ごめんね? ごめんってー、ゆるして♥」
「寄るなっ、寄ってくるなっ、はなれろっ」
不機嫌そうにしていたところにローレンシアに抱き着かれ、いやいやするように小さな体を揺すって逃れようとする。
そんな様を見て、フレースベルグは『ふむ』と、思案した。
(変われば変わるものよな……あの化け物じみた強さを持った大天使が、このように人の少女のようになるとは……)




