#87.――その人に、触れるな!!
それは、どこかで見たような、古ぼけた風景だった。
人の余り通りがからない冬の、碌に整備もされていない田舎道。
そんな場所に、一人ぽつんと佇む、フードをかぶり小さなバスケットを持った若い娘の姿。
(ああこれ、死ぬ前に見るって奴じゃん……ミノスの時でも見なかったのに、なあ)
目の前に広がる風景と、自分の意識は全く異なるもので。
そして、その風景に見覚えのあったシェルビーは、それを死の前兆だと理解しようとしていた。
「お嬢ちゃん、何を売ってるのかな?」
「あら、うふふ……いらっしゃいませ」
そんな娘に、くたびれた中年男が声をかける。
あまり裕福そうではないが、いくばくかあぶく銭を得たらしく、機嫌よさげであった。
「何を売るというほどの事も……ただ、欲しい方が居るなら、なんでもお売りしますよ?」
それは、彼の故郷では聞き慣れた、若い娘の売り文句だった。
娘は、売春婦だった。
それも、道端で春を売る様な、娼館にすら入れなかった、最底辺の。
「買ってやるよ」
「はい、ではこちらで――」
そうして、つつがなく売買が成立し。
娘が男を引き、目立たぬ路地裏へと連れ立って歩く。
(……でも、なんか違うような)
見慣れた風景、見慣れた光景。
だけれど、違和感が一つだけあって。
そう、自分の視線の先に居た『娘』が、自分の見知った相手とは違っていたのだ。
(あれは……ねーちゃんじゃねえ)
今の自分が形成される、その原初から居た何より大事だった思い出。
その中に必ずいた、姉と慕っていた相手とは全く違う顔立ちをしていた。
「お客さんは、幸せ、足りてますか?」
自分で服をはだけながら、娘は、そんな事を客に問い。
そうして客が自分に貪り憑いてくる様を、幸せそうに、なんとも慈悲深い顔で受け入れていたのだ。
世界に、ノイズが走る。
「――幸せって、何?」
不意に、より幼い頃の、その娘が居た。
若い娘が春を売る、そんな見慣れた地獄のような当たり前の世界が、いつしか随分と澄み渡った、まるで冬明けの空のような世界に変わっていた。
「幸せって言うのはね、他の人から与えられる、あったかくて、優しい気持ちになれるものの事を言うのよ」
ベッドに寝たきりの母親。
生まれたばかりの幼い弟を抱き抱えるそんな母を羨ましそうに見つめながら、その日初めて見知った言葉を母親から教えてもらい。
そして、「私が幸せなのも、あなたたちのおかげ」と伝えられて、「なら私も沢山の幸せを産むね!」と、無邪気にはしゃぎながら満面の笑みを見せ。
(くそ……変なところ、似てやがる)
寝たきりの親。
自分にだけ優しくしてくれる姉のような存在。
全てが一致している訳ではないのに、強烈に意識させられる、自分の過去。
また、世界にノイズが走る。
「うっ、うっ、辛いんだよおっ、もう辛くて辛くて、こんな事でもしねえとやっていけねえんだっ!!」
それは、その娘にとって初めてが失われた時で、娘の人生が大きく変わる瞬間であった。
両親を早くに亡くした娘は、幼い弟をなんとか飢えさせないため、働かなくてはいけなかった。
見た目、十三か四くらいの少女である。
けれど、その町にそんな少女が働けるような仕事など碌になく。
そうして遅い時間まで仕事を探している間に、夜になってしまい。
夜になっても探している間に、酔っ払いに襲われ、犯されていた。
「おじさん……辛いの?」
痛みとか、苦しみとか、そんなものよりも。
目の前で自棄になって自分を犯すこの男の方が、よほど可哀想に思えて。
自分に乱暴な振る舞いをするその拳を手で包み込みながら、「幸せが足りてないのね」と、憐れみを覚え、救ってあげたく感じてしまった。
誰かに救われたかったから。こんな行為に救いを求めるしかないこの男が、自分の仲間のように思えたのだ。
「いいわおじさん。それでおじさんが幸せになれるなら、好きにしていいよ」
頭を撫でてあげて、抱きしめてあげて。
そうしている内に、乱暴だった行為は少しずつ優しくなり、やがて、止まった。
「うっ、うっ……お嬢ちゃん、ごめん、ごめんよぉ……っ」
泣きながら謝罪して。
謝罪しながら注ぎ込まれたモノに、娘は「ああ、なんて温かいのでしょう」と、それが母に教わった幸せと同意義なのだと思い込み。
それからというもの、娘は売春をするようになった。
ノイズ。
「……寒いなあ」
次に広がるのは、冬の日だった。
雪が吹きすさぶ、寒い寒い冬の夜。
娘は、ボロボロのまま、地べたに倒れ込んでいた。
(くそ……くそ……っ)
短いシーンの連続に過ぎないそれを見ながら、けれどシェルビーは、心の底から「やめてくれ」と叫びたい気持ちでいっぱいになってしまっていた。
苦しいのだ。その終焉が、痛いほどわかってしまうから。
娘は、もう終わりが近かったのだ。
「もう誰も、買ってくれなくなっちゃった……幸せに、できない……」
娘は、『幸せ』に憑りつかれていた。
他者を幸せにしたいと願い続け、それを叶える方法は、相手の欲望を満たすこと以外に知らなかった。
他者を愛する事がどういうことなのかは解っていても、他者を幸せにするには、欲望を満たすのが一番だと思い込んでいたから。
「おかねも、ないし、ごはんも、ないし……あの子も、いなくなっちゃったし」
幼い弟は、流行り病であっさりと死んでしまった。
守る相手を失った娘は、幸せにすべき相手を他者に依存した。
ただただ寒い町。
それでも飢える者がいて、貧困に苦しみ続ける者達は今にも死にそうで、不幸で。
そんな不幸を助けるために、彼女は春を売った稼ぎを全て渡して周り。
そんな生活をしていたせいで、彼女自身すぐに身を持ち崩し、それでも幸せを振りまき続け……力尽きてしまった今があった。
ただの町娘一人が救える人間のいかに少ない事か。
目に見える者全て救おうとした結果、娘は死に瀕していたのだ。
「……もっと、しあわせに、したいのに」
立ち上がって、沢山売って、沢山幸せにしたい。
助けてあげた時の嬉しそうな、初めて救いを得たかのような人々の顔が、娘には忘れられなかった。
死の間際まで、それを得たいと思っていた。
それこそが、自分が人々に与えられる、最大にして唯一の幸せの形だった。
そう信じて疑わない、一人の娘の人生が、終わろうとしていた。
『なんと哀れな事でしょう……こんな娘を、救う事すらできないとは』
慈悲深き女神は、神界からその様を見て顔を覆い嘆き悲しんでいた。
苦痛の中、「助けてくれ」「どうか最後くらいは私を幸せにして」と願ってくれるなら、女神はそれを与えることができた。
微かな救いの中、安らかな眠りを享受する事が出来たはずだった。
だが、この娘はそんなものは微塵も願っていなかった。
どれだけ苦しかろうと、どれだけ辛かろうと、自分の幸せなど欠片も求めず。
ただ追い求めたのは他者の幸せで、死の間際まで、それを崩すことはなかった。
『魔神様……私では、あの娘を救う事が出来ません。どうか、貴方のお力であの娘を助けてあげられないでしょうか?』
神であろうと、己の領分以外には手出しはできなかった。
故に、女神が救いを求めたのは、神々の中でもっとも力のある、より多くの領分に関わる魔神であった。
闇に落ちて尚、それほどにこの神は、神々からの信望を抱かれていたのだ。
『……あの娘は、この世の何事も恨んではおらぬ。あれだけ人の世のおぞましさを目の当たりにながらも、心が全く穢れておらぬ。アレは、我には救う事は出来ぬ』
『ああ、なんという事でしょう……それでは、もう……』
『だが……あの者の願望は、叶えてやれるかもしれぬ。あの者はこのような世界にあって、それでも尚多くの他者の幸せを願い続けた。これは、人にあるまじき精神であり、我ら神々にも等しき精神性であると言える故、な』
『では……』
『アレを神々の一柱とする事で、あるいは……だが、問題も多かろう』
『人から神を……そのような事をすれば、神界に多大な影響を及ぼしてしまいますわ』
『ああ、そうだろうな。だから、アレは我が預かろう……』
『……お願いいたしますわ。このままではあまりに……あまりにも悲しすぎますもの……』
『慈愛の女神よ。だがこのような事、一度手を出せば二度三度と、幾たびも繰り返されるやもしれぬぞ? いずれ道端の仔猫一匹助けるために、神を生み出しかねん』
『それは……ですが……』
逡巡の果て。
けれどそれでも、慈愛の女神は「それでよいのです」と、勇ましく頬を引き締める。
『救いたいと思った者すら救えぬ神など、何のためにありましょうや? 私は、人々を救いたいと思うからこそ、苦しみから助け出したいと願うからこそ、慈愛の女神となったのです』
『ふっ……同類であったか』
『ええ……格別に可哀想な人生を歩んだ、同類ですわ』
一人の女神の願いによって、そして魔神が実験として行った奇跡によって。
その娘は神の一柱となった。
その娘の名は、ローレンシアという名であった。
ノイズ。
急に視界が鮮明になり、そして、すぐにまた、暗くなったり赤くなったり明滅し。
シェルビーは、自分が今、死に瀕している事を理解し、それでもダガーを渾身の力で握りしめていた。
「ぐ、ぎ、ぎ……」
「……あー、貴方、見ちゃったのね?」
血の涙を流しながら、口の端から血の泡ぶくを吐きながら、目の前の女にダガーを突き刺していた。
間違いなく、ダメージを与えたはずだった。
だが、ローレンシアは、そんな彼を慈愛の籠った瞳で見つめながら、「かわいそうに」と、その手を包み込もうとする。
「元は人間だからね。血が混じり合うと、そういう事もあるみたいなの。エッチな事をして記憶が混ざり合う事はよくあったけど、こんな形で混ざり合ったのは初めて」
「……せえ……っ」
「泣かないで? 大丈夫、私は別になんともないから。今の私はとっても幸せ。だって、沢山の人の欲望を叶えられる。いつまでも、永遠に、人々の幸せを叶え続けられるの」
「うる、せえ……っ」
「貴方の記憶も見ちゃった。貴方は、『私』みたいな人を見ている側の人だったのね? お姉さん? それとも初恋の人かしら?」
「……ねーちゃんの事を、口にするんじゃ、ねえ!!」
「あら怖い……でも、ねえ、私は貴方の事、嫌いじゃないわ。今私を殺そうとしているこの瞬間ですら、愛おしく感じる……貴方って、私の弟と似ていたのね?」
「うるさいだまれ、おまえなんか、ねーちゃんじゃ、ねえ!!」
自分で喉を突いて、声すら出せないくらいのはずだった。
なのに、死にかけているはずのシェルビーが、けれどそれだけは言わずにはいられなかった。
例え死んででも、例え全ての力を使ったとしても、否定しなければならなかった。
「かわいそうなんかじゃ、ねえ……っ」
「……?」
「ねーちゃんは、かわいそうなんかじゃ、ねえんだ……お前と一緒に、するなっ」
《ぐじゅっ》
ローレンシアの首に突き刺したダガーをねじるように回すと、流石にローレンシアも痛みを覚えてか「あうっ」と小さな悲鳴を上げたが。
だが、それでもローレンシアは笑おうとしていた。
「かわいそうなんかじゃないわ。きっとその人も、貴方の幸せを願っていたのよ。ああ、なんて素晴らしいのかしら。私は初めて、自分と同じ志を持った人を知る事が出来た」
(やべ……ちから、が……)
魅了など関係なしに、あまりに多くの血が流れ。
最早、意識も保てなくなっていた。
最後の最後、彼が見たのは、自分にだけ優しく、けれど金に汚く、お世辞にも美人とは言えないような、姉と慕う少女の――
「――その人から離れろ、ローレンシア!!」
――そんな幻覚が消え去るほどに鮮明な、色鮮やかな少女の姿であった。




