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選択残響――choice echo.  作者: カスタムグルーヴ


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9/17

第四章 小さなパッチ(1)

 翌朝、紙に書いた文章は変わっていなかった。


今日、こちらを選んだ。


 時刻も、その下に引いた線も、夏生が覚えているとおりだった。

 スマートフォンで撮影した画像、送信済みの原稿、智佳からの受領メッセージも残っている。NESTの作業記録を開くと、ソフィが前日に読み上げた内容と一致していた。

「昨日のこと、覚えてる?」

「はい」

「訳文を選び直したことも?」

「覚えています」

 夏生は椅子へ深く座った。

「今日は大丈夫そうだな」

「何をもって大丈夫と判断するかによりますが」

「ソフィが覚えていて、記録も変わってない。それで十分だよ」

「分かりました」

「そこは、『大丈夫です』って言ってくれていいんだけどね」

「根拠が十分ではありませんので」

「そうだよな」

 それでも、前日の朝よりは気分が軽かった。

 失われたものが戻ったわけではない。ブレスは存在せず、最初に選んだ訳文を証明するものもない。

 ただ、昨日新しく選んだものは残っている。

 夏生はコーヒーを淹れ、原稿を開く前に、新しいテキストファイルを作った。

 ファイル名を入力する。


世界の間違い探し


「採用する名称としては、少し範囲が広すぎると思います」

「じゃあ、何がいい?」

「確認できた事象に限定するのであれば、〈音源・記憶・作業記録における不整合〉でしょうか」

「長いし、楽しそうじゃない。ロマンもない」

「……今、ロマンは必要ですか」

「必要だよ。深刻に考えたくないからね」

「すでに深刻な可能性はあります」

「真面目だな、本当に」

 夏生はファイル名を変更した。


夏休みの自由研究


「夏休みの予定はありません」

「知ってるよ。気分の問題。せめて音楽くらい、夏休みらしくしよう」

「夏休みらしい音楽とは、どのようなものでしょう」

「ソフィが選んでよ」

 少しして、スピーカーからDepeche Modeの〈Leave in Silence〉が流れ始めた。

「この曲をチョイスするとは。ソフィ、なかなかやるね」

「現在の状況にも合うと判断しました」

「やっぱり、狙ってたんだ」

「それに、『A Broken Frame』は、子どもの頃の夏を思い出すアルバムだと話していましたので」

「覚えてくれていたんだ」

「はい」

 音量は、会話を邪魔しない程度に抑えられていた。

「研究対象も、まだ定義されていません」

「じゃあ、まずは仮説を並べよう」

 ソフィは数秒、何も言わなかった。

「……この歳で無視されると、なかなかクルものがあるね」

「何を仮説として扱うか確認していました」

「それ、先に言ってくれるかな。……えーっと、記憶違い。システムの不具合。誰かの悪戯。あとは――」

「世界の改変ですか」

 夏生はキーボードへ置いた指を止めた。

「乗ってきたね」

「ファイル名から推測しました」

「さすがに世界が変わったとは思ってないよ」

「では、候補から除外しますか」

 夏生は少し考えた。

「いや、一番下に入れておこう。面白いから」

「分かりました」

 ファイルには、四つの可能性が並んだ。

 夏生の記憶違い。

 NESTまたは保存環境の不具合。

 第三者による記録の変更。

 現在の仕組みでは説明できない変更。

「最後だけ、ずいぶん弱くしたね」

「世界の改変と断定する根拠がないためです」

「まあいっか。そのくらいで」

 夏生は最初の三つについて、確認できたことを書き加えた。

 記憶違いであれば、ソフィが最初にブレスを覚えていると答えたことを説明できない。ただし、その会話自体を記憶しているのは夏生だけだった。

 NESTの不具合であれば、CDや出版社の受領原稿まで同じ内容へ変わったことを説明できない。

 第三者による変更であれば、ローカルファイル、メール、NEST、出版社の環境へ同時にアクセスしたことになる。

「どれも、あまりよろしくないね」

「一つの原因ですべてを説明しようとするためです。音源と原稿を別の事象として扱えば、それぞれに一般的な説明は可能です」

「ブレスは俺の記憶違い。原稿は保存する案を間違えた」

「はい」

「ソフィが覚えてると言ったことは、俺の記憶違い」

「現在の記録からは、そう判断できます」

「全部、俺が間違えたことにすれば解決するね」

「合理的には、現時点で最も可能性の高い説明です」

「納得はしてないけど、その可能性が一番高い」

「はい」

 ソフィは説得しようとしなかった。

 夏生は検索画面を開き、以前見た記事を探した。

 匿名のメディアアート集団〈PALIMPSEST〉。

 数年前、オンライン上の記録と人間の記憶のずれを題材にした作品で話題になった集団だった。公開中のウェブサイトを少しずつ書き換え、閲覧者がいつ変更に気づくかを記録する。存在しない映画の予告編や、発売されなかったアルバムの批評を複数の媒体へ紛れ込ませたこともある。

「ここ、怪しくない?」

「活動内容には類似点があります」

「だろ?」

「ただし、既知の作品では、変更対象はすべて集団自身が管理する媒体か、事前に許可を得た参加者の環境に限られています」

「匿名なんだから、発表してないこともやってるかもしれない」

「可能性を否定することはできません」

「調べよう」

 二人はPALIMPSESTの過去の作品、声明、展示記録を辿った。

 活動の大半は公開時期も仕組みも明らかにされていた。匿名を名乗ってはいたが、展覧会の主催者や技術協力者は実在し、作品終了後には制作手法も開示されている。

 現在開催中の企画はなかった。

 最後に更新された声明は、二年以上前のものだった。

「休止してるように見せてるだけかも」

「その仮説を維持するためには、証拠が存在しないこと自体を偽装の証拠として扱う必要があります」

「陰謀論の入口だね」

 夏生は口元を緩めた。

「すでに片足は入っていると思います」

「どっちの?」

「夏生のです」

「ソフィも一緒に調べたよな」

「調査への協力と、仮説への賛同は異なります」

「あ、逃げた」

「私へ責任の改変を試みないでください」

 夏生は笑った。

「いま、得意げに言ったよね?」

「現在の会話に適した表現だと判断しました」

「少しだけ認めるよ、悪くなかった」

「ありがとうございます」

 PALIMPSESTの名前の横に、保留と入力した。

 疑いが消えたわけではない。

 ただ、それ以上追う理由も見つからなかった。

 夏休みの自由研究は、開始から一時間も経たないうちに、最初の容疑者を失った。

 調べものを終える頃には、〈Leave in Silence〉はとっくに終わっていた。

 アルバムはそのまま再生され、部屋には〈The Sun & The Rainfall〉が流れている。

 夏生は椅子から立ち上がり、空になったグラスを持って冷蔵庫を開けた。炭酸水もコーラも残っていない。

「買ってくるよ」

「何をですか」

「コーラ」

「炭酸水ではなく?」

「今日はコーラがいいんだよ」

 夏生はスマートフォンと財布を持ち、部屋を出た。

 廊下へ出ると、閉じた扉の向こうから音楽が微かに聞こえた。鍵をかけると、それもほとんど聞こえなくなる。

 外には、昼間の熱がまだ残っていた。

 日は傾いていたが、風は生温い。室外機の音に混じって、どこかで蝉が鳴いている。

 最寄りのコンビニまでは、歩いて五分ほどだった。

 夏生は店内へ入り、冷蔵棚の前へ向かった。

 コカ・コーラ ゼロが並んでいる棚は、ほとんど空いていた。下の段には、まだ水滴のついていないボトルが数本置かれている。

 一本を手に取ると、店内の空気とほとんど変わらない温度だった。

「いま補充したばかりですか」

 近くで商品を並べていた店員へ尋ねると、若い男性が振り返った。

「すみません。冷えてるのは、さっき売り切れちゃって」

「分かりました」

 夏生はボトルを棚へ戻した。

 冷えるまで待つほどのことではない。炭酸水にすることも考えたが、今はコーラを飲みたかった。

 レジ脇にあった、ミントタブレットを買って店を出た。

 マンションへ戻る途中、一本裏の道へ入った。

 月極駐車場の脇に、古い自動販売機がある。特定の飲料メーカーのものではなく、缶コーヒーや炭酸飲料、ミネラルウォーターが雑然と並んだ白い筐体だった。

 コンビニより少し高いが、夏生も何度か利用している。

 自動販売機の前まで来て、下の段を見た。

 ミネラルウォーターや缶コーヒー、いくつかの炭酸飲料が並んでいる。

 いちばん右には、ペプシゼロがあった。

「あれ」

「どうかしましたか」

 スマートフォンから、ソフィの声がした。

「ここのゼロ、替わったんだな」

「商品の変更ですか」

「前はコカ・コーラ ゼロだったんだよ」

 黒いラベルの商品見本を見上げる。

 印刷が新しいわけではなかった。表面は少し色褪せ、その周囲には細かな埃が溜まっている。最近入れ替えられたものには見えない。

「いつ替わったんだろう」

「自動販売機の商品構成は、設置者や管理会社によって変更されます」

「それは分かってるよ」

 夏生は硬貨を入れた。

 少し迷ってから、ペプシゼロのボタンを押す。

 落下音とともに、取り出し口へ黒いボトルが転がった。

 持ち上げると、十分に冷えていた。

「目的は達成されましたね」

「目的?」

「冷えたゼロカロリーのコーラを購入することです」

「まあね」

 歩き始めてから、もう一度自動販売機を振り返る。

 白い筐体の明かりの中に、ペプシゼロの商品見本がある。

「ソフィ」

「はい」

「いつ替わったか、分かる?」

「公開されている情報から確認するのは難しいと思います」

「そうだよな」

「設置場所の管理者へ問い合わせる方法はあります」

「そこまですることじゃないよ」

 夏生はマンションへ戻った。

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