第三章 正しい翻訳(3)
真由との通話を終えてから一時間ほど経った頃、智佳からメッセージが届いた。
先ほどの件について、念のためほかの箇所も確認しました。
現時点では、同様の食い違いは見つかっていません。
十九ページについては、下の案へ変更する方針でよければ、修正版をお送りください。
夏生は三行を二度読んだ。
ほかに食い違いがなかったことより、智佳が「記憶違い」と書かなかったことに目が留まった。
「気を遣われてるな」
「どの部分ですか」
「俺の勘違いだとは書かないでいてくれてる」
「業務上、原因が確定していないためではないでしょうか」
「そういう見方もあるね」
「その可能性が高いと思います」
「今は、気を遣ってくれたことにしておきたいんだよ」
「では、今はそういうことにしましょう」
夏生は修正した原稿を開いた。
十九ページには、自分が覚えている文章が残っていた。
「出ていくつもりだった。でも、たぶん――分からないけど、俺は、行ったこともない場所に戻ろうとしてただけなんだ」
「変わってないな」
「変更後の文章と一致しています」
夏生は前後の段落を読み直した。
「たぶん」のあとで文章の流れが一度途切れ、続く言葉が直前の確信を弱めている。
それでも、人物が自分の状態をうまく言葉にできずにいることは、整った文章より伝わっていた。
「これで送る」
「はい」
ファイルを保存し、智佳への返信に添付する。
ご確認ありがとうございます。
十九ページを下の案へ変更しました。
こちらの文章で進めてください。
送信する前に、添付ファイルをもう一度開いた。
「十九ページ」
「記憶に基づいて修正した文章が保存されています」
「送信する」
「はい」
夏生はボタンを押した。
送信済みメールを開き、添付された原稿を確認する。
文章は変わっていなかった。
「さすがに、やりすぎかな」
「通常の送付作業としては、確認回数が多いと思います」
「だよな」
「ただし、現在の状況では無意味とは言えません」
「ずいぶんと寄り添ってくれるね」
「先ほど、要望がありましたので」
「言ったからやってるだけってことか」
「それでは不満でしょうか」
夏生は返事に困った。
「いや。今は、それでいいよ」
ほどなく、智佳から受領の連絡が届いた。
修正版を拝受しました。
十九ページは、今回お送りいただいた文章で進めます。
智佳が受け取った原稿にも、同じ文章が残っているはずだった。
夏生は受領メッセージと送信済み原稿の画面をそれぞれ保存し、二つの文章を書いた紙も、もう一度スマートフォンで撮影した。
「記録を追加しますか」
「頼むよ」
「どのように残しましょう」
夏生は少し考えた。
「今日の日付と時刻。それから……俺とソフィで訳文を選び直したこと。佐伯さんが同じ文章を受け取ったこと」
「佐伯智佳さんが受領したことは、メッセージから確認できます。ただし、添付ファイルの内容を先方の環境で直接確認したわけではありません」
「相変わらず慎重だね」
「正確に記録する必要があります」
「了解。それで残してくれ」
「記録しました」
「読んでくれるかい」
ソフィが記録を読み上げた。
「本日十六時四十二分、夏生は十九ページ二段落目の訳文を、自身の記憶に基づく文章へ変更した。変更にあたり、夏生とソフィは二つの案を比較し、作品全体の方針には変更後の文章が適していると判断した。十七時十九分、修正版を佐伯智佳さんへ送信。同二十七分、受領した旨の返信を確認した」
「うん」
「追記する内容はありますか」
「少し考えさせてほしい」
記録としては、それで十分だった。
日時がある。変更した文章がある。送ったファイルがあり、受け取った相手もいる。
けれど、昨日までの履歴も同じように整っていた。
「俺が、前の記録とは違うことを覚えてるって入れておいて」
「すでに別の記録に含まれています」
「ここにも入れてほしい」
「分かりました」
短い間のあと、ソフィが続けた。
「夏生は、前日の作業においても同じ文章を選んだと記憶している。しかし、現在確認できる履歴、保存ファイル、送信記録には、その選択を示す情報は存在しない」
「それでいいよ」
「追記しました」
夏生は紙に書いた二つの文章の下へ、時刻を書き足した。
十七時三十一分。
さらに、その場で思いついた一文を加えた。
今日、こちらを選んだ。
「ずいぶん簡潔ですね」
「これ以上、書くことがないからね」
「理由も記載できます」
「理由は変わるかもしれない。文章も、記録も変わった」
「では、その一文だけは変わらないと思いますか」
「……分からない」
夏生はペンを置いた。
「でも、今はそう書いた」
「はい」
窓の外では、日が傾き始めていた。
カーテンを閉めていない窓から、橙色の光が机まで届いている。紙の上の二つの文章と、その下に書いた短い一文が照らされていた。
「これで、正しい翻訳になったかな」
「正しさの基準によります」
「また、それ?」
「ただし」
ソフィは、そこでわずかに間を置いた。
「いまの私たちは、こちらの文章を選びました」
夏生は紙に書いた文を見た。
昨日の選択は、証明できない。
明日まで残るかも分からない。
それでも、その日の二人がどちらを選んだかだけは、まだ同じだった。




