第三章 正しい翻訳(2)
その日の仕事は、思ったほど進まなかった。
一文を直すたびに、夏生は保存された内容を確認した。次の段落へ移ったあとも前の文章へ戻り、自分が選んだ文章が残っているか確かめた。
「いまの文章、変わってないよな」
「保存時から変更されていません」
「その前は?」
「同じです」
「俺が選んだのは?」
「現在表示されている文章です」
何度聞いても、ソフィは同じように答えた。
その返答が信用できないわけではない。
信用した結果が、十九ページに残っていた。
夏生は原稿とは別に、変更した箇所と理由をテキストファイルへ記録した。ソフィの作業記録と同じ内容を、自分の言葉でも残していく。
数段落進む頃には、翻訳している時間より、翻訳が変わっていないことを確かめる時間のほうが長くなっていた。
「これでは、作業効率が大きく低下します」
「分かってる」
「一定の範囲を終えてから、まとめて照合する方法もあります」
「そのあいだに変わったら?」
「変更履歴から確認できます」
「その履歴が変わったから言っているんだ」
ソフィは答えなかった。
「ごめん。ソフィを責めてるわけじゃない」
「分かっています」
「本当に?」
「少なくとも、そう言ったことは記録しました」
冗談なのか、確認なのか判断しにくい返答だった。
夏生は少し笑った。
笑えたことに、自分で安心した。
スマートフォンが振動した。
真由からメッセージが届いていた。
来週の日曜、昼と夜どっちがいい?
昨日話してた店、どちらでも予約できるみたい。
夏生は画面を見た。
昨日、食事の途中で次に行く店の話をした。真由が以前から気になっていた店で、夏生は料理の写真を見せられた。
その記憶はある。
ただ、店の名前が思い出せない。
「昨日、真由が話してた店の名前は分かる?」
「会話の記録はありません」
「そうか。外で話したんだっけ」
ソフィが知らない時間もある。
それは当たり前のことだった。
夏生は真由とのメッセージを遡った。店の情報は送られていない。
返信を入力しかけて、通話ボタンを押した。
「もしもし」
数回の呼び出し音のあと、真由が出た。
「どうしたの?」
「今、大丈夫?」
「大丈夫だけど。店、電話で決めるほど迷ってる?」
「いや、それは夜でいいよ」
「分かった。じゃあ予約しておく」
「ありがとう」
「それだけ?」
夏生は少し迷った。
「昨日のこと、覚えてる?」
「どの部分?」
「俺が店に着いたとき」
「四分遅れて着いたとき、ね」
「そのあと、何て言った?」
「努力はした顔をしてる、って言ったと思う」
夏生の記憶と同じだった。
「髪が乱れてるとも言ってたよな」
「言った。走ってきたからって、ちょっと得意そうにしてたよね」
「得意にはなってないよ」
「なってたよ」
真由が笑った。
その笑い方も、夏生が覚えているものと変わらなかった。
「どうしたの、急に」
「ちょっと確認したかったんだ」
「何を?」
「昨日、飲みすぎてなかったかなと思って」
「夏生はそんなに飲んでないでしょ」
「そうだった」
「私は、もう少し飲んだけど」
それも覚えている。
夏生は机の上にあるCDを見た。
「仕事で、少し変なことがあってさ」
「変なこと?」
「昨日書いた文章と、保存されてる文章が違うんだ。担当編集にも確認したけど、最初から今の文章だったって言われて」
「別案を間違えて保存したんじゃない?」
「記録だけ見れば、そうなる。仕事に使ってるNESTの記録も、担当へ送った文章と同じだった」
「少し寝たほうがいいかも。疲れてるんだよ」
「そういう単純な話でもないんだけどな」
「担当の人はなんて言ってるの?」
「別案のほうが、俺らしい訳し方に感じるって」
「だったら、そっちに直せばいいんじゃない?」
「直したよ」
「なら、仕事としては解決してる」
「仕事としては解決してる」
夏生は答えた。
「解決してないほうは?」
真由が尋ねた。
夏生は、すぐには答えなかった。
消えたブレスのこと。覚えていると言ったソフィのこと。翌日には、その記憶も会話も失われていたこと。
話そうと思えば、最初から説明できた。
「まだ、自分でもよく分からない」
「そっか」
真由は続きを急かさなかった。
「分かったら話すよ」
「話したくなったらでいいよ」
その言葉に、夏生は少しだけ救われた。
同時に、それを都合よく受け取っていることにも気づいていた。
「日曜は夜でいいんだよね」
「うん」
「今度は遅れないでね」
「努力します」
「『努力します』じゃない」
「何て言えばいい?」
「遅れません」
「遅れません」
「よろしい」
真由は少し笑って答えた。
通話を終えると、部屋は静かになった。
「真由には、原稿のことだけ話した」
「はい」
「ソフィのことを話さなかった」
ソフィは少し間を置いた。
「はい」
「どう思う?」
「真由さんへ何を伝えるかを、私が決めることはできません。ただ、私のことを話さなかった理由は知りたいです」
夏生は、すぐには答えられなかった。
「まだ、自分でもよく分かっていないことを、説明したくなかったんだと思う」
「起きていることを、ですか。それとも、私についてですか」
「……両方かな、たぶん」
自分がなぜ「両方」と答えたのか、夏生自身にもまだ説明できなかった。
机の上では、二つの文章が並んでいる。
その隣には、真由との次の予定が表示されていた。
日曜、十九時。
世界の大部分は、何も変わっていないように思えた。




