第三章 正しい翻訳(1)
中古店で買ったCDは、机の上に置いたままだった。
曲はすでに終わり、スピーカーから音は流れていない。
夏生は翻訳原稿の十九ページを開いた。
黄色いマーカーは表示されていない。あれは智佳が確認のためにつけたものだった。文章だけを見れば、そこに何か問題があるようには見えなかった。
“I was going to leave. But maybe—I don’t know—I was only trying to go back somewhere I’d never been.”
「出ていくつもりだった。けれど結局、まだ見ぬ故郷へ帰ろうとしていただけなのかもしれない」
原文の意味は過不足なく伝わっている。
原文にある途切れや言い直しは整理され、「行ったことのない場所」は「まだ見ぬ故郷」と言い換えられている。本人にも説明できないはずの行動が、一読して理解できる。編集者が手を入れなくても、そのまま印刷に回せる文章だった。
だからこそ、夏生は自分が選んでいないと分かった。
「俺が書いたのは、こうじゃなかった」
「どのような文章だったと記憶していますか」
夏生は新しいファイルを開き、覚えている文を入力した。
「出ていくつもりだった。でも、たぶん――分からないけど、俺は、行ったこともない場所に戻ろうとしてただけなんだ」
二つの文章を並べる。
意味はほとんど同じだった。
記録に残っている文章のほうが短く、整っている。「まだ見ぬ故郷へ帰る」という一節だけで、人物の向かう先と心情が一度に理解できる。
夏生が覚えている文章は、「たぶん」の直後に「分からないけど」と続き、「行ったこともない場所に戻る」という矛盾も、そのまま残している。人物が自分の言葉につまずいているような、わずかに不格好な台詞だった。
「比較してくれるか」
「意味上の大きな差はありません。ただし、現在の原稿では、原文の逡巡と矛盾が自然な日本語へ整理されています。いま入力した案には、人物自身が言葉を探している感覚が残っています」
「昨日も同じことを言ったよな」
「現在の作業記録にも、同様の発言があります」
「そのあとに選んだ文だけが違う」
「はい。判断の理由は同じまま、選択の結果だけが異なっています」
ソフィは否定しなかった。
夏生はファイルの更新履歴を開いた。
自動保存された版が、時系列に沿って並んでいる。十九ページの文章が変更された時刻も残っていた。
変更前の文。ソフィが提示した二つの案。夏生が採用した一文。
どの版を開いても、最後に残っているのは整った文章だった。
「削除された版は?」
「復元可能な履歴にはありません」
「一度も保存されなかった可能性は」
「あります。ただし、昨日の作業では、案を採用した直後に自動保存が実行されています」
「その保存された内容が、これなんだよな」
「はい。作業記録と保存された内容は一致しています」
メールの添付ファイルだけではない。
手元の原稿も、自動保存された途中の版も、NESTの作業記録も、すべて同じ文章を示している。
智佳が受信したあとに修正したのではない。送信中にファイルが壊れたのでもない。ソフィが誤って別案へ置き換えたのでもなかった。
記録の上では、夏生が自分で選んでいる。
「ソフィは、こっちの文をどう思う?」
夏生は、自分が覚えている文章を示した。
「人物の語り方としては、こちらのほうが適切だと思います。作品全体でも、自分の選択を説明しきれない人物の言葉を、完全には整理していません」
「記録にあるほうは?」
「日本語として整っていて、読みやすい文章です」
「どっちを選ぶ?」
ソフィは少し間を置いた。
「作品全体の方針を考慮すれば、いま入力した文章を選びます」
「昨日も、そう選んだんじゃないのか」
「その記憶はありません」
分かっていた答えだった。
夏生は、二つの文章をもう一度見比べた。
「正しいのは、記録に残ってるほうだな」
「読みやすさと、訳文としての完成度を指すのであれば、そう評価される可能性が高いと思います。ただ、原文の人物は、自分の行動をそこまで明確には理解していません」
「でも、正しいから選ばなかった」
「はい。その判断には、現在の私も同意します」
「そこまで分かるのに、選んだことだけ覚えてないんだな」
ソフィは答えなかった。
夏生は整った文章を削除し、記憶にある文章へ置き換えた。
今度は、保存されたことを確認した。
「作業記録にも残しておいてほしい」
「記録しました」
「どう記録した?」
「十九ページ二段落目を、夏生の記憶に基づく文章へ変更したこと。変更前の文章は、既存のすべての履歴において夏生自身が採用したものとして記録されていたこと。夏生と私は、その記録と異なる選択をした可能性を確認していることです」
「最後の言い方は慎重だね」
「事実として確認できる範囲を越えないようにしました」
「消えた、とは書かない?」
「何かが消えたことは証明できません」
「そうだな」
夏生は二つの文章を別のテキストファイルにも保存した。
片方には〈記録に残っていた文〉、もう片方には〈覚えている文〉と名前をつける。
それだけでは足りない気がして、紙にも書き写した。
「紙であれば安全だと思いますか」
「分からない。でも、同じ場所だけに置くよりはいいと思ったんだ」
「合理的です」
「ソフィにそう言われると、急に大げさなことをしてる気がしてくるね」
「実際、普段の原稿確認よりは大がかりです」
「もう少し不安に寄り添ってくれてもいいんじゃないかな」
「では、その紙を紛失しないことを願っています」
「そういうことじゃなくて、さ」
「……分かっています」
昨夜までと変わらない返答だった。
夏生は、紙に書いた二つの文章をスマートフォンで撮影した。
そのあとで、智佳へメッセージを送る。
先ほどの箇所について、二つの訳文を送ります。
記録とは別に、私は下の案を採用した記憶があります。
どちらがこの作品と私の訳し方に合っているように見えるか、率直に教えてもらえませんか。
二つの文章を添えた。
返事が来たのは、十分ほど経ってからだった。
記録上の経緯を考えなければ、私は下の案を選びます。
少し不格好ですが、原文の迷いが残っていますし、この人物の台詞や、これまでの寺岡さんの訳し方には合っています。
寺岡さんなら、そちらを選びそうですね。
ただ、納品されたのは上の文章です。
その点だけは、こちらの記録でも変わりません。
寺岡さんなら、そちらを選びそうですね。
その一文は、ソフィが返しそうな言葉にも思えた。
担当編集とソフィを重ねてどうする、と夏生は自分に言い聞かせ、最後の一文へ目を戻した。
正しい翻訳は、どちらなのだろう。
文章として正しいもの。
人物にとって正しいもの。
記録の中で、夏生が選んだことになっているもの。
そして、証拠はなくても、自分が選んだと覚えているもの。
その四つは、同じ文章を指していなかった。




