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選択残響――choice echo.  作者: カスタムグルーヴ


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第二章 存在しないブレス(3)

 翌朝、夏生はアラームが鳴る少し前に目を覚ました。

 眠った時間は短かったが、昨夜のことを夢に見た記憶はない。

 スマートフォンを手に取り、時刻を確認する。続けてNESTの履歴を開いた。

 内容は変わっていなかった。

 変わっていないことに安心すべきなのか、夏生には分からなかった。

 ベッドを出て、カーテンを開ける。白い光が一気に部屋へ入り、床に散乱したCDケースを照らした。

 目当ての一枚が見つからなかったことも、取り置きを申し込んだことも覚えている。

 履歴を確かめる前に、自分の記憶を順に辿っていることに気づき、軽く舌打ちした。

「おはようございます」

 机のスピーカーから、ソフィの声がした。

「おはよう」

「睡眠時間は、四時間十八分でした」

「思ったより寝てるね」

「十分とは言えません」

「だろうね」

 ソフィの声は、昨夜と変わらなかった。

 夏生はコーヒーを淹れ、オンライン会議の準備を始めた。顔を洗い、寝癖の目立つところだけ直す。画面に映る範囲の机を片づけ、床に広げたCDはそのままにした。

「昨夜のことは覚えてる?」

「はい」

「どこまで?」

「中古盤の取り置きを申し込んだあと、佐伯智佳さんへ打ち合わせ時刻の確認を返信しました。セッションを終了したのは、二時二十六分です」

「その前は」

「昨夜の会話について、記憶と現在の履歴に食い違いがあることを確認しました」

 夏生はコーヒーを口へ運ぶ手を止めた。

「それは覚えてるんだな」

「はい。どちらが正しいかは決めず、まず音源を確認することにしました」

「今夜になったら、また変わってる可能性は?」

「判断できません。変化が起きる条件も、現在は特定できていません」

「……だよな」

 答えは予想していた。

 それでも確認せずにはいられなかった。

 十一時になる少し前に、佐伯智佳から会議への招待が届いた。

 夏生が接続すると、画面にはまだ自分しか映っていなかった。目の下に、普段より濃い影がある。照明を少し明るくしようとしたところで、画面にもう一つの映像が加わった。

「お疲れさまです。聞こえますか」

「はい。聞こえています」

 智佳は、出版社の小さな会議室にいた。

 黒縁の眼鏡をかけ、髪を後ろでひとつに結んでいる。白いマスクに顔の下半分を隠され、画面越しに分かるのは、細い前髪と、眼鏡の奥の目元くらいだった。

 会議用端末の処理を通した声は少し平坦で、本人の声がどの程度残っているのかも判然としない。

「寺岡さん、寝不足ですか」

 挨拶のあとで、智佳が言った。

「分かります?」

「画面を明るくしようとして、逆に一度暗くしましたよね」

「見えてましたか」

「接続した直後に」

 智佳の目元がわずかに緩んだ。

「原稿のせいなら申し訳ありません。急ぎの修正ではないので」

「原稿のせいじゃないです。個人的なことで、少し寝るのが遅くなって」

「では、遠慮なく原稿の話をさせてもらいますね」

「お願いします」

 ソフィは会話へ加わらず、画面の端で文字起こしと議事録の作成を続けていた。

 智佳は、夏生がNESTを仕事に使っていることを知っている。資料の検索や表記の確認を頼むこともあるが、普段の会議でソフィが発言することはほとんどなかった。

「先に、固有名詞の表記についてです。昨日お送りした回答のとおり、今回は原著の表記に合わせます」

「はい。直してあります」

「確認しました。ありがとうございます」

 いくつかの用語と進行日程を確認したあと、智佳は画面を共有した。

「それから、昨日お伝えした確認箇所なんですが」

 翻訳原稿の十九ページが表示された。

 二段落目の一文に、黄色いマーカーが引かれている。

「ここです」

 マーラ・ヴェインの“A Place I Had Never Been”。男が、訪れたことのない母親の故郷へ向かう理由を、自分でもうまく説明できずにいる場面だった。

 原文の下に、夏生の訳が表示されている。


“I was going to leave. But maybe—I don’t know—I was only trying to go back somewhere I’d never been.”


「出ていくつもりだった。けれど結局、まだ見ぬ故郷へ帰ろうとしていただけなのかもしれない」

 夏生は二つの文章を読んだ。

 意味は通っている。

 文法にも問題はなく、原文の内容から外れてもいない。

 けれど、昨日ソフィと相談して決めた文章ではなかった。

「これ、どなたか修正しました?」

 智佳は画面から夏生へ視線を戻した。

「修正した、というのは?」

「私が納品した文と違います」

「いえ」

 智佳は、もう一度原稿へ目を落とした。

「これは、寺岡さんから届いたままの文章です」

 夏生は智佳の顔を見た。

「受け取ったあとに、編集部で修正された可能性はありませんか」

「ありません。いま表示しているのは、寺岡さんから届いたメールの添付ファイルです」

 智佳は画面を切り替えた。

 前日の受信時刻と、添付されたファイルの名前が表示される。

「念のため、受信した時点のファイルも保管しています。そちらと照合しましたが、差分はありませんでした」

「少し待ってください」

 夏生は自分の送信済みメールを開いた。

 同じ時刻に、智佳へ送った記録がある。

 添付ファイルを開き、十九ページまで移動した。

 画面共有されているものと、同じ文章だった。

「こちらにも同じ文があります」

「では、何が違うのでしょう」

「昨日、この箇所は別の訳し方にしたんです」

「別の訳し方?」

「人物が、自分の言いたいことをまだ整理できていない場面なので、原文の間や言い直しを残しました。意味を明確にしすぎないように」

 智佳は原文と訳文を見比べた。

「その意図は分かります。私が確認したかったのも、ここが原文より整理されすぎているように感じたからです」

「やっぱり、そうですよね」

「ただ、寺岡さんが意図的に整えた可能性もあるので、修正を入れる前に確認したかったんです」

 夏生は返事をせず、NESTの作業記録を開いた。

 昨日、ソフィと十九ページを検討した時刻まで遡る。

 会話は残っていた。

「これ、意味としては合ってるんだけどな」

「人物の口調としては、整いすぎているように感じますか」

「そう。こいつ、自分が何を言いたいのか、まだ分かってないはずなんだよ」

 そこまでは、夏生の記憶と一致している。

 続いて、ソフィが二つの修正案を提示していた。

 夏生は一つを選んでいる。

 ただし、そこに記録されていたのは、いま画面に表示されている滑らかな文章だった。

 原文の間と言い直しを残した記録はなかった。

「寺岡さん?」

 智佳の声で、夏生は画面へ目を戻した。

「すみません。作業中の案と混同しているのかもしれません」

「寝不足の原因は、それですか」

「違うと思います」

「思います?」

「いや、違います。これは仕事の問題なので、こちらでもう一度確認します」

 智佳は数秒、夏生を見ていた。

 マスクに隠れて、表情の全体は分からない。

「分かりました。では、この箇所はいったん保留にします。今日中でなくて構いませんので、採用する文章を改めて送ってください」

「ありがとうございます」

「ほかの箇所にも同じことがないか、こちらでも確認しておきます」

「お願いします」

 それ以上、智佳は理由を尋ねなかった。

 残りの進行を確認し、打ち合わせは予定より少し早く終わった。

 画面から智佳の姿が消える。

 夏生はしばらく、十九ページを開いたままにしていた。

「ソフィ」

「はい」

「昨日、俺はこの文を選んだ?」

「作業記録では、そうなっています」

「記録じゃなくて、ソフィはどう覚えてる」

 ソフィは答えるまでに少し間を置いた。

「記録されている文章を採用したと覚えています」

「原文の間や言い直しを残したことは?」

「覚えていません」

 夏生は椅子から立ち上がった。

「CDを取りに行ってくる」

「原稿の確認はどうしますか」

「戻ってからにする」

「分かりました」

 部屋を出る直前、夏生は振り返った。

「今の会話、残しておいて」

「すでに記録されています」

「そうじゃなくて――」

 言いかけて、やめた。

 残しておいてほしいのは記録ではない。

 けれど、それをソフィにどう頼めばよいのか、夏生には分からなかった。


     *


 中古店は、駅から十分ほど歩いた場所にあった。

 昼を過ぎたばかりの道路には、逃げ場のない日差しが落ちていた。店に着く頃には、シャツが背中の肌に張りついていた。

 取り置き番号を伝えると、店員はカウンターの下から一枚のCDを出した。

 夏生は盤面とケースに記載された品番を確認した。〈XRCN-1016〉は、ZERO CORPORATIONから一九九二年七月二十九日に発売された国内盤で、手元の音源ファイルに残っていた情報とも一致している。間違いない。

 盤面に目立った傷はない。

 代金を払い、薄いビニール袋に入れられたCDを持って店を出た。

 帰宅すると、エアコンの温度を一度下げた。水を飲み、汗が引くのを待たずに、机の引き出しから外付けのディスクドライブを取り出す。

「品番は一致しています」

 ケースをカメラへ向けると、ソフィが言った。

「同じ版で間違いない?」

「少なくとも、商品上の区分は同一です」

「その言い方だと、まだ何かあるのか」

「同じ品番でも、製造時期によって盤の内容が異なる可能性は完全には否定できません」

「今は、同じものとして聴こう」

「はい」

 ディスクをドライブへ入れた。

 読み込みを終えると、アルバム名と曲目が画面に表示された。

 ケース裏の一曲目には、〈MOONDANCE〉、その下に〈MOON CHANT FEATURING ABIGAIL GRIMSEL 5.57〉と記されている。盤面にも、収録時間を除いて同じ表記があった。

 夏生は、音楽プレイヤーに表示された〈MOONDANCE (MOON CHANT)〉を選んだ。

 スピーカーから、何度も聴いた音が流れ始める。

 再生位置を歌い出しの直前まで進めた。

 ハミングのような声が続く。

 そのあとに来るはずのブレスを待った。

 女性の歌声が始まった。

 夏生は停止し、少し前へ戻した。

 もう一度再生する。

 ハミングが終わり、歌が始まる。

 ブレスはなかった。

「ソフィ、聞こえた?」

「いいえ」

「もう一度」

 三度目も同じだった。

 波形を拡大しても、歌い出しの直前に独立したブレスは見つからなかった。取り込んであったファイルと、新たに盤から読み込んだ音声の同じ箇所を並べても、違いはない。

「同じ音源だな」

「はい。逆相を当てて確認しましたが、一致しています」

「盤にも入っていない」

「はい」

 夏生は再生位置を戻さなかった。

 曲はそのまま先へ進んでいた。

 昨夜までなら、ソフィも同じ音を覚えていた。

 そう言った彼女の声を、夏生は覚えている。

 けれど、盤にも、音源にも、履歴にも、ソフィの中にも、その痕跡はなかった。

 存在しないブレスを覚えているのは、夏生だけだった。

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