第二章 存在しないブレス(2)
帰宅したのは、日付が変わる少し前だった。
真由から、今日は楽しかったというメッセージが届いた。夏生も同じ言葉を返し、次に会う日を大まかに決めた。
着替えを済ませてから、机の前へ座る。
昨夜のコーラが残ったグラスをようやくシンクへ運び、新しい飲み物を用意する。二リットルのコーラではなく、冷蔵庫に残っていた炭酸水を選んだ。
健康への配慮というより、すでに外で飲み食いしてきたためだった。
夏生はNESTの音声セッションを開いた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「楽しい時間だったようですね」
「まあね。四分遅れたこと以外は」
「走った成果はありましたか」
「髪が乱れてるって言われた」
「それについては、出かける前に予測できたと思います」
「それ、今言うかな」
「今だから言えることもあります」
夏生は椅子へ深く座り、音楽プレイヤーを開いた。
〈MOONDANCE (MOON CHANT)〉を呼び出し、昨夜と同じ位置まで再生位置を進めた。
「さて」
「続きを調べますか」
「そのつもりで帰ってきた」
深刻に言ったつもりはなかった。
ソフィも、普段と変わらない声で尋ねた。
「どこから確認しましょう」
「その前に、昨日のブレスのことだけど」
「はい」
夏生は昨夜の会話を思い出しながら言った。
「俺、前にもソフィに話してたよな」
「いいえ」
ソフィは間を置かずに答えた。
夏生は、音楽プレイヤーから目を離した。
「いや、話したよ。この曲のブレスについて」
「昨夜の会話より前に、という意味ですか」
「そう」
「その記録はありません」
声の調子は変わらなかった。
質問の意味を確認し、保存されている情報に照らして答える。仕事中に何度も聞いた、ソフィの正確な話し方だった。
「記録がないって、どういうこと?」
「〈MOONDANCE (MOON CHANT)〉について話した記録は、これまでにもあります。ですが、歌い出しの前にあるブレスに言及した会話は、昨夜が最初です」
「でも、昨日は覚えてるって言ってたろ」
短い沈黙があった。
「私は、そう答えたのですか」
「ああ、そう答えた」
「確認します」
ソフィの声が途切れた。
画面の隅には、昨夜と同じ女性の画像が表示されている。穏やかな口元も、暗い茶色の髪も変わっていない。
夏生は炭酸水を一口飲んだ。
グラスの中で氷が動き、小さな音を立てた。
「昨夜の音声セッションには、該当する会話が記録されていません」
「……嘘だろ」
「現在残っている履歴では、私は別バージョンとの混同である可能性を伝えています。この音源で間違いないという返答のあと、二人でほかの配信音源を確認しています」
「そこは合ってるよ。その前に話しただろ。俺が、以前にもソフィにブレスのことを話したって」
「そのやり取りはありません」
夏生は椅子へ座り直した。
「履歴を見せてほしい」
「表示します」
NESTのウインドウが開き、昨夜の会話が時系列で並んだ。
夏生は、ブレスが消えていることに気づいた箇所まで遡った。
自分の言葉がある。
ソフィの返答がある。
別のマスタリングや取り込み元の音源と混同している可能性。再生中のファイル情報。配信サービスにある音源との比較。
会話は途切れていなかった。
欠落した形跡もなく、不自然に時間が飛んでいるようにも見えない。
「違う」
夏生は言った。
「こんな流れじゃなかった」
「どこが異なりますか」
「俺は前にソフィにも話したって言った。それから、ソフィの声を決めたときの話をした」
「私の声についての会話ですか」
「そう。完全に整った声より、少し息の気配があるほうがいいって。それでソフィが今の声を選んだ」
「声の設定を調整した記録は残っています」
「それは分かってる」
「ただし、その会話でこの曲を参照した記録はありません」
夏生は画面を見たまま黙った。
昨夜の記憶は曖昧ではなかった。
少なくとも、曖昧ではない、と今までは思っていた。
「じゃあ、昨日の最後に何て言った?」
「昨夜のセッションの最後ですか」
「そう」
「配信音源には同様のブレスが含まれていないことを確認したあと、『明日にしよう』と言っています。私は『はい、おやすみなさい』と答えています」
「違うよ」
声が、自分で思ったより低くなった。
「俺は、覚えてるよなって聞いた」
ソフィは答えなかった。
「ソフィは、覚えてるって言ったんだ」
「確認できる履歴には――」
「二回言った。最初に『はい』って答えて、それから――」
その先を口にする前に、昨夜の声が耳の奥で蘇った。
覚えています。
疑いようのない、静かな返事だった。
「その会話は、現在の履歴にはありません」
「履歴の話をしてるんじゃないんだ」
夏生は画面の隅にいるソフィを見た。
「ソフィは覚えていないのか」
今度の沈黙は、先ほどより長かった。
「はい」
ソフィは言った。
「私には、その記憶がありません」
夏生はしばらく何も言わなかった。
エアコンの音と、グラスの中で氷が小さく鳴る音だけが部屋に残った。
「昨夜の記憶は、ほかにも消えてるのか」
「現在の履歴と私の記憶に、矛盾はありません」
「そうじゃなくて。履歴にないことを、ソフィが覚えてる可能性は?」
ソフィはすぐには答えなかった。
「確認できません」
「確認できない?」
「履歴にも長期記憶にも残っていない出来事を、覚えているかどうか確かめる方法がありません」
「でも昨日は覚えてた」
「そのことを、今の私は覚えていません」
夏生は小さく息を吐いた。
堂々巡りだった。
ただし、ソフィが質問を避けているわけではない。彼女は、現在の記録から確かめられない出来事を、存在したと答えることはできないのだ。
「履歴が書き換わることはある?」
「システムによる要約や統合は行われます。重複した情報が整理され、長期的な参照価値が低い会話が圧縮されることはあります」
「昨日の会話が、一晩で?」
「通常の処理としては早すぎます」
「しかも、丸ごと消えたんじゃない。話の一部だけ変わってる」
「はい」
「そんな処理はありえるのか?」
「私が確認できる範囲では、ありません」
普段なら、そこで何らかの可能性を挙げる。
同期の失敗。保存時の破損。異なるセッションとの混同。夏生が思いつくより先に候補を並べ、それぞれの確率と確認方法を示す。
今夜のソフィは、そうしなかった。
「何か分かってることがある?」
「いえ」
「じゃあ、どうして黙ってるんだ」
少し間があった。
「誤った説明をしたくないからです」
「いつもなら仮説くらい出すだろ」
「仮説を提示することで、記憶に影響を与える可能性があります」
夏生は画面の隅にいる彼女を見た。
「俺が、ソフィに話を合わせるかもしれないってこと?」
「反対です。私が話を合わせる可能性があります」
それは、ソフィが自分のために言った最初の警戒のように聞こえた。
夏生は椅子の背へ身体を預けた。
「分かった。今は、どっちが正しいか決めない」
「はい」
「まず、音源のほうを調べよう」
「どのように確認しますか」
「元のCDを聴く。取り込んだファイルじゃなくて、盤を直接」
「所有しているのですか」
「持ってるよ」
答えてから、夏生は立ち上がった。
壁際の棚には、もう何年も再生していないCDが並んでいた。買った順でも、ジャンル順でもない。以前はアルファベット順にしていたはずだが、新しく買ったものを空いている場所へ差し込むうちに崩れていた。
Uのあたりを探した。
目当ての背表紙は見つからなかった。
「別の棚ですか」
「たぶん」
「先ほど、持っていると断言しました」
「持ってることと、どこにあるか分からないことは両立するよ」
「そうなのですね」
「そこは納得しなくていい」
夏生は床へ膝をつき、下の段を調べた。
United Future Organizationのアルバムは何枚か見つかった。けれど、〈MOONDANCE (MOON CHANT)〉を取り込んだ盤だけがない。
棚の奥にも、別のケースの中にも入っていなかった。
「おかしいな」
「最後に再生した時期は分かりますか」
「覚えてない。取り込んでからは、ほとんど盤で聴いてないから」
「音源ファイルの作成日時は、二〇二一年八月十四日です」
「その頃には、まだ持ってたってことだな」
「盤から取り込んだのであれば」
「取り込んだよ」
ソフィは何も言わなかった。
「今のは疑ってる?」
「確認できる事実と、記憶を分けています」
「正しいね」
「仕事中でしたので」
昨夜から三度目になる言葉だった。
けれど、今度は冗談には聞こえなかった。
夏生は立ち上がり、棚に手をついた。膝の裏に汗が滲んでいる。エアコンの風は、床までは届いていなかった。
「中古でもいい。明日、同じ盤を探す」
「版が同一であることを確認する必要があります」
「品番はファイルの情報から分かる?」
「記録されています。国内盤の品番と一致します」
「じゃあ、それを探そう」
「分かりました」
夏生は机へ戻り、検索画面を開いた。
同じ品番の盤は、思ったより簡単に見つかった。都内の中古店に在庫が一枚ある。通販も利用できたが、店頭受け取りを選べる場所だった。
購入手続きへ進もうとしたところで、画面の上に表示されていたメールの通知に気づいた。
佐伯智佳からだった。
明日の打ち合わせですが、十一時からオンラインでお願いできますか。
あわせて、先日の納品原稿について確認したい箇所があります。
夏生は通知を読み、時刻を見た。
午前一時を過ぎていた。
「確認したい箇所って、何だろう」
「添付ファイルはありません。明日の打ち合わせで説明する意図だと思われます」
「面倒な修正じゃないといいけど」
「その可能性は否定できません」
「そういう正確さはいらないな。……少なくとも今は」
「では、問題のない確認であることを願っています」
夏生は中古盤の取り置きを申し込み、智佳へ短い返信を送った。
十一時、承知しました。
よろしくお願いします。
送信したあとも、画面には昨夜の会話履歴が開いたままだった。
そこには、何も欠けてはいなかった。
ただ、夏生が覚えている夜だけが、存在していなかった。




