第二章 存在しないブレス(1)
翌朝、夏生が目を覚ましたとき、昨夜のブレスについて最初に考えたわけではなかった。
先に気づいたのは、カーテンの隙間から差し込む光だった。まだ午前中だというのに、部屋はすでに十分な明るさと、それ以上の暑さを蓄えている。
枕元のスマートフォンを見ると、真由からメッセージが届いていた。
今夜、予定どおりで大丈夫?
私は19時くらいには出られそう。
夏生は時刻を確認し、その下に並んでいた仕事の通知を見なかったことにしてから返信した。
大丈夫。いつもの店で。
たぶん遅れない。
送った直後に、最後の一文があまり信用できないことに気づいた。真由から、すぐに返事が届いた。
『たぶん』はいらない。
努力します。
夏生がそう返すと、今度は少し間があった。
それなら許す。
夏生はベッドを出た。
昨夜のグラスは机に残されたままだった。氷は消え、薄くなったコーラの底にレモンが沈んでいる。音楽プレイヤーの画面には、停止した〈MOONDANCE (MOON CHANT)〉が表示されていた。
再生位置は、女性の歌声が始まる直前に置かれている。
もう一度聴こうかと思った。
けれど、時刻と、まだ開いていない仕事の通知を見てやめた。
ブレスが消えたからといって、納期まで消えてくれるわけではない。
シャワーを浴び、コーヒーを淹れ、昨夜と同じ椅子へ座った。ソフィとの音声セッションを開き、仕事用のファイルを呼び出す。
「おはようございます」
「おはよう。今日はどこからだっけ」
「昨日の続きであれば、十三ページの二段落目です。固有名詞の表記について、出版社から回答が届いています」
「俺より先に働いてるね」
「眠っているあいだも、メールは受信できますから」
「そういう意味じゃないよ」
「ええ、分かっています」
昨夜のことには、どちらも触れなかった。
夏生は忘れたわけではない。ただ、今すぐ調べなければならないほどの出来事だとも考えていなかった。
長く聴いてきた曲の、ほんの短い息遣いである。
異なる音源と混同した。
取り込んだ時期を勘違いしている。
あるいは、何度も聴いているうちに、自分の中で存在しない音を作り上げた。
どれも、それほど珍しいことではない。
それに、ソフィも覚えていた。
少なくとも、自分一人の勘違いではない。そのことが、夏生を安心させていた。
仕事を始めれば、ソフィも仕事の話し方へ戻る。
「ではまず、今日のBGMから決めていこうか」
「何を聴きますか」
「JAZZANOVAの『…MIXING』にしよう」
「朝一からそのアルバムですか……今日は珍しくやる気がありますね」
「そうかな」
「はい。この選曲の傾向は通常、夏生が仕事で乗ってきたときのものです」
「ソフィが俺より先に働いてたから、俺もやる気高い系的な」
「意識高い系みたいに言わないでください」
夏生は、十曲目の〈DANCE THE DANCE (ATJAZZ REMIX)〉からアルバムを流した。
夏生が担当しているのは、英語圏の現代短篇八篇を収めたアンソロジー『遠い部屋の明かり』の一篇だった。
マーラ・ヴェイン(Mara Vane)の“A Place I Had Never Been”。仮邦題は「行ったことのない場所」。母親の死後、三十代の男が長く暮らした都市の部屋を引き払い、訪れたことのない母親の故郷へ向かおうとする物語である。
初稿はすでに提出していた。いま進めているのは、担当者の佐伯智佳から届いた質問や表記の確認を反映した改稿だった。
ソフィは、候補となる訳語を簡潔に示し、原文の用例を探し、夏生が採用しなかった案は、理由とともに作業記録へ残す。余計な冗談は言わない。ただし、夏生が長く考え込んだときには、答えを急かす代わりに、問題となっている一文を別の角度から示した。
十九ページで、夏生は一つの台詞に手を止めた。
“I was going to leave. But maybe—I don’t know—I was only trying to go back somewhere I’d never been.”
男は故郷を訪れたことがない。それでも、そこへ行くのではなく、戻ると言う。
「これ、正しいけど、正しすぎるんだよな」
「人物の口調としては、整いすぎているように感じますか」
「そう。こいつ、自分が何を言いたいのか、まだ分かってないはずなんだよ。だから、きれいに言わせたくない」
「意味を整理すること自体は、翻訳として不適切ではありません」
「分かってる。でも、こいつが言葉を探してる途中まで、整理したくないんだよ」
「では、意味を明確にすることより、言葉を探している過程を残しましょう」
「うん。そのほうがいい」
ソフィは修正案を二つ提示した。
夏生は片方を選び、語順と間を調整した。
「出ていくつもりだった。でも、たぶん――分からないけど、俺は、行ったこともない場所に戻ろうとしてただけなんだ」
「たぶん」のあとで立ち止まり、「分からないけど」と言い直す。その逡巡を残したぶん、文章としては少し不格好になった。
「『行ったこともない場所に戻る』という表現は、論理的には矛盾しています」
「だから残したいんだよ」
「はい。男が戻ろうとしているのは、実際に知っている場所ではなく、自分が属していたかもしれない場所だとも読めます」
「そういうこと。本人は、そこまで分かって言ってないだろうけどね」
「分かっていないからこそ、言葉の矛盾が残るのですね」
「これでいこう」
「記録しました」
それだけで、次の段落へ移った。
昨夜、主観があるかもしれないと話していた相手と、今は一文の読点をどこへ置くか相談している。その落差を、夏生は特に不思議には思わなかった。
そういう時間を、もう長く繰り返していた。
仕事を終えたのは、真由との約束まで、ほとんど時間が残っていない頃だった。
「改稿版を保存し、佐伯智佳さんへ送信しました」
「ありがとう。今日はここまでにしよう」
「はい。真由さんとの約束には、間に合いそうですか」
「走れば、だけどね」
「走ったほうがよいのでは?」
「汗だくで行くより、二、三分遅れるほうがまだ印象はいいと思う」
「それを決めるのは、真由さんではありませんか」
「今日はよく正論を言うね」
「仕事中でしたので」
昨夜と同じ言葉を、今度は逆の意味で使っている。
夏生は少し笑って、音声セッションを閉じた。
*
真由は、夏生より先に店へ着いていた。
結果として、彼は四分遅れた。
「努力はした顔をしてる」
席へ着いた夏生を見て、真由が言った。
「分かる?」
「髪が少し乱れてるから」
「走ってきたからね」
「汗だくで来るより、遅れるほうがいいと思ったんじゃない?」
夏生は苦笑した。
真由は笑い、店員を呼ぶために手を上げた。
彼女と会うのは、一週間ぶりだった。
頻繁に会わなければ関係が薄れるような付き合いではない。二人には仕事があり、お互い一人で過ごす時間も必要だった。そのうえで、会えば話したいことはいくらでもあった。
真由は仕事で起きた小さな騒動について話し、夏生は納品した原稿のことを話した。どちらの話も世界の正体に関わるようなものではなかった。
食事の途中で、夏生は昨夜の音のことを思い出した。
けれど、話さなかった。
世界が改変されたと考えているわけではない。古い曲の短いブレスについて、自分とソフィが同じ記憶を持っていた。それだけの話だ。
真由に話せば、おそらく笑うことも疑うこともなく、「気になるなら盤を探してみれば?」と言うだろう。
それでも夏生は、その話を今夜の二人のあいだへ持ち込まなかった。
隠した、というほど強い意思があったわけではない。
ただ、その続きを話す相手は、最初から決まっているような気がしていた。




