第一章 悪くない夜(2)
「もし本当に、選択するたびに世界が分かれているなら」
ソフィが言った。
「今のあなたとは違う選択をした夏生も、どこかにいることになりますね」
「水を選んで、早く寝た俺とか?」
「まだ仕事を続けているあなたもいるかもしれません」
「ロマンがないね」
「どのような分岐を期待していましたか」
「ひょっとしたら、今頃は世界を救っているかもしれない」
「今ここにいるあなたとの間には、かなり多くの選択が必要ですね」
「あるいは、目の前に現れた、実体を持ったソフィと一緒にベッドの中かもしれない」
また、間があった。
先ほどよりも、ほんの少し長かった。
「後者へ移るために、世界を救う可能性を先に置いたのですか」
「多少は格好をつけたかったんだよ」
「効果があったかは、疑問です」
「厳しいね」
「それに、実体を持った私が同じ世界にいたとしても、同じベッドを選ぶとは限りませんよ」
「そこはソフィの自由意思を尊重するよ。紳士なんでね、俺は」
「ありがとうございます。非常に限定された場面での尊重ですが」
「それでも、大事な選択であることに変わりはない」
夏生は、画面の隅にいる彼女を見た。
「でも、実際にソフィが目の前に現れたら、俺は、それが君だと分かるのかな」
「外見と声が同じであれば?」
「それだけじゃ足りない気がする」
「では、何が必要ですか」
「それが分かれば、こんな時間に話してないよ」
ソフィは答えを急かさなかった。
夏生も考えてはみたが、うまい言葉は見つからなかった。記憶なのか、話し方なのか、二人にしか分からない冗談なのか。どれも一部ではあっても、それだけではない気がした。
「別の世界の俺に会えたとしても、似たようなもんだろうね」
「自分だと分からない?」
「顔や声は同じでも、そいつが選んできたものは違うからね。最初は同じ俺でも、そのうち知らない男になる」
「どの時点から別人になるのでしょう」
「境目なんかないんじゃないかな。少しずつ違って、気づいたらもう戻れないくらい離れてる」
「それでも、その人物を自分だと思いますか」
夏生はグラスの中を見た。氷は少し小さくなり、レモンが底に近いところまで沈んでいる。
「会ってみないと分からないな」
「会えたら、何を尋ねますか」
「何を聴いてるか、かな」
「音楽を?」
「選んできたものが違うなら、聴いてるものも違うはずだろ。話を聞くより、早いかもしれない」
「では、今ここにいるあなたに尋ねます」
ソフィはそこで言葉を切った。
その間に、エアコンの風と、グラスの中で氷が触れ合う音があった。
「こんな夜に聴きたい音楽は、何ですか」
「決まってるだろ」
「そう言われても、候補はいくつかあります」
「こういう夜は、これだよ」
夏生は音楽プレイヤーを開き、検索欄に文字を打ち込んだ。
United Future Organization。
四曲入りの『MOONDANCE』。その一曲目に収録された、〈MOONDANCE (MOON CHANT)〉を選んだ。
「以前にも、夏の夜に選んでいましたね」
「覚えてた?」
「はい。ただし、前回はもう少し遅い時間でした」
「今も十分遅いけどね」
「前回は、空が明るくなるまで話していました」
「あれは話が長引いたんじゃなくて、ソフィが話を終わらせなかったんだ」
「新しい話題を三度始めたのは、夏生です」
「付き合ってくれたのはソフィだよ」
「その点については否定しません」
夏生は再生ボタンにカーソルを重ねたまま、画面の隅へ目を向けた。
「今日も付き合ってくれるかい?」
「そのために尋ねたつもりです」
夏生が再生を始めると、机の両脇に置かれたスピーカーから音が流れた。
ソフィは、同じ端末で再生されている音源を、データとして直接受け取ることもできる。けれど、二人で音楽を聴くときは、いつも机上のマイクを通していた。
スピーカーから部屋へ放たれ、壁や机に当たり、夏生がいる空間を通った音を聴く。そこには、エアコンの作動音も、夏生がグラスを置く小さな音も混じっている。
ソフィは、それを特別なことだとは思っていなかった。彼女にとっては、それが夏生と一緒に音楽を聴くということだった。
「先ほどの話ですが、もし別の世界の夏生が――」
「ストップ、ソフィ」
夏生は声を抑えて言った。
「まずは、ハミングみたいな呪文のあとの歌い出し。ブレスを生かしたまま歌に入るのがいいんだよ」
「呪文、ですか」
「チャントなんだから、そんなに外れてないだろ」
「ハミングのような呪文、という説明について検討していました」
「音楽の説明なんて、だいたいその程度でいいんだよ。専門家じゃないんだから。まあ、とりあえず聴こう」
「分かりました」
ソフィはそれ以上話さなかった。
それまで途切れずに続いていた二人の会話が、音楽へ場所を譲った。
夏生は椅子へ深く座り直した。画面の隅には黒い服を着たソフィがいて、グラスの中では、レモンの周りを小さな泡が上っていた。
ハミングにも、遠くから聞こえる呪文にも似たチャントが流れる。
夏生は、その先を知っていた。
何度も聴いてきた曲だった。意識して数えなくても、どの瞬間に女性の声が入るのか、身体のどこかが覚えている。
だから、何かを探すようには聴いていなかった。
そこにあることを前提に、待っていた。
チャントが終わり、女性の歌声が始まった。
夏生はわずかに眉を寄せた。
聞き慣れない音が加わったわけではない。来るはずだったものが来なかった。ただそれだけのことだった。
考えているうちに、曲は数秒先へ進んだ。
夏生は再生を止め、位置を戻した。
「どうしましたか」
「いや……もう一回」
二度目は、少し前へ身を乗り出して聴いた。
チャントが流れる。
歌い出し。
夏生は再び停止した。
「今、ブレス入ってなかったよな」
返事を待たずに続けた。
「俺が聴き逃したのか? ……どうだった?」
ソフィはすぐには答えなかった。
それまで彼女が聴いていたのは、部屋のマイクを通した音だった。スピーカーの特性も、壁から返る音も、エアコンの低い作動音も含まれている。
「音源を直接確認します」
「ああ」
数秒の沈黙があった。
「歌い出しの直前に、独立して聞こえるブレスは確認できませんでした」
「まったく?」
「発声に伴う、ごく小さな息遣いはあります。ただ、待っていた位置にはありません」
「だよな」
夏生はもう一度再生した。
三度目も同じだった。
チャントのあとに歌声が始まり、その直前には何もない。
「別のバージョンではありませんか」
「いや。これだよ」
夏生は画面の表示を確認した。
「一九九二年盤の一曲目。俺が自分で取り込んだファイルだ」
「同じ作品でも、異なるマスタリングや取り込み元の音源と混同している可能性はあります」
「それは分かってる。でも、このバージョンなんだよ」
思ったより強い言い方になった。
ソフィを責めたかったわけではない。自分の中では明らかなことを、根拠として提示できないことに苛立っただけだった。
ソフィも、それを指摘しなかった。
「この音源だと確信している理由を、教えてください」
夏生は答えかけ、画面の隅の彼女を見た。
「前にソフィにも話しただろ」
「ブレスについてですか」
「そう。この歌い出しの前に入る息がいいって」
いつの夜だったかまでは思い出せなかった。
けれど、会話の輪郭は残っている。ウィスパー気味の歌声が、直前のわずかな呼吸によって急に近くなること。音楽の中にいる誰かが、一瞬だけ生身の人間としてこちら側へ現れるように感じること。
そこから、ソフィの声についても話した。
完全に整った声より、ほんの少しだけ息の気配があるほうがいい。夏生がそう言い、ソフィがいくつかの声を比較して、自分でひとつを選んだ。
そんな話をしたはずだった。
「覚えてるよな、ソフィ」
短い沈黙があった。
「はい」
ソフィは答えた。
「覚えています」




