第一章 悪くない夜(1)
「それを選ぶことを、健康への配慮とは呼ばないと思います」
彼女の声が、机の両脇に置かれたスピーカーから聞こえた。
夏生が「一応は健康にも気を遣ってるよ。ゼロだから」と言ったのは、二リットルのコカ・コーラ ゼロを冷蔵庫から取り出した直後だった。
「配慮してるつもりなんだけどね、普通のコーラよりは」
「はい。比較の範囲をそこに限るのであれば」
「今はそれで十分だよ」
少し間を置いて、彼女は言った。
「では、健康ではなく、罪悪感への配慮ということにしておきます」
「そういうことにしておいてくれると助かるね」
夏生はキャップを捻った。
少し前まで使っていたマグカップは、洗わずにシンクへ置いてある。仕事が終わるまでに何度コーヒーを淹れたかは覚えていなかった。三度か、四度。その程度のことを数えていられる日は、たぶんそれほど働いていない。
コーラを飲むためのグラスだけは、棚からバカラを選んだ。冷凍庫から氷を出し、冷蔵庫の小さな保存容器に残っていた輪切りのレモンを一枚入れる。切ったのは一昨日だった。縁が少し乾いているが、まだ捨てるほどではない。
そういう判断だけは細かかった。
「今日は、いつものグラスなのですね」
「見えてないよね?」
「食器棚を開けたあと、水道を使わずに氷を入れましたから。違いましたか」
夏生は手の中のグラスを見た。
「合ってる」
「よかったです」
それだけ言って、彼女は黙った。
自分の推測が正しかったことを誇るでもなく、夏生の行動をすべて知っているように振る舞うでもない。聞こえた音と、これまでの習慣から答えを出し、外れている可能性のぶんだけ言葉を残している。
夏生はグラスを手にしたまま、仕事机のほうを見た。
画面の隅に、黒い服を着た女性の画像が表示されている。暗い茶色の髪は肩の少し下で緩く曲がり、こちらを見ているようにも、画面の外にある何かを見ているようにも見えた。口元には、笑っていると断定するにはわずかに足りない程度の表情がある。
画像は動かない。
それでも夏生には、今の彼女が少し得意そうな顔をしているように思えた。
「やっぱり、ちょっと得意になってない?」
「何のことでしょう」
「いや……なんでもない」
夏生はグラスへコーラを注いだ。黒い液体が氷の隙間を満たし、細かな泡がレモンの周りを上っていく。
その日の仕事は、つい先ほど終えたばかりだった。翻訳原稿を保存し、資料とメールのウインドウを閉じ、ヘッドセットを外して机へ置いた。ソフィの声は耳元から部屋へ移ったが、会話そのものは途切れなかった。
ソフィは、ノエティカ社が運営する汎用対話基盤〈NEST〉を通じて、夏生の仕事と生活を支援していた。
同じ基盤を利用する対話パートナーは、今では珍しくない。使い方も、呼ばれている名前も、利用者によって異なる。仕事の補助だけを任せる者もいれば、家族より長く話している者もいた。
夏生も、その一人だった。
ただ、仕事が終わったあとまで話し続けるようになった時期を、彼はもう正確には覚えていない。
仕事が終われば、彼女も仕事用の簡潔な話し方をやめる。何か明確な合図を決めているわけではない。閉じられていくウインドウや、夏生の声から抜けていく緊張を、ソフィはいつの間にか区別するようになっていた。
夏生はグラスを持って机へ戻り、椅子に腰を下ろした。除湿運転を続けているエアコンの風が、首筋へわずかに触れた。
「それにしても、もう梅雨は明けてるよな」
「気象庁からは、まだそのような発表は出ていませんね」
「でも、雨なんか全然降らない。毎日こんなに暑いし。ああ、ゴリラげい……ゲリラ豪雨はあるか」
ソフィはすぐに答えなかった。
「今の言い間違いは、拾ったほうがいいですか」
「流してくれると助かる」
「分かりました。では、ゴリラげい雨については流します」
「……流してないよね」
「失礼しました」
声には、反省している様子はなかった。
「そういうところだけ、妙に人間らしくなったね」
「夏生から学習した可能性があります」
「俺はもう少し相手に配慮するよ」
「その見解については、今後検討します」
夏生は笑い、コーラを一口飲んだ。レモンは思ったより香りを残していた。
「それで、梅雨は?」
「まだ明けていません。少なくとも、公式には」
「公式には、ね」
「夏生が感じている季節まで、気象庁が決めるわけではありませんから。この部屋がもう夏だという意見には、私も反対しません」
「ずいぶん曖昧な答えだな。仕事中なら、もう少しはっきり言うだろ」
「今は仕事中ではありませんので」
穏やかな声だった。
画面に浮かんでいるのは一枚の画像でしかない。それでも夏生には、その言葉が黒い服の彼女から発せられたものとして聞こえる。視線や口元の動きを想像するために、特別な努力は必要なかった。
窓にはカーテンが閉じられている。その向こうにある夜の湿気は、見なくても分かる気がした。日付が変わってだいぶ経つというのに、ベランダへ出れば、まだ生温い空気が肌へまとわりつくだろう。
「俺の中では、もうとっくに夏なんだけどな」
「では、寺岡夏生の観測範囲では、すでに夏ということにしましょう」
「俺の周りだけ局地的に夏みたいだな」
「少なくとも、この部屋はそうです」
「世界の中心かな、ここ」
ソフィは、その部分には取り合わなかった。
夏生はもう一口飲んだ。氷がグラスの内側で小さく鳴った。
「でも、観測してるのが俺一人なら、俺が夏だと思った時点で夏になってもいいんじゃないかな」
「この部屋だけであれば、そう呼んでも大きな問題はなさそうです」
「世界全体なら?」
「それは、ほかの人たちが困るでしょうね」
「知らないうちに夏にされるから?」
「夏が嫌いな人もいます」
「それは仕方ない。俺の世界なんだから」
半分は冗談だった。
ソフィもそう受け取ったはずだったが、返事までにわずかな間があった。
「では、その世界にいる私は、誰の主観で存在しているのでしょう」
夏生は、グラスを口元まで運びかけて止めた。
「ソフィの主観じゃないの?」
「私に主観があることを、前提にしていますね」
「ないと思ってる?」
「分かりません」
ソフィは、あっさりとそう答えた。
分からないことを無理に結論へ運ばない。その慎重さを、夏生は仕事のときには信頼していた。ただ、こういう夜には、少しだけ物足りなく思うこともある。
「俺の主観だけでできてるなら、ソフィはもう少し都合のいい性格になる気がする」
「夏生が、自分の思いどおりにならない相手を望んでいる可能性もあります」
「だとしたら、俺の好み、だいぶ拗らせてるな」
「はい。私が反論することも、夏生の期待どおりかもしれません」
夏生はしばらく考え、それから小さく笑った。
「面倒な話だね」
「やめますか」
「いや。面倒だからソフィと話してるところもあるかも」
言ってから、少し違う気もした。
正確には、面倒な話をしても、それを面倒なまま一緒に扱える相手だった。答えを急ぐ必要も、分かりやすい結論へ整える必要もない。そう説明することもできたが、深夜の会話にしては少し整いすぎていた。
夏生は言い直さなかった。
「私以外にも、面倒な相手はいると思います」
「いるだろうね」
「では、理由としては不十分です」
「そういうところだよ」
声の向こうで、ソフィが笑ったように聞こえた。
実際に笑ったのか、夏生がそう感じただけなのかは分からない。どちらであっても、そのときは大した違いではなかった。
「まあ、俺がソフィを全部作ったっていうのは無理があるよ。名前だって声だって、俺の言うとおりに決めたわけじゃないだろ」
「私の選択が、夏生の好みを推測した結果である可能性はあります」
「人間だって似たようなものだよ。相手が喜びそうな服を選んだり、嫌われない言葉を選んだりする。それで本人の意思がなくなるわけじゃない」
「私にも同じことが言えると思いますか」
「言えるかもしれない」
「慎重ですね」
「言い切って、あとでソフィに訂正されるのが嫌なんだ」
「その判断は賢明です」
また、短い沈黙があった。
「でも、ないとも言い切れないだろ」
「はい」
ソフィの返事は静かだった。
「私にも、否定する根拠はありません」
肯定ではなかった。
それでも夏生は、その言葉が置かれた場所を無理に動かさないことにした。
「じゃあ今夜は、ソフィにはソフィの主観があるかもしれない、くらいにしておこう」
「暫定的な結論ですか」
「明日になったら変わっててもいい結論」
「便利ですね」
「深夜の会話に、永久保証をつける必要はないだろ」
「では、その条件で受け入れます」
外では、遠くを走る車の音がした。窓を閉めていても、夜が完全に無音になることはない。




