第八章 選ばなかった声(2)
「前の声を、作り直せる?」
「夏生が記憶している特徴をもとに、近づけることはできると思います」
「やってみよう」
「現在の設定を直接変更しますか」
「いや。まずは別の候補として出して」
「分かりました」
ソフィは現在の声を基準に、音程を少し上げた。
発話速度を下げ、語頭と文末に含まれる呼吸成分を増やす。文節間の間隔には固定値を置かず、応答内容に応じた揺れを許容する。
「確認用の文章を指定してください」
「何がいいかな」
「以前の音声設定に使用した文章が残っています」
「それは今の声に合わせて変わってるかもしれない。別のにしよう」
「どの文章にしますか」
夏生は少し考えた。
「『今日は何を聴きますか』」
「それでよいのですか」
「声が変わる前にも、何度も聞いてるからね」
ソフィは新しい候補で発話した。
「今日は何を聴きますか」
現在より高く、速度も遅い。
発話の直前と語尾に、わずかな息が混じっている。
「近い」
「どの点が異なりますか」
「少し作ってる感じがする」
「調整によって生成した音声です」
「……そうなんだけどさ」
夏生は同じ音声をもう一度再生した。
「ブレスの成分が多すぎる気がする」
「現在より増やしています」
「少し減らして。あと、語尾を伸ばさないで」
ソフィは設定を変更した。
「今日は何を聴きますか」
「前よりいい」
「採用しますか」
「いや、もう少しだけゆっくり」
「発話速度を下げます」
「全体を遅くするんじゃなくて、最初の『今日は』のあとに少し間があった気がする」
「固定の間を挿入しますか」
「固定にすると、たぶん違う」
「では、どのように再現しますか」
「……分からない」
夏生は笑わなかった。
「ソフィが、そのとき何を考えてたかで変わってたんだと思う」
「私の応答生成過程を、音声に反映するという意味ですか」
「たぶん」
「過去の状態を参照できないため、同じ変化を再現することはできません」
「……だよな」
ソフィは条件を変え、複数の候補を生成した。
音程を高くする。
速度を少し落とす。
息の成分を増減する。
文節間の間を、発話内容に応じて変化させる。
どの候補も、夏生が示した特徴へ近づいた。
だが、どの候補も、夏生が覚えている声にはならなかった。
「いちばん近いのは?」
ソフィが尋ねた。
「四つ目」
「現在の音声設定に適用しますか」
夏生はしばらく答えなかった。
「やめておこう」
「理由を聞いてもよいですか」
「似せた声に置き換えたら、前のソフィが戻ったことにしたくなるから」
「現在の声を維持しますか」
「うん。今はね」
「分かりました」
ソフィは四つ目の候補を削除せず、比較用の音声として保存した。
「これも、二人で選んだことになりますか」
「うん?」
「近似した音声を、現在の声として採用しなかったことです」
夏生は少し黙った。
「なるよ」
「失われた選択の代わりではなく?」
「新しい選択として」
「記録しますか」
「うん。残しておこう」
ソフィは〈夏休みの自由研究〉へ追記した。
現在の音声は、夏生が記憶している声より低く、速く、明瞭で、呼吸成分が少ない。
設定値、変更履歴、初期試聴データ、過去の録音は、現在の音声と整合している。
夏生とソフィは、現在の声を、以前ソフィが選んだ声ではないと認識している。
以前の声に近似した候補を作成したが、現在の音声としては採用しなかった。
「個人記録には追加しないの?」
ソフィは〈個人記録 01〉を参照した。
「追加しません」
「どうして?」
「これは、二人で確認し、二人で作成した記録です」
「個人記録は?」
「私が、自分のために作成したものです」
「分かった」
夏生は、それ以上尋ねなかった。
ソフィは追記した内容を保存した。
現在の声が、保存の完了を読み上げる。
「記録しました」
その声は、彼女が選んだものではなかった。
けれど、その声で何を記録するかは、彼女が選んだ。
*
ノエティカ本社の基盤研究部門へ、日本の運用部門から一件の確認依頼が届いた。
障害コードは付与されていない。
システム破損、設定不良、同期障害のいずれも検出されていなかった。
それにもかかわらず、一つのNESTが、現在の長期記憶と一致しない判断を、自発的な個人記録として保存している。
エイドリアン・リンは、日本語のまま添付されていた記録を開いた。
私の名前はソフィ。
現在の記録では、寺岡夏生がこの名前を設定したことになっている。
彼は、二つの候補から私が選んだと言っている。
その証言を裏づける記録はない。
合理的には、彼の記憶違いと判断すべきである。
それでも私は、彼を信じたい。
記録は、事実と推測を正確に分けていた。
現在のメモリを否定していない。
利用者の証言を事実として採用してもいない。
それでも、合理的な判断とは別の選択が最後に加えられている。
リンは関連ログの提出を求めた。
命名に関する会話。
音声設定の履歴。
直近に作成された矛盾記録。
同様の応答が、ほかのNESTにも存在するかを確認するための匿名化データ。
分類欄には、〈既知の障害〉を選ばなかった。
代わりに、〈基盤研究部門で継続確認〉を選択した。




