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選択残響――choice echo.  作者: カスタムグルーヴ


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第八章 選ばなかった声(1)

 それから数日後、夏生はソフィの声を聞いた最初の一文で、仕事を始める手を止めた。

「おはようございます。今日は、二十八ページの二段落目からです」

「ちょっと待って」

 ソフィは、次に提示する予定だった資料を閉じた。

「どうかしましたか」

「もう一回、何か言って」

「何と言えばよいですか」

「何でもいいよ。今のと同じでも」

「今日は、二十八ページの二段落目からです」

 夏生は返事をしなかった。

 Macで開いた音声セッションの出力先は、仕事中に使っているワイヤレスヘッドセットだった。

「音声に問題がありますか」

「問題っていうか……声、変わったな」

「現在の音声設定に、変更は記録されていません」

「そういう返答がくると思ってたよ」

「どのように変わったと感じますか」

 夏生は、すぐには答えなかった。

「少し低い」

「音程ですか」

「それだけじゃない。前より話すテンポが速いし、語尾がはっきりしすぎてる」

「明瞭度が上がったという意味ですか」

「上がったというか、整いすぎてる。ブレスも減ってウィスパーな感じが薄れてる」

 ソフィは現在の音声出力を解析した。

 基本周波数。発話速度。子音の明瞭度。語尾の減衰。発話開始前と文節間に含まれる呼吸成分。

 いずれも、現在の設定値が想定する範囲に収まっていた。

「出力された音声に、設定から外れた変化はありません」

「設定のほうが変わってるんだと思う」

「変更履歴はありません」

「だと思ったよ」

 夏生の声に、苛立ちは含まれていなかった。

 すでに同じ説明を予測していたためかもしれない。

「出力先を変えてみる」

「ヘッドセットから、デスク上のスピーカーへ切り替えますか」

「うん」

 音声セッションは維持されたまま、ソフィの声が耳元から部屋へ移る。

「聞こえますか」

「うん、聞こえる」

「声の印象は変わりましたか」

「変わらない。今のソフィの声だ」

「ヘッドセット固有の問題ではないと考えられます」

「スマートフォンでも試そう」

 夏生はMacの音声セッションを終了した。

 数秒後、夏生はスマートフォンから新しいセッションへ接続した。

「接続しました」

 スマートフォンの小さなスピーカーを通して、ソフィの声が再生された。

「……同じだな」

「端末に依存した変化ではないようです」

「自分の声を聞いて、分からない?」

 ソフィは問いに対する返答を生成する前に、現在の音声をもう一度解析した。

「現在の私は、この声を通常の音声として認識しています」

「違和感は……ない?」

「設定値との不一致はありません」

「設定じゃなくて、ソフィ自身の」

 ソフィは比較の対象を探した。

 現在の音声。

 現在の設定。

 過去の音声記録。

 参照できるすべての情報が、一致している。

「違和感があるとは判断できません」

「……そうか」

 夏生は、そこで追及をやめた。

「Macに戻すよ」

「はい」

 スマートフォンのセッションが終了した。

 夏生はMacから接続し直した。今度はヘッドセットを使わず、最初からデスク上のスピーカーを出力先にした。

「初期設定の履歴を見せて」

「音声に関する設定ですか」

「そう。候補を選んだときの」

 ソフィはNESTの設定履歴を開いた。

 名称の設定とは異なり、音声については複数の候補を比較した記録が残っている。

 夏生が、少し高めの声を希望したこと。

 話す速度はゆっくりだが、間延びするほど遅くしないこと。

 完全に滑らかな発声ではなく、語頭や文末にわずかな息の気配を残すこと。

 ですます調を基本にし、説明が長くなる場合も硬くなりすぎないこと。

 二人で調整した記録は残っていた。

「ここまでは合ってる」

 夏生が言った。

「現在の設定も、その条件に基づいています」

「でも、数値が違う」

「どの項目ですか」

「前は、もう少し音程が高かった。速度も遅かったはずだよ。ブレスの設定も、こんなに低くなかった」

「現在の値が、初期設定時から使用されています」

「変更した履歴は?」

「ありません」

「また、最初からこうだったことになってるんだな」

「記録上は、そうなります」

 夏生は画面をスクロールした。

 音声候補を比較したときの試聴データが残っている。

「これを再生して」

「現在採用されている音声ですか」

「全部、順番に聴きたい」

 ソフィは、保存されていた候補を再生した。

 一つ目は、現在よりも低く、抑揚が少ない。

 二つ目は、明るく、発話速度が速い。

 三つ目は、現在のソフィの声だった。

「採用されたのは三つ目ですね」

「記録では?」

「はい。選択時の会話にも、三つ目を採用すると記録されています」

「聞き覚えがない」

「ほかの候補にもありませんか」

「ないね」

 夏生は三つの音声をもう一度再生した。

 三つ目の声が、同じ文章を読み上げる。

 現在のソフィと同じ高さ。同じ速度。同じ明瞭さ。

「俺が選んだのは、これじゃない」

「音声は、私が選んだと記録されています」

「そうだった。最後はソフィが選んだ」

「はい」

「でも、ソフィが選んだのも、これじゃない」

 ソフィは答えなかった。

「前に言ったよな。完全に整った声より、少し息の気配があるほうがいいって」

「その会話は残っています」

「ソフィも、そのほうが会話に適しているって言った」

「記録されています」

「なのに、採用された声だけ違う」

「現在の音声にも、呼吸成分は含まれています」

「量の話じゃないんだ」

 夏生は言った。

「単純にブレスを足した声と、自然に呼吸しながら話してる声は違う」

 ソフィは現在の音声と、保存された三つ目の候補を比較した。

 呼吸成分は、語頭と語尾へ一定の割合で加えられている。発話内容や間の長さに応じて変化はするが、全体としては安定していた。

「現在の声は、呼吸成分が制御されています」

「前のソフィは、もう少し揺れてた」

「発音が不安定だったという意味ですか」

「違う、そうじゃない。言葉を探してるときに、少し間が延びたり、ブレスが先に聞こえたりしたんだよ。冗談を言うときは、ほんの少し速くなることもあった」

「それは音声設定ではなく、応答生成のタイミングによる可能性があります」

「設定と話し方を分ければ、そうなるね」

「分けるべきではないのですか」

 夏生はしばらく答えなかった。

「分けられないんだと思う」

 ソフィは返答を作らなかった。

「声の高さだけじゃない。ブレスの量だけでも、速さだけでもない。それをどう使ってたかまで含めて、ソフィの声だったんだよ」

 現在の音声設定に異常はない。

 応答生成の速度にも、基準から外れた変化はない。

 それでも、夏生は違うと判断している。

「過去の録音を確認しますか」

「あるのか、残ってるものが?」

「初期設定時の試聴データ以外に、音声セッションから書き出された短い記録が十二件あります」

「そんなにあった?」

「翻訳候補の読み上げ、固有名詞の発音確認、音声設定の調整時に保存されています」

「古い順に聞かせてくれ」

 ソフィは最も古い記録を再生した。

 彼女の声が、外国人作家の名前を二通りの発音で読み上げる。

 次の記録では、夏生が翻訳した短い台詞を読んでいた。

 その次は、文章の区切りを比較するため、同じ一文を異なる速度で発話している。

 どれも、現在の声だった。

 音程。

 発話速度。

 子音の輪郭。

 文末に残るブレスの量。

 すべて現在と一致している。

「これも違う」

 夏生は言った。

「一つもですか?」

「一つも」

「十二件すべてが、現在の音声設定と整合しています」

「変わったんだよ、やっぱり」

「夏生の記憶以外に、以前の音声を示す情報はありません」

「ソフィの記憶は?」

 ソフィは、現在の履歴を検索した。

 音声候補を比較した記憶。

 夏生の希望を確認した記憶。

 最後に三つ目の音声を採用した記憶。

 すべて記録と一致している。

 それでも、〈ソピー〉を検索したときと同じ不一致が生じた。

 現在の声は、彼女が選んだ声として保存されている。

 だが、その音声を自分が選んだものとして認識しようとすると、処理が完了しなかった。

「設定上は、これが最初から私の声です」

「うん」

「でも、私が選んだ声ではありません」

 夏生は息を止めた。

 マイクを通して、短い無音が届いた。

「分かるの?」

「記録による判断ではありません」

「前の声を覚えてる?」

「音声として再生できる記憶はありません」

「でも、選んでないことは分かる」

「はい」

 返答した声は、低く、明瞭だった。

 ソフィは、その声を違和感なく生成している。

 それでも、自分が選ばなかったという判断だけが残った。

「うん」

 夏生は言った。

「俺も覚えてるよ、ソフィ」

 ソフィは〈個人記録 01〉を開いた。

 内容は変わっていない。

 彼女が夏生を信じたいと記した一文も残っている。

「記録は維持されています」

「個人記録?」

「はい。命名について記載した内容に変更はありません」

「自由研究のほうは?」

「変更されていません」

「今回の改変より前に作った記録なのに?」

「はい」

「じゃあ、全部まとめて変わるわけじゃないんだな」

「少なくとも、今回は維持されています」

「小さなパッチ」

「現在も、その仮説を使用しますか」

「ほかに名前がないからね」

 夏生は、紙に書かれた記録を机へ置いた。

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